行きつ戻りつ揺れつつ(日記)
今日は寝坊もしたし体調もひどかったし何もしなかったので書くこともないのだが日記を書く。
やはり、なんだかんだで地震による精神的ダメージが、自覚している以上にあるのかもしれない。私よりずっと大変な被害を受けた人は今も昔もいるのになと思う。あまり自分の被害を軽く見すぎるのも、それはそれでダメージ蓄積につながる気がするのでほどほどにしておく。
2か月近く毎日更新を続けているが、なんとか朝noteを書くことで生活サイクルをいい感じに回せているな、と思っているとこれである。朝活エネルギーのための朝ごはんどころか今日1日で1食くらいしか食べていない。せっかく進めたすごろくのコマがふたつほど戻ってしまった心地になる。
だけど私はやっぱりセーラームーンになること(注:なりたい者になることをしばらくこう呼び称している)を諦められないし諦めたくないから、どんなにみじめな気持ちになっても1日5ミリしか前進できないとしても生きていなくっちゃいけない。
退路を立てる人間じゃないしリスクは取れない、絶対に何者かになるのだと高らかに宣言できたらよいのだろうけれどそれもできない。
このnoteのことだって打ち明けた友人は1人だけだし、その友人にすらアカウントは教えていない。「そういうの、私はすぐ人に見てもらいたくなるけど黙ってできるのがすごいね」なんて言ってもらったが、そうではないのだ友よ、半端に終わった時の惨めさが怖くて晒せないだけなのです。
でもだからって書くことをやめることもできない。
なにゆえに文章を書くのか、絵を描くのか、モノを作るのか、みたいなことは人それぞれの中に理由があると思う。
私は「書くこと自体が私の助けになる」と思っていて、「私が何を考えているのか私自身確かめられる方法が書くことだった」と思っている。「書いてしまわないと私がいま考えていたことが霧散してどこにも消えてなくなってしまう」とも思っている。
読んだ人に何を思ってほしいとか、何事かを伝えたいとか、そういうのは理由を並べた時に2番目よりも後になるのかもしれない。だけど実際自分だけで自分を奮い立たせるのは大変で、自分がどんなふうにでも書き続けているためには、誰かに伝わるようなものを書くのが結局いちばんだという気がしている。動機としてはくそったれのしみったれだなあとも思う。でも、書いたものを認めてもらうことが、生きている中のどんなことよりも嬉しい。
私みたいに退路を断てない人間に作れるものはたかが知れているんだろうな、と思うことは何度もある。3日に1回のペースで思う。
だけど退路を立てない人間にしか書けないものもあってほしいと思うし、何かを犠牲にしなくちゃ叶わない夢しか持っちゃいけないなんてことはないと思う。思いたい。思いたいなあ。
明日は早起きできるといい。早起きできなくても、また何かを書くつもりでいる。
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