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【あれこれ】わたしはダンスや筋トレの動画が怖い


2024年、新年初回はメンバーの喜久井さんです。「学校に行かなきゃ」という”意志”と、「学校に行きたくない」という”体”の反応が、当時同時に起きたことは、僕が子供だったからでしょうか。それとも、まともだったからなのかなあ。(スタッフ・古川)






わたしはダンスや筋トレの動画が怖い
「体」を支配する「意思」の凶悪さ


世間では、ダンスや筋トレが、人気だ。
アイドルグループの、完璧にそろったダンスの映像。
メンタルが良くなったと語る、マッチョな体の画像。
ネット上では、栄(ば)えるコンテンツとして、「いいね」が多くつく。

しかしそれらは、けっこう怖い現象なのではないか、と思う。

ダンスも筋トレも、「頭」(意思)の力で、「体」を、コントロールするものだ。

トレーニングをしたり、振り付けを覚えたりするためには、思い通りに、「体」を動かさねばならない。
グループでは、ひとりひとりのコンディションが違うのに、同じダンスをする。
「今日は風邪ぎみだから、簡単な動作にしよう」、というわけには、いかない。
体を制御して、音楽と一致した、決まった振り付けをおこなう。
筋トレも、腕立てやスクワットを、一日に何セットおこなう、など、あらかじめ、することが決まっている。
「体」がきつかったり、筋肉痛だったりするのは、トレーニングが、うまくいっている証拠だ。

私たちが、ダンスや筋トレに、「いいね」を送るとき。
それは、体や動作の完成度を、称賛しているようでいて、実は、それを可能にする「意思」の強さを、称賛しているのではないか。

「ダイエットによって、〇キロ痩せた」、という画像も、外見の成功だけを、言っているのではない。
そこでは、「意思」による「体」の制圧が、表現されている。
「痩せられない体」を、「痩せたい意思」によって、乗り越えた成功が、表明されている。

人が生きていくうえで、「意思」が「体」のあり方を決めるのは、基本的なことだ。
日常生活で、「したいこと」と、「体」のおこなうことが、まったく一致しない、となれば、障害や病気、とみなされてしまう。
しかし、「障害」とは言い切れない例が、いくつかある。

たとえば、きつ音。
「うまく話したいけど、話せないこと」、が起きる。

一つは、アスリートなどに起こる、イップス。
「うまく行動したいけど、行動できないこと」、が起きる。

それに、チック。
「止まっていたいのに、止まれないこと」、が起きる。

私にとっては、「不登校」、がそうだった。
「学校に行きたいのに、行けないこと」、が起きていた。

「意思」と「行動」(体)の、不一致がある。
そのため、昔「不登校」は、精神的な病気、とみなされていた。
「意思」の力では、どうにもならないのに、「意志が弱い」、「怠(なま)け」、「精神薄弱」、などと言われていた。
(今は、「起立性調節障害」や「発達障害」、の診断が増えた。言い方は違うが、結局は、障害、として理解されている。)

ある、きつ音の人は、「体がクーデターを起こす」、と言った。
私の「不登校」も、そのような経験だった。
「体」が、「意思」に反逆するなんて、あってはならない、はずだったのに。

今の社会では、「意思」の力で、「体」を制圧する必要がある。
苦しいときでも、学校や会社に行って、円滑なコミュニケーションを、せねばならない。
さらに、体を鍛えたり、痩せたり、窮屈な服を着たり、オシャレのために我慢したり、と、「体」は、大変だ。
「意思」が「体」を酷使する、日常がある。
「体」を奴隷のようにして、どれだけ、支配できるか。
ダンスや筋トレの動画が魅力的なのは、「体」への独裁体制の、成功が映っているためかもしれない。

しかし自分の「体」は、それほどまでに、従属(じゅうぞく)させるべきものなのだろうか。
さきほどの、「体がクーデターを起こす」、という表現にしても、「意思」が「体」を支配するもの、という前提に立っている。
体だって、自分のはずだろう。
というより、体こそ、自分のはずだ。
「意思」が「体」を隷属(れいぞく)させるもの、という社会の方が、おかしい、のではないか。

(哲学においては、近代に入ってから、個人の「意思」が重要になった、と言われている。
今の社会では、多くの人が、「意思」の力で、「自分の生き方を決められる」、と思っている。
そのため、本来どうにもならないものまで、「自己責任」、とされるようになってしまった。)

とはいえ、ネットでは、「体」を大事にするコンテンツも、人気が高い。
ヨガや、マインドフルネスへの注目が、高まっている。
アウトドア関係のユーチューバーが、何人も出てきている。
また、「ひたすら火が映っているだけの動画」、なんてものもある。
それらは、「意思」の支配から、「体」が自由になるための時間を、提供するものではないか。

私は、「体」を酷使するものよりも、それらの方が、良い。
自分の「体」と、仲良くしたいものだ、と思う。





〇寄稿者募集!

10月より、連載【あれこれありましたが、】をnote内にて開始しています。

不登校ラボでは、学校に行きたくなかった経験をもつ多様な人々が集まり、記事の制作や編集、著名人への取材等を行っています。メンバーは「記者」「編集者」となることで、自らの経験をいかした活動をすることができます。

『不登校新聞』では学生当時の体験談を手記に起こして掲載していますが、こちらはもっとライト版。過去行きづまった私たちは、今どうやって生きているか。あれこれありましたが、よろしくやってる方々の日常や思考を寄せてもらい、定期的に連載しています。

読者からも寄稿作家を募集しています。学校に行きたくなかった日が1日でもあり、自分の文章をこの場で書いてみたいといった方は、ぜひ。「tokyo@futoko.org」までご一報ください。

連載の詳細は以下記事から↓

https://note.com/futoko_rabo/n/n787d569fca3b

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