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天界の禅者大いに語る―正法眼蔵、法華経、古神道の真髄(2005/09/01)/立花大敬【読書ノート】
仏教は無上甚深微妙の法といわれるが、長い参学と熱い祈りの果てに開かれた天衣無縫の悟境―ここに禅がある。法華経がある。惟神の大道がある。人間の尊厳と自由と歓喜が躍動する。
天地初発(あめつちひらく)
宗教は技術ではありません。また勉強するものでもありません。にもかかわらず、人は『正法眼蔵』、『法華経』を、『古事記』を勉強しようとします。私もそうでした。それらを必死で読み、また註解全書まで買いこんで分かろうとしましたが、さっぱり、ますます分からない。申し訳ない話ですが、何度、これらの書をゴミ箱に放りこんだか分からない。それでも思い直し、思い直して勉強を続けたのでした。
やがて、禅の師家に入門して公案(禅の問題)を解くようになりました。そうしているうちに、ポツポツ、キラッと輝く語句がみつかりだしたのです。
それなら、イッソのこと 『正法眼蔵』 全部を公案にして解いてやれと思い、一字一句おろそかにせず、徹底的に対決することを始めました。時にはわずか一句にひと月もかかってしまう時もありましたが、果たして成果は素晴らしいものでした。『眼蔵』はやはり、ムチャクチャに書き散らされているのでなく、道元禅師の高い霊性からは当然要請されるような一貫した論理によって書かれております。
さて、そこまで分かってくると今度は難題が待ち受けていました。
それは私自身の問題で、『眼蔵』が実にスラスラ、よく理解できる時と、サッパリ分からなくなる時があります。つまり、自分の心境の波によって、高い時はよく分かるが、低くなれば分からないのです。こんな分かり方はどうもおかしい。どこかが間違っているのです。
たとえば、心境の高い時なら従容と死ねるが、低い時に死ぬなら大変です。苦しみ、もがきながら死なねばなりません。ところが、そんな難題も、解答は実に単純明快なものでした。〈死ねばいいのです〉。〈自らの命を投げ出せばいいのです〉。そうすれば、もう心境が高いも低いもない、実にスカッとしています。
わずか百年足らずの人生を、こんなちっぽけな自分というものの利害損得で一喜一憂して心を波立たせ、そんなことのくりかえしで一生を終えてしまう、何とはかなく、むなしいことでしょう。
私は、そんな自分にホトホト嫌気がさし、もうこんな自分なぞいらん。それなら、世の為人の為、どんなささやかな事でもかまわない、やらせて欲しい。そのために、たとえ百年の寿命が一日にちぢんだとしても決して悔いはない、喜んで受けようという気になったのでした。そして、伊勢神宮にお参りして、内宮さまに五井先生の提唱された祈り、<世界人類が平和でありますように……、私たちの天命が完うされますように……〉となえ、その決意を述べ、お願いしてきたのでした。
その途端です。スポッと底がぬけたようになって、『正法眼蔵』とも、『法華経』とも、『古神道』とも、まったくつうつうの仲になってしまった。まったくひとつになってしまったのです。もう、一字一句が分かる、そして喜ぶといったものではなく、『眼蔵』全体と、『法華経』全体とひとつになったのですから、理解できるも、できないもない。自分が『正法眼蔵』であり、自分が『法華経』なのですから。
そうなれば、もう隅から隅まで全巻理解してやろうなんて思いません。必要があれば、いくらでも解釈がでてきて、それが文章になります。
<必要〉、この必要は私の必要じゃありません。私は〈全体生命〉と呼んでいますが、〈天〉といっても、〈神〉とおっしゃってもけっこうですが、それの必要があれば、いくらでも文は出てくるのです。これが私の〈天命〉なのです。必要とあらば、新たに、あともう百巻の『眼蔵』だって生み出してゆけるのです。それは、私が『正法眼蔵』のたましいとひとつになり、法華経のたましいとひとつになったからで、それが文字の『眼蔵』を、『法華経』を生み出した源泉だからです。
そんな源泉とつながった以上、いくらでも『眼蔵』が出てきて当然です。
なんなら、正法眼蔵を紙の上に書かなくても、『あるいは樹に、あるいは石に、あるいは田に、あるいは里に……、この経を書きつけよう』と法華経にもありますが、そんな風に、どんな形ででも『正法眼蔵』を自由に、新たに創造してゆくことができるでしょう。
「手のひら一つ前に差し出しても正法眼蔵第一巻、風のそよぎも、犬の遠ぼえも、正法眼蔵のそれぞれ一巻』となるからです。
さて、つつしんで参玄(道に参ずる)人に申しあげます。
宗教は勉強じゃありません。技術でもありません。知力でも能力でもありません。必要なのはただひとつの覚悟です。
<自分を殺し、人を生かす>
この覚悟がすべてです。それさえあれば、必要なものは必要な時にかならずやってくる、あるいは自らのうちから湧き出してきます。知力でも能力でも体力でもそうなのです。これをどうぞ、お忘れなく。
■第一部:正法眼蔵山水経を読む
序章:無上の遊び
第一章:私の修行時代(1)
はじめての霊的体験
ただ、畏れと喜びの奇妙にまじりあった感情で、「あー、あー」と声を発するのみでした。しばらくして、そんな現象はやみました。私はまだドキドキ心臓を波打たせながら、師の庵へ向かって歩いてゆきました。私は師にその体験を話しました。師は、「それはよかったですね。それが<美>の本体なのですよ。本物の画家は静の中に動を、動の中に静をみるのですよ。そんな静の中に動が、動の中に静が感じられないような作品は本当の芸術とはいえないのです。
私の夫(画家)は、亡くなる間ぎわに、『あるものはね、生命とその流れだけだよ』と語ってくれましたが、それですね」と言われたのを覚えています。
私に〈山〉が宿った
石女は夜に児を生む
七面神は面足(おもだる)の神
七面神とは?
第二章:法華経提婆達多品を解く
本文意訳
竜の三徳
珠のプレゼントを解く
〈竜女〉、一切智者となる
神道の奥儀を開く
再び竜女へ
全宇宙に匹敵する珠
無限をこもらせた〈今〉
〈八歳〉を解く
ある教室風景
第三章:私の修行時代(2)
脱落の坐り
第四章:私の修行時代(3)
無心の動きの発現
運歩が〈山〉だった
マホメット〈山〉を呼ぶ
第五章:私の修行時代
天の通信を受ける
天の語る〈宗教の極意〉
ヨハネ
金積み地獄訪問
天の師と禅問答
発端
第六章:〈空〉翁、『山水経』のエッセンスを語る
今、ひらく天地
法華四行菩薩に〈行〉をさぐる
第七章:『山水経』冒頭部を解く
〈而今!〉これで完了
本文の逐語解釈
第八章:東山水上行
僕が道だ
〈夜〉の迫力
第九章:どうして〈山〉がアル?
流れが〈山〉
第十章:山は山、水は水
あなたは宇宙
私と正法眼蔵
終章:おわりの、はじめ
変じて道となる
世尊と阿難
はじめの一歩
■第二部:正法眼蔵仏向上事を読む
序章:〈無知〉のままに
第一章:全身が口
第二章:方便が仏だ
第三章:アホウの相
第四章:入門二話
第五章:一本しかない道
第六章:〈日〉となって舞え
第七章:オーイ、雲よ
終章:竜馬はゆく
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