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「好きなもの」のはなし(「自分自身」編)

こんにちは。

二日です。

写真が趣味とか言っておいて全然写真の話してなくてすみません。そのうちします。

というわけで(何が)、今回は一応前回の続きで、また「好きなもの」についての話です。と言っても、内容は全くの別物だと思ってもらって大丈夫です。前回みたいに「『好き』は『弱点』だ」みたいなことばっか言ってたら生きづらさの極みですから。それに今回話す「好きなもの」への解釈の方が、今の私は気に入ってますので。まぁあくまでも「今は」であって、「私は」であるので、皆さんがどう思うかわかりませんが、興味を持って頂けると嬉しいです。

今回書いていくことは、簡単に言うと「自分にとって『好きなもの』とはどういう存在か」というような話です。

ちなみに皆さんにとって「好きなもの」とはどのような存在なのでしょうか。癒しとか、心の支えとか、様々な表現があるかと思います。人によって色んな表現ができそうなので、一人ひとりに聞いてみたいですね。

これから私にとって「好きなもの」どんな存在なのかの話をしていきますが、そもそも皆さんが「好きなもの」というのはどんなものなのでしょうか。そもそも色んなジャンルがあるので一言で言い尽くすことはできないと思いますが、例えば音楽であったり、アニメや漫画、小説、スポーツ、食べ物、色んなジャンルがありますし、更に細分化もできれば、その中の特定のものが好きだということもあると思います。

では、皆さんはその自分の「好きなもの」から「影響」を受けたことがありますか。どんな影響でも結構です。好きな俳優さんがハマっている食べ物を試しに食べてみたら、自分もハマってすっかりそれが自分の好物になったとか、好きな漫画のセリフで多用されるちょっと難しい単語を使うようになったとか、好きな小説の登場人物の考え方に共感して、自分もそういう考えを持つようになったとか。まぁそもそも人間、多かれ少なかれ、大小問わず、日々様々なものから影響を受けているでしょうし、それが自分の「好きなもの」となれば尚更に影響を受けやすいのではないかと思います。いや自分は好きなものから影響を受けたことはないと思っていらっしゃる方もいるかもしれませんが、多分無意識のうちに何かしらの影響を受けていると思います。

さて、この時点で私には、今回話したいことの基礎となる考えが浮かびます。「『私』という人間は、私の『好きなもの』によって出来上がっているのではないか」という考えです。別の言い方をするなら、「私が何を『好き』であるかは、私の『個性』なのではないか」ということかもしれません。ちなみに私の場合を例に挙げてみる(そもそも判断材料が自分ひとりくらいしかいないのですが)と、まさに今「個性」という言葉を使いましたが、それは私の好きな漫画の、堀越耕平さん原作「僕のヒーローアカデミア」からの影響だと考えています。「個性」という言葉自体は一般的な単語ですし、とても語彙が豊富で尚且つ言葉選びに長けた人間なら、そんなところから影響を受けずとも「個性」という表現にたどり着くかもしれませんが、私は自分がそんな脳内国語辞典を引く天才だとは思えないですし、「ヒロアカ」に出会っていなければ、ここまで「個性」という言葉が、頭の引き出しの手前に入っていることはなかったと思います。というかこれはほぼ確信です。

もっと言えば、私がこれまでいくらか投稿させていただいたことは、僕が頭の中であれこれ考えていたことなわけですが、こうして頭の中で思考を巡らせるのは、青山剛昌さん原作の漫画「名探偵コナン」でコナンをはじめ様々な登場人物が、1人で思考を巡らせて、誰も気づかなかった「真実」というまさかな結論を出すというところに、子供の頃に少し憧れていたからなのかなと、今振り返るとそう感じます。

そんなわけで、私は、「人間は自分の『好きなもの』で出来上がっている」と、思って「いました」。今の考えは、これとはちょっとニュアンスが違う考えを持っています。

まず、この「人間は自分の『好きなもの』で出来上がっている」という考えを持っていた時のイメージとしては、自分を「内側から」形作る要素が「好きなもの」だという感じでした。

ですが、最近将来のことを考えるようになった時に、少し違和感を覚えました。自分は「好きなもの」で出来ているのだから、私の中には「好きなもの」があって、しかも自分は「好きなもの」が結構たくさんあるのだから、この約6万立方センチメートルの私の体は、そこそこの密度があるものだと思っていました。しかし、将来のことを考えた時に、自分の強みは何なのか、自分には何があるのかを考えてみた時に、何故か、自分には何もないな、自分は空っぽな人間だって感じました。「好きなもの」はたくさんあるのに、よくよく考えてみると、それがどれも「自分のもの」ではないようか感覚に陥りました。

