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コミュニケーションのはなし

こんにちは。

二日です。

突然ですが、皆さんは美術館の展示や、商業施設で行われる展覧会等、何かしらの「展示会」に行ったことはありますか。ここでいう「展示会」は、誰かの「作品」が展示されている会をイメージしていただければと思いますが、例えば美術館の展示は1番初めに思いつくでしょうし、学校の文化祭の美術部や書道部等の展示もありますし、百貨店などのイベントスペースで行われたりするような展示会もありますし、あるいはアニメや漫画などの原画展のような展示もありますね。

私は自分で「作品」を意識するようになった大学3回生から、サークルでお世話になっていたギャラリーで開催される展示に、写真展が主ではありますが、そこそこの頻度で行くようになったり、写真展に限らず、近くの美術館で興味のある絵画等の展示があればそれにも足を運んだりしています(美術館に行くのは半分くらい「ブルーピリオド」の影響ですが)。

ただ、今でこそ作品展示を見に行くハードルは下がりましたが、やはり以前は少しハードルが高く感じられましたし、どうせ見ても「わからない」だろうと思っていました。皆さんの中にも、美術やアートの展示って「わからない」ものだと思っている方もいるかと思います。

これから話すのは、「こうすれば作品展示を楽しく見れるようになる」とか「人の作品はココを見れば良い」とか、そんな芸術についての知識を要するアドバイスのような話ではなく、「こういうスタンスで見ても良いんじゃないか」という精神論的な話です。

芸術作品って「わからない」と考えている人のほとんどは、その作品の「正解」を探してしまっているのではないかとと思います。私も作品を作る時に、「ここはこういう理由があってこうする」というポイントをいくつか組み込んで創作しているので、「作品」には作者の意図があり、その意図を伝えるために「作品」にしているのだということはある程度理解しているつもりです。ですが、別に「正解」なんてわからなくても良いと思いますし、わからなくても受け手は何も悪くないと思っています。

そもそも「作品」には、だいたい2種類あると思っています。①受け手に伝わるかどうかより、自分がしたい表現を重視する「自己満足型」と②自分がしたい表現も突き詰めつつ、受け手に伝わることの方を重視する「思いやり型」です。

①の場合、作者本人がやりたいことをできればそれで満足しているという点で、別に受け手がその「正解」がわからないと思ってしまっても問題ないと思います。「お笑い」に例えると良いかもしれません。本人が楽しそうにネタを披露して、多分本人は面白いと思ってこのネタをしているんだろうなということはわかっても、何が面白いのかは受け手には伝わらないというような状況があったとして、その時に笑っていない受け手の方が悪いなんてことはないでしょう。②の場合は単純で、受け手に「正解」が伝わらないのは、それを伝えきれない作者の責任だと考えているので、もし作品を見て「正解」がわからなくても、受け手は何も悪くないのです。

では「作品」を見る時に「正解」を探ることにこだわらなくて良いなら、何のために「作品」を観賞するのでしょう。

私は「作者とコミュニケーションを取るため」だと思っています。壁にかけられた1つの作品には、それぞれに作者がいて、それぞれに作者の意図が込められています。ただ、先に述べたように、その意図を正確に読み取ることが1番の目的ではなく、それよりももっと手前の、「この作品はこう見える」というのを探したり、この色が好きだとか、タイトルや解説と照らし合わせて(タイトルや解説はできるだけ後に見るほうがいいかも)、また作品を見返してみたり、あるいは「ここはこうした方がいいだろ」と知識が無いなりにも批評してみたりとか、自分が「わからない」以外の何かしらの感想を持つところから、その作品を通した作者との「会話」が始まるのです。

初めに自分が抱いた些細な感想は蔑ろにせず、次は「連想ゲーム」を始めてみます。お題は当然、作者が私に示している目の前の「作品」の中にあるものです。描かれているモチーフや色や形など、どんな些細な要素でも良いです。1つの要素から連想ゲームを始めてある程度続いたら、また別の要素から連想ゲームを始めて、という風にいくつかの要素で連想ゲームをしてみます。その作品のテーマに近い単語が連想されることもあれば、全く違うように思える単語も連想できると思います。とにかくここでは、少しだけ自分の視野を広げることが目的となります。

