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短編小説『アンタレスの涙』

「ほら、飲んで」
 朦朧とする意識の中、黒塊は声の主をたしかめた。砂埃に煙る視界の中には小さな影。
 かたわらに跪く少女が、両手を黒塊に差し出す。手のひらで象る椀の中には水があった。水は先ほど、奴隷商人の男が商品どもに注いで回ったものだ。商人と奴隷の列は数刻ごとに休息をとりながら、オアシスに栄える街を目指していた。ひとり、またひとりと干涸びていく中、これ以上の〈欠品〉は儲けに関わると判断した奴隷商は、貴重な飲み水を商品どもにくれてやることにしたのだった。
 黒塊は凶兆となるはずの禍つ星だった。熱砂の海に流れ落ちた黒塊は、飢えにより今まさに息絶えようとしていた。
 少女は盲目だった。盲目ではあったが、光を失った代わりに生命の灯火を視ることができた。そしてその全てを平等に扱った。少女は水の半分ほどを黒塊に与えると、もう半分をそばに横たわる女の口に注いだ。
 幸か不幸か、凶兆は息を吹き返した。
「何をしている!」
 奴隷商の男は怯える少女の横面を平手で打ち、半ば砂に埋もれる黒い塊を見た。
「なんだこりゃあ——」
 拾い上げようと伸ばした手。その先端に生えた五指を黒塊が食いちぎる。声にならない声をあげて、男は倒けつ転びつ逃げた。得体の知れない化け物がいた。商品は喰われるだろうが、仕方がなかった。男にとって、己の命より大切なものはなかったから。
 少女は事態を飲み込めずにいた。はっきりと感じ取れたのは、先ほどまでか細い光点であった真紅の光が、力を増すように大きくなったことだった。少女にとって初めて目にするその色は、美しくもあり、恐ろしくもあった。
 黒塊は水の礼とでもいうように、少女の自由を奪う鎖や枷をはさみで切ってやった。
「ありがとう……」
 自由に動けるようになるとすぐに、少女は仲間の介抱を始めた。落ちていた麻袋から鍵を見つけ出すと、手探りで錠前を解いて回った。
 黒塊はしばらくその様子を見届けてから、そばにあった大きめの獲物を素速く尾で巻き取り、地中へと連れていった。もがくようにして抵抗するそれは、尾の針のひと刺しで忽ち大人しくなった。
 再び口にする肉の味に歓喜する。
 こうして黒塊は怪物と成った。

 至極色しごくいろの空。夜の帳が世界を覆う。
夜空の星々をそのまま地表に散りばめたかのように、街の灯りが泉を中心にまばらに点在している。
 怪物は砂丘の中腹でそれを眺めていた。いや、正確にはその光の中の一点だけを見つめていた。
 屋敷とも呼べる家の二階には、いつかの少女の姿があった。少女はすでに成人となり、母となっていた。子を抱くその姿を見ていると、不思議と怪物の心は安らいだ。
 少女が危険にさらされる度に、怪物は脅威の根源を丁寧に取り除いていった。
 自由になった少女とその仲間が、オアシスに辿り着くのを見届けた。オアシスの方角は感知していたので、少女たちが道を間違えるたびに、行先に流砂を起こして足止めをした。
 ようやく街に辿り着いたあとも、少女たちに安息は訪れなかった。奴隷の集団が砂漠を渡って来たと知り、先に到着していた奴隷商人が商品を回収してまわったのだ。仲間のほとんどが捕まり、少女は絶望した。
 深夜、奴隷商の泊まる宿に怪物は忍び込んだ。爪が地を擦るカサカサという音を、なるべく最小限に抑えるように気を遣った。宿の一番高い場所にある、一番広い部屋に男はいた。間口も広いため侵入は容易かった。
 男は二人の女と共に寝台の上にいた。裸で寝転ぶ男とその上に跨る女。着衣がないのは好都合だった。万が一鎧でも着られようものなら、流石に針も通らない。
 怪物は寝台の下に潜り込むと、男のいるあたり目がけて尾を突き立てた。折り重なったむしろを貫いて、尾針は男の腹を破った。女が悲鳴をあげる。適当に尾を振ると、二人いた女の内、ひとりの声は止んだ。手応えはなかったが、針がかすりでもしたのだろう。もう一人をどうしようか。悩んでいるうちに、バタバタと数人分の足音が部屋に向かってくるのを感じた。面倒になった怪物はその場を去った。
 昼夜を問わず警吏が増えたせいで、街に忍び込むのは以前より困難になった。しばらくは食糧の調達にも差し支えたが、じきに問題は解決した。街に怪物を崇める一派が興り、家畜の肉を、時には人の屍を怪物に捧げたからだ。一派はかつての奴隷商の商品で、奴隷の身分を逃れたものたちