夜更けまできみと語らいたいけれど死んでくれるな 三十路半ばで(日記)

 このnoteで日記といったら私の中では当初「寝坊の代名詞」だった。寝坊して小説もエッセイも書けないから三行だけ日記を書いて出勤していたのである。しかし最近は日記自体も楽しいなと思うようになってきた、それと小説はnoteだと読みにくいかもしれないなあという気持ちもある。いま書いているものは続ける意向である。
 さて、日記を書く。

 今日は寝坊といえば寝坊だが、休日だったし朝食は遅めに食べたので寝坊のうちには入らない。
 寝坊の原因らしいものって、ある日もあれば無い日もあって、今日の場合は昨夜遅くまで友人知人とオンラインで語らっていたためである。打合せからの、やや話が逸れつつの、おしゃべりをして気付けば夜中の一時近く。さすがにそろそろと言って解散した。
 朝起きてからSNSを見たら、別口でオンライン通話しながらゲームをしていた友人たちは五時まで起きていた。元気である。

 元気のために、このところ真夜中一時には寝るようにしている。実際それでも遅い。昨日は用件があったので良いのだが、何もない時には〇時か、本当を言えば十一時くらいには眠っていたい。七時間か八時間は眠りたい。それもこれも健康のためである。
 最近、とくに数年ほどの間、三十過ぎくらいで倒れてしまわれたクリエイターと呼ばれる方々のニュースをよく目にする。個人的にファンだった方もいたし、友人がショックを受けていた例もあった。そうでなくても誰かが亡くなられるのは悲しいことだし、周囲の方の心痛たるや計り知れない。
 一説には、というべきか、一般論として、というべきか。心身を賭して睡眠時間を削り、コスパ良くエネルギーを摂取して何かに打ち込む生活の代償に、健康を損なう例はあるのだそうだ。
 他人事ではないなあ、と思う。
 私ではない。いや私もかもしれないが。

 もっぱら私が心配しているのは友人たちである。
 私の周囲にはやはり、何かに夢中になって時間と食事と健康とを対価に差し出している人が少なからずいる。少ない交友関係の中に、とてもたくさん思い当たる。まさか無理に止めることもできないし、三食睡眠を忘れて本に夢中になる日や、徹夜してでも間に合わせねばならない締切が存在することは、よく分かる。
 分かるからこそまったく他人事ではない。
 いつ、だれが倒れてもおかしくないと思えばこそ、恐ろしい。
 私は矮小で我が身可愛さの人間だから、友人がいま倒れてぽっくり死んだら困るというのは、そのとき我が身に降りかかるであろう、きっと堪えようのない悲しみと行き場のないやるせなさを思って「困る」と言っている。私が悲しくないならだれが死のうが知るものか。

 私だって友人とおしゃべりをするのは好ましいから、時に夜、夜中まで話を続けてしまうことはあるし、明け方まで酒を飲んではしゃいで翌日に割れそうな頭痛で目を覚ます日だってある。(最近はご時世のおかげで無いけれど)
 どうせ短い人間の生ならば二度とは訪れないこの夜を、ああでもない、こうでもないと管を巻きながら、夜中の三時でなければ笑えないような洒落で笑ってみたり、空が白んだ頃にカラオケボックスから出てきて牛丼屋の前を通りかかってみたり、していたい。
 アパートの一室でウンウンと唸りながら、SNSでお互いの窮状を曝け出し、満身創痍飛び込んだ締切の先で牛乳屋のトラックの音を聞きながら、泥のように眠りたい。
 だけどそれを例えばあと二年か三年、やった末にすっかり居なくなってしまうのと、どうにかして向こう五〇年くだらない話でコーヒーをしばくのとでは、一体どっちがいいんだろう。選べないし、選べるものじゃないいし、人生と生き死ににはもっと沢山のことが関わってくるし、いま行ったことを明日後悔しない保証なんて誰もしてくれないけれど。

 私が宴席から離脱したあとの、二時間か三時間かで、聞かなかった話を五〇年経ってから後悔するのかもしれない。早死にした誰かの遺影に「無理にでも寝せておくべきだった」と後悔するのかもしれない。
 後悔のないように生きるのは土台無理な話だと思う主義だから、今はこうしておきたいと思うことをやっておくほかない。
 たぶん五〇年後も私は、私に降りかかる悲しみが嫌で仕方ないだろう。せめてこの記事を見たどこかの誰かが「俺も明日は早く寝るか」と思ってくれたらいい。あなたが私の友人ではなくとも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?