そうして、初めとは少しだけ違う「目」になった時に、改めてその「作品」を見て、それがどう見えるか確認してみます。もしかしたら、その作品の意図が少し理解できるようになっているかもしれないし、やっぱり何言ってるかわからないと思うかもしれないですが、少しは見え方が変わるかもしれません。

最後にもう一度タイトルや解説などを見返してみて、最終的な自分の感想を決めます。「綺麗」「かっこいい」「不思議」など表面的な感想から、「この作品の意図に共感した」というような本質的な感想まで、様々な感想を抱くことができると思います。この時点で「理解できる」作品だと感じたなら、これから自分の心の中で、その作品との付き合いが始まり、「理解できない」と感じたなら、別にその作品と無理に付き合うことはないのです。もちろん、その「理解できない」を「理解したい」と思ったなら、より積極的に「会話」をしたり、時にはネットで色々調べてみたりして、より自分の視野を広げてみてみても良いかもしれません。

要は、その作品と「友達」なりたいかどうかという感じです。

例えば、初対面の人と会った時、まずは第一印象で様々なことを判断します。容姿、態度、言葉遣い等、目に見えてわかりやすい要素から、些細な要素を以て、人間は相手に対して色んな「感想」を抱きます。その第一印象だけで「この人のことは理解できない」と切り捨ててしまいそうになる時もあるかもしれませんが、積極的にしろ消極的にしろ、何かしら「会話」をすることになると思います。その時にまた、その相手の様々な要素から、もしくは自分の経験則から、色々なことに気づき始めます。その結果、今後もこの人と「付き合いたい」と思ったり、この人とはもう「付き合いたくない」と思ったりします。あるいは、まだよくわからない人だけど、この人のことを「理解してみたい」と思うかもしれません。

作品を観賞するというのは、きっとそういうことなんだと、私は思います。まぁ、「『作品』と会話する・友達になる」=「『作者』と会話する・友達になる」が必ずしも成立するとは思いませんが、それでも、「作品」に対して行った「会話」は、その「作者」との「コミュニケーション」とも言えるのではないかというのが私の考えです。

「作品を観賞することは、作者とコミュニケーションを取ること」という考えを持つ理由はもう一つあって、またまた「ブルーピリオド」からなのですが、主人公が美術に目覚める少し前の、美術に目覚めるきっかけになった出来事の話です。主人公が初めて「自分にはこう見えた」景色を絵に描いた時に、「その時生まれて初めてちゃんと人と会話できた気がした」と主人公が思う場面があります。私はこれを初めて読んだ時は、「ふーん良い話だなぁ」程度にしか感じていませんでしたが、後に大学3回生になり、(以前にも書いたかもしれませんが)自分で初めて、コンセプトや意図を持たせた「作品」を出展して、色んな人から感想をもらった時に、これが「人とちゃんと会話できた」ということかと実感しました。そのときから、「作品」は「作者と観賞者とを繋ぐコミュニケーションツール」なのかもしれないと思うようになったことが、「作品観賞はコミュニケーションである」と考える理由の1つになりました。

作者は「作品を見せる」ことで、観賞者は「作品を見る」ことで、互いにコミュニケーションを図っていると言えるのではないでしょか。

少し話が逸れましたが、詰まるところ、作品展で誰かの作品を見るときは、作者や、作品自体と会話、コミュニケーションを取るぐらいの、何なら別に友達になろうとは思わなくても「人脈作り」くらい(人脈はあればあるほど良いように、人の「作品」も知っていれば知っているだけ良いと思っています)の打算的で、軽い気持ちで、見ても良いのではないかということです。

今回も読みづらい文章になってしまいましたが、お付き合い頂きありがとうございます。

次は、写真を撮るようになって気付いた、「地味にこれ写真撮るのに役立ってるな」と個人的に感じていることについて話したいと思います。

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