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教育は、いらない|脱教育の先の地平線

以前、「あ、もう『教育』じゃねぇ・・・」ってなりました。

「現代教育はもう、狂い始める地点にまで到達した」という気づき。

いかなる教育も——それがどれだけ最先端教育でも——結局は社会の中に織り込まれ、社会が必要とする「人材」を作る手段でしかない。

教育を改善しようとすればするほど、その働きは強くなる。

そしてそうした人材を活用する「組織」。

やりがい、人的資本経営、パーパス。

組織がどれだけ人に寄り添おうとしても、結局はどこまでいっても「組織の目的」に還元される。

何のためのやりがいなのか?何のためのパーパスなのか?何のための人的資本経営なのか?

結局は、「モチベーションUP」を目論見、そこには業績最大化という志向性が見え隠れする。

そうした組織が、社会が、また新たな「教育」を生み出す。

そうして「人材」と「組織」は再生産され、「社会」は維持され、「私」という人間性は剥奪される。

「じゃあ、どうすればいいの?」

私の今の答えは「わからない」。

「社会って、そんなもんでしょ?」

そうかもしれない。

そうかもしれないけど、でももう私は、自分に嘘ついて生きてはいけないから、今ない何かを見つけていくしかない。

どれだけしんどくても。

脱教育の先の地平線

一旦、直感的に降ってくる言葉を羅列しておく。

それを今後探究していけば、何か見えるはずだろうから。

貯めない、持たない

「貯める」から、争う

「貯める」から、業績予測が始まる

「貯める」から、尊い現瞬間が未来予測の奴隷と化す

だから貯めない、持たない

そうしたあり方が、必要となる

脱思考・脱分断

必要なのは統合じゃない。

融和でも、平和でも、和解でもない。超越でもない。

そもそも分断を作りようがない「脱思考」である。

思考は必ず、2つに分ける。

それが思考の機能である。

私が「思考」と言った時、それは同時に「思考以外」を生み出す。

こうして、「思考」と「思考以外」という2つを生み出す。分断する。

脱思考。その先に、何かある。

生徒と先生。子供と大人。子供と親。需要と供給。

そうした分断を生み出しようのない何かが、その先にある。

身体性・感性・直感性で生きる

脱思考の流れが、AIの進化とリンクする。

思考は分裂させる。そして分裂の結果である共通見解を導きだす。

1+1=2

とは、何だろう?

「1」とは何を意味するのか?

「+」は何を意味する?

では「1+1=2」とは?

それらは結局、コンセンサスでしかない。人の間の、社会間での共通見解でしかない。

あらゆる思考の産物は、コンセンサスなしでは成り立たない。

そして、そうした思考の産物は、常に「私」という現瞬間から離れて存在する。

それは常に、現瞬間からすると、「嘘・偽り」なのである。

私たちはそうした「嘘・偽り」を学び、なぞり、生きていく。

絶対的正解を求め、それにしがみつき、安心し、生きていく。

そうした「正解」「コンセンサス」「共通見解」は、もう既に社会を埋め尽くされている。

そしてそうした思考の産物を生成し続けるのは、もはや人間の仕事ではなくなる。

AIがあれば、事足りるようになっていく。特に「浅い思考」なら尚更である。

奇遇にも、そうしたAIの現れと、この脱思考がリンクする。

脱思考の先に、残るもの。

それは、感性・身体性・直感性である。

左脳はAIに任せ、人間は右脳と心と身体性を動かす。

内的 x 探究

4象限で考えてみよう。

  • 外的 x 勉強

  • 内的 x 勉強

  • 外的 x 探究

  • 内的 x 探究


外的とは「私の外の事象」である。

今の教育のほぼ全てのコンテンツはこの「外的」に偏っている。

そして、それを「勉強」する。

勉強とは「絶対的正解があると仮定して、それを覚え、身につけ、自分のものにすること」である。

では、内的とは?

内的とは、「自分の内側」の事象である。

心、精神、生き方、そうしたものである。

いかなる宗教も、教えも、結局のところ「内的 x 勉強」である。

なぜなら絶対的正解を前提としているからである。

そうした絶対的正解(規範)を外から拾い、自分自身に押し付けて、自己否定を繰り返す。構図自体は常にこれである。

では、外的 x 探究とは?

世の「探究学習」とはほぼ全てこれである。

理科を暗記するのではなく、理科を探究する。

自分なりの仮説を持つ。それを検証し、資料にまとめて発表する。

自分で考える力を養う。学ぶことそれ自体を楽しくさせる。

大いに結構。

でも「脱教育」でフォーカスするのは、何よりも、「内的 x 探究」である。

自分の内側を、絶対的正解なしで、探し続ける。

これは自己探究どころか「自己破壊」である。

得られた概念を、正解を、常に破壊し続ける。

内的探究は、KnowingでもなければDoingでもない。

Beingそのものである。

脱組織

「組織」は「ロール(役割)」で成り立つ。

そして「ロール」も思考の産物である。

脱思考したのなら、そこに組織は生まれようがない。

人と人の交流はある。つながりもある。

でも「組織」はないはずである。

これら一つひとつを、「私」を使って探究していく

何より「私」という「人生」そのものを使って実験、探究することが求められている。

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