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心や体が病んだ時、それは「意図」から「委ね」へと生き方を変える時
人の人生にはどうしようもない変化が訪れる時がある。
私の場合それは、パニック障害だった。
いやあれは、ただのパニック障害だったのだろうか?
発作だけじゃなく、めまいも頭痛もしたし、油も肉も酒も体が受け付けなくなったし、体重も当時10キロぐらい落ちた。
当たり前にできていたことが、できなくなった。仕事、電車通勤、考えることそれ自体、などなど。
何が起きたんだろう?
原因を完璧にわかろうとする必要はないのだろうけど、最近少し、思うことがある。
あれは私にとって、「意図」から「委ね」への、生き方それ自体が変わるポイントだったのかもしれない。
心身がおかしくなる前の私は、とにかく「意図」の力を使いまくっていた。
意図とは、意思の力で図らうことだ。
しんどくても意図して、頑張る。
意図して、未来を予測し、その未来を掴み取るためにまた頑張る。
雑念や感情、ネガティブ思考は意図して消し去る。
意図、意図、意図。とにかく意図!
そんな感じだった。
それから、体がぶっ壊れて、意図が外れた。意図が使えなくなった。
意図を使おうとすると、体がおかしくなる。それは今も変わらない。体調が悪化するのだ。
ちょっと考えてみてほしい。意図が使えなくなった生活を。
「今日、仕事しんどいなあ。でも行かないと家族も養えないし、キャリアも終わるし、なんとか踏ん張るかあ」
これも意図。これができない。
「自分の過去の経験からするとこれが得意だし、人脈もあるし、こういう方向性で働いていくのが良さそうだなあ」
これも意図。これもできない。
結果私は、転職した会社を3日で辞める羽目になった!(爆)
意図が使えないと、こんな結末が待っている。
でもまあ、こうなってしまったのだから仕方ない。それでも残酷なまでに生は続いていくのだから生きていくしかない。(私はなんとかこう思えるようになった)
心身を壊れるタイミングとは、意図の限界なのかもしれない。
では、意図が限界を迎えたら、人はどうやって生きていけばいいのか?
委ね。委ねるしかない。
何に?
それは運命とか、流れとか、とにかく自分の意図なんかよりもとてつもなく大きな何かに。
これがまあ、なんとも恐ろしい。
想像して欲しい。
あなたは今、結構な高さの塀の上に立っている。
下には多くの人が行き交っている。皆あなたの知らない人だ。
地面はコンクリート。落ちたらただじゃ済まない。最悪死ぬかもしれない。
それなのになぜかあなたは目を瞑って、背面から身を預けて、落ちる。正気の沙汰じゃない。でもそうする。
誰かが、受け止めてくれるだろう。もし受け止めてもらえなくても、仕方ない。自分はそうする運命なのだから、もう仕方ない。
そうしてあなたは、落ちる。
・・・ドンッ!
