くつ屋のペンキぬり-04(小説)

 さあさあ、太陽の近くこの町で新しい暮らしの幕開けです。
 とは言いましても、このとおり男はペンキぬりの弟子入りのあてが外れてしまいましたから、仕事がありません。本当は最初の半月だけでも、下宿に入る決まりとして家賃を先に払うところなのですが、だいたいの事情を聞いていた女主人からは「半月だけですよ」と言って支払いを待ってくれました。彼女のやや落ちくぼんだ鋭い目からは、言外に「その代わり半月を過ぎたら必ず追い出しますからね」と伝わってくるようでした。どうあっても半月で、当面の食い扶持を見つけねばなりません。
 男はやっと得た小さな自分の城に、長旅のあいだ背負ってきた荷物を広げました。ぱんぱんに詰まったカバンの中身はほとんどが道中、不要になって脱いだ服や破いた袖です。分厚い毛糸を四枚も五枚も重ねて暮らす国の出ですから、青い草花のみずみずしい湿地や、気の遠くなるような砂漠を越えてくる間に、要らない服をいくつもいくつも脱ぎ、手ぬぐいや毛布の代わりにしてきました。一見ぼろ布のようでしたが、これをようく、ようく洗ってやりますと、雪国の上等な厚手の布地が現れました。下宿のある高台から平地の繁華街まで降りていって、最初に入った裁縫店で見せてやると
「こんなの書物でしか見たことないわ! 実物を持ってきてもらうのは初めてよ」
と店先の娘が関心しきりでした。やはりこの国では珍しい模様や細工のようです。ぼろで申し訳ないがと前置きして頼んだところ、店で一番安い麻布の服を二枚も、交換でもらえました。麻の服はざらりとした質感が心地よく、風を通すので、暑くて仕方のない国では大層に重宝します。
 ほかにも男は荷物の中から、三代前の形見の指輪と死んだ父親の片眼鏡、昔の勤め先で大業な勲章をもらったときの記念の万年筆を見つけました。この三つだけは男が家財を処分するときに、嵩張らないモノだけを選んで、手放さず持ってきていたのです。どれもが、男の故郷でも高値で取引される上等な品でしたが、なにぶん男のいた国とこの国とではとてもとても距離が離れすぎていて、通貨と通貨での交換もろくにできません。それに第一、男はペンキ塗りに弟子入りするつもりでしたから、「どうしても困ったときに売ればよい」と思ってカバンの底に入れていたのでした。
(まさかこれほど早々に、食うに困ることになるとは)
 男はとほほと溜め息を漏らしましたが、言っていても始まりません。あれほど焦がれた白い丸屋根の町に身を置いては、イニシャル入りの万年筆もまったく惜しくはなく、男は「本当にいいんですか」といぶかしがる質屋の店主にもにっこりと笑いかけてそれらの品々を手放しました。代わりに受け取った金で直近の家賃を支払い、残った分で綺麗な布団を一枚だけ買いました。この国でも夜中は冷え込むのです。
 元々あまり無かった手荷物をほとんど売るか、取り換えるかで手放してしまった男ですが、ごつごつとした雪靴だけはどこへ行っても売れませんでした。
 服は、材質こそ違えどどの国でも着ていますが、素足でサソリも踏みつぶすこの国では、誰も靴も靴下も履かないのです。物珍しさはありましたが、いくら珍品とはいえ質屋でも引き取ってもらえませんでした。幼子に至っては靴の存在すら知らないのでしょう。生まれ持っての習慣で(そうでなくても男の足の皮は、小石を踏みつけて平気なほど分厚く育っていないので)靴を履いて街中を歩く折にも、二つか三つの子どもが通りがかりに男を指差して「おじちゃん、へんな形の足だねえ」などと無邪気に告げて去っていくのでした。
「やあ仕方ない、では置いておこう」
 何もかもを手放してしまった男に故郷を思わせるものといったら、いまは自分の瞳の色のわずかに薄いことのほか、この靴しかありません。よく晴れた日の朝、男は靴を隅から隅までぴかぴかに洗ってやりますと、風通しのよいところで乾かし、それから、狭い部屋の一番よく見えるところで置いてやりました。何人か前の住人が置きっぱなしにしていった、ところどころ皮の剥がれた小物棚の一番上に、まるでオブジェか何かのように備え付けてやりますと、金ぴかのメダルや名入りの万年筆よりもよほど自分が讃えられている心持ちがしました。

(続く)
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?