それも当たり前な話です。「好きなもの」は「自分のもの」ではないのですから。

自分が好きになるもの、誰かが好きになるもののほとんどは、他人よって「作られたもの」であり、それは結局、その「作者のもの」であり、それを受け取る私のものにはならないのです。「作品は公開することで作者の手から離れ、受け手のものになる」なんて考え方もありますが、本質的に受け手のものになることはないのだと思います。あくまでも受け手の「外側」でできたものは、受け手の「内側」に入り込むこともなければ、ましてその受け手の人間の血肉のように「内側」から形作るような要素になどならないのです。

このことを踏まえて、今の私が考える「『好きなもの』はどんな存在か」というのは、「型枠」、もしくは「容器」のような存在であるというものです。

たとえ「好きなもの」が自分の「内側」にあるものでないとしても、それでも「好きなもの」は間違いなく個人の特性、個性を決定する要素であるという考えを変えることはできませんでした。では、「内側」になくて、かつ自分の「カタチ」を決めるものは何なのかと考えた時に、行き着く答えは明白で、先述した「『型枠』や『容器』というような存在であるということ」なのです。

一般的な物としての「容器」想像してもらうと、人によって様々な色、大きさ、形、装飾の「容器」を想像されるように、「容器」には、まさに様々な「個性」があります。その「容器」によって中身自体の「形」が変わるように、「好きなもの」によって人それぞれに「カタチ」が変わってくるのです。

そして、「容器」が、その中に入っている物体自体には入り込んでいかない、溶け出していかない(厳密には容器の材質と中身次第で何かしら反応が起きるので、多少条件付きの理論になりますが)ように、「好きなもの」という「容器」は、決してあなたの内側にまで入り込んでくることはなく、本質的に「自分のもの」になることはないのです。

ここまで書いて、少し考えていたことを思い出しました。私は時々自分がどんな性格なのかを考えることがあります。「こんな性格」だと初めにすぐ思い付くものがいくつかあるのですが、では何故そのような性格なのかをさらに考えていくと、より本質に近い性格が浮かんできます。その浮かんだ性格に対してさらに同じようことを考えて、ということを繰り返すと、自分の本質的な性格に辿り着き、その性格が、「幼い頃の自分」にも当てはまるのです。

何が言いたいかというと、年を重ねるにつれて、様々なものを好きになっていって、「好きなもの」が少しずつ変化していき、「容器」が変わろうとも、その中身に入っている「本質的な自分」というものは変化しないのです。以前と今とで性格が変わった、自分にはいくつかの性格があるというような話があるかもしれませんが、結局本質的には、人間の性格は生まれた時から変わらないのではないかという考えです。つまり、「好きなもの」という「容器」は自分の「内側」、ここで言うところの「本質的な自分」には影響を及ぼさないと、私は考えています。

「好きなもの」が「本質的に」自分には影響していないというのは、少し寂しい考えなのかもしれませんが、私にとってはこの「『好きなもの』=『容器』」という考えが、今のところ納得のいく解釈なのです。

1つ付け加えるなら、その「容器」は、硬ければ硬いほど、強ければ強いほど、「内側」に入っているものをしっかりと守ってくれます。人間というのは、「好きなもの」があるからこそ、強く生きていけるのだと思いますし、頑張れるのではないでしょうか。これもまた漫画「ブルーピリオド」作中のセリフですが、ある登場人物が、主人公に対して「頑張れない子は好きなことがない子だった」という発言をします。言い換えると、「好きなことがある子は頑張れる子である」ということになりますが、「好きなもの」が「容器」として自分を守ってくれるから、安心して進むことができ、その歩みが「頑張り」なのだというのが私の考えです。

以上が話したかったことで、個人的には気に入っている考えなのですが、文章にすると変なことを言っているようにも感じますね。

まぁ要するに、「好きなもの」は、自分の「内側」や「中身」には影響しないが、「容器」として、「自分自身」を形作る重要な要素であるということです。

長々しい文章にお付き合い頂きありがとうございます。少しでも共感してくださる方がいれば嬉しいです。

次何について書こうかはちょっと考えているところですが、できれば写真に関係した話を書きたいなと思っています。

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