委ねとは、こんなイメージ。
意図が使えたらこんなことはしない。
「いやいや、ここから落ちたら大変なことになるぞ」とか、「いやいやみんな知らない人なんだからおまえのことなんか避けて通るだろ」とか考える。
でも委ねは、そんな意図を超えた地平線で動いていく。
例えば私は、生き方が意図から委ねに切り替わってから、不可解なことがまあよく起こる。
ここでは話せないこともあるから全部は話せないけど、例えば「小説」がある。
私は今年の1月末、意気揚々と転職した会社を3日で辞めた後(また電車に乗れなくなった)、絶望状態の中、なぜか、「小説を書こう」ってなった。
いやあれは、何かに「小説を書け」と言われている感じだった。何かをしようとか、そんな意図、働かせる元気もなかった。私は文字通り、打ちひしがれていたから。
小説なんて、書いたこともない。書きたいと思ったこともない。
けどなぜか私は、小説を書き始めた。狂ったように。
そしたら、書けてしまった。たった2ヶ月足らずで15万文字の初稿が出来上がってしまった。
意味がわからない。いや本当に、意味がわからない。
それから私は、小説には一度蓋をすることにした。なぜならそんなことしてても食えなそうだからだ。
だから私は、今までの経験を使って、とりあえず英語教育事業を始めようと動き始めた。
これがまあ、うまくいかない。
お客さんが来ないとかそれ以前に、自分の頭と心がなぜかまとまらないのだ。なんだかずーーーっとモヤモヤしてる。そして、気分が悪くなる(笑)
でも、不思議なことが起こる。
知り合いからの紹介で、なぜか売り上げが立つようになった。もちろんこれは棚ぼた的なものだからいつまで続くかわからない。けど気づいたら私は、会社員時代以上の月給をゲットしてしまった。しかも労働時間は会社員時代の半分どころか4分の1以下だ。
意味がわからない。こんな展開夢にも思っていなかった。でもなぜか、そうなった。
そして私はふと思った。これは、小説をとにかく完成させろと言われているのではないか、と。何かにそう言われている気がするのだ。その何かが、小説が書けるように少ない時間で精神が安定するための収入を私に授けてくれているのではなかろうか、と。
だから私は今また、小説に集中してる。これをとにかく、自分(というか、私に小説を書けと言っている何か?)が納得する形にまで仕上げようと。1日最低4,5時間は小説と向き合っている。
おれは、何をやってるんだろう?作家でもないのに(笑)
いや本当に、こういう気持ちになってくる。意味がわからない。
そんな小説を書いている時も、委ねから離れるとまあうまくいかない。
「もっと上手く書こう」とか、「多くの人に読んで欲しい」とか、そういうくだらないエゴイスティックな意図を使うと、まあうまくいなかい。グルグルグルグル、気分が悪くなる。
一方で、「もうよくわかんないけどどうにでもしてくだしゃーい」「僕ちゃんの体を自由に使って書きたいものを書いてくだしゃーい」と馬鹿みたいに手放すと、勝手にアイディアが溢れてくる。勝手に指が動く。そうして紡がれる言葉を読んでから、「わぁ、すげえ」と自分で自分の物語に感動する。
委ねが先で、理解が後。こうしたことが起こる。謎である。完全に、理解の範疇を超えている。
今は、私が書きたいように小説を書くというより、何かが書きたいように小説を書いている感覚だ。その何かは私を道具として、小説を書く。
とまあ、こういうことが起こる。「意図」から「委ね」へと切り替わる時、こういうことが起こり始める。少なくとも私の場合は、そうだ。
もちろん、私はただ頭がおかしくなっただけなのかもしれないし、ただ病んでるだけかもしれない。その可能性は十分に高い。
でもどうも、それだけとは言い切れない何かを、感じるわけだ。この感覚は、誰になんと言われても、拭えない。
ということで、私は今後、委ねて生きていくのだろう。
いやもう、委ねるしか、ない。という、諦め。そうこれは諦めなのだ。意図、そして思考の、諦め。
さて、この「意図」から「委ね」への切り替わりポイントは、いつどこでやってくるかは、人によるんだと思う。一生のうちに何度かくる人もいれば、一度も起こらない人もいる。(何度も起こる人は委ねへの切り替えポイントを無視して未だ意図で生きようともがいているからかもしれない)
けどまあ、もし今、心身不調があるのなら、そういう時期が来ているのかもしれない。
生き方そのものが、変わろうとしている。そのサインが、心身不調だと思う。
少なくとも私はそうだったと思うし、そうなのかなと思って今も生きている。
そしてもちろん、楽じゃない。しんどい。生き方を変えるというのは、そりゃしんどいよ。今まで積み上げてきたこと、得てきたことを捨てないといけない。これは本当にしんどい。
泣きたくなる時もあるし(実際に私は何度も号泣した)、死がすぐ隣に迫ってきたこともある。弱くてダサい自分を出さないといけないこともあるだろうし(実際に私はあった)、きっとこれからも色んなことがある。
でもね、大丈夫。
理由はない。けど、大丈夫。
大丈夫だと、私は、あなたに言いたい。
そして、自分にも言いたい。
大丈夫。
だから、生きていこうよ。委ねてね。
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