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掌編小説(2)『雨の東屋』

 常夏の国ハワイには『NoRain.NoRainbow.』という諺があるらしいが、私は雨が嫌いじゃない。

 あたり一面に濃い霧が漂う。
 私はその光景を見て、またこの『夢の世界』に来ることができたのだと胸をなでおろす。
 袋小路にも見える乳白色の視界の中で、私は落ち着いて耳を澄ませる。それから、誘うように歌う雨音を追って、静かに歩き始める。するといつものように、池のほとりにある小さな東屋にたどり着く。
 雨に揺れる水面には白と黒が折り重なって、全ての輪郭をあやふやなものにしている。東屋の屋根や周囲の草木をうつ、柔らかな雨の音が耳に心地良い。鼓膜をくすぐる雨音が、頭の中に居座っていた雑念を追い出して、こんがらがった神経を解きほぐしてゆく。
 百日紅や雪柳。灌木についた花の香りを楽しんでいると、後ろで誰かの気配がした。
 私は池に目を向けたまま、そっと長椅子に腰掛ける。それがこの場の作法だからだ。振り返ってはいけない。もし振り返ってしまったら、あっさり夢から覚めてしまう。
「こんにちは。今日もいいお天気ね」
「こんにちは。確かに、今日もいいお天気ですね」
 とんちんかんな挨拶のようだが、私たちはそろって雨が好きだったので、いつしかこのような挨拶を交わすようになった。
 返事が返ってきたことにほっとした私は、恒例の近況報告を始める。
「でね、先輩が言うのよ。私がやめたら部長ぜったいロスになるって。ああ、ロスっていうのはね、誰かが遠い存在になったり、この場合は会う機会が少なくなったりすることなんだけどね」
「ええ」
 相槌に微かに混じる親しみ。それを感じた私は、先ほどよりは上向いた気分にまかせて話を続けた。
「で、結局ギリギリになっちゃったけど、ようやく部長に伝えたの。会社やめるって。そしたら本当に泣き出したの。私びっくりしちゃって」
 話の途中で、池の真ん中にある噴水から空に向かって真っすぐに水が噴き出された。まるでそれを合図とするかのように、雨脚が弱まっていく。雨が止む。それは、じきに夢が覚めることを意味している。
「では、そろそろ」
 後ろの誰かが立ち上がる音。夢が覚めようとする瞬間。今しかないと、私は後ろを振り返る。
「私、結婚するの! それで、その結婚相手と外国で暮らすんだ。だから、もう会えないかもしれない」
 あなたが元気なうちには。
 すべてを言葉にする必要はなかったようだ。
 振り向きかけたあなたの横顔は、嬉しそうで、どこか寂しそうな、私の良く知る不器用な性格がそのまま表情にあらわれていた。
「どうか、お元気で。いつかまた、土産話でも聞かせてください」
「うん。——またね。茶々」
 薄茶にこげ茶。まだら模様の髪をした茶々が遠ざかってゆく。
 その背中を目に焼き付けようと、涙を落とすために瞬きをした。その一瞬で、私は夢から覚めてしまった。


 一足早く目覚めたらしい茶々は、私の膝の上からとっくにいなくなっていた。寂しさで押しつぶされそうになる胸を、深呼吸することで無理やりに膨らませる。
 実家の縁側で密かに行われていた交流も、これが最後。そう思うと、また鼻の奥がつんと痛くなった。
「雨あがったねー。なに、あんた。泣いてんの? マリッジブルーってやつ?」
 何も知らない暢気な母は、私の涙の意味を勘違いしたようだ。
「茶々とお別れした?」
「うん」
「あんたが帰ってくると嘘みたいに元気になるのよ、あのこ。普段は日向ぼっこするとき以外に動こうともしないおじいちゃん猫なのにねー」
 雨の日に、段ボールの中で震えていた茶々を見つけてからもう二十年。私も茶々も、すっかり大人になっていた。
「茶々のこと、よろしくね。お母さん」
「まかせてちょうだい」
 微笑む母に手を振って玄関を出る。
 ふと見上げると、かつての私の部屋の窓辺に茶々が見えた。昔のように、ひとっ飛びとはいかない高さだろうに。
 私は笑ってさよならを言った。
 ガラスの向こうで、茶々も確かにさよならと言ってくれた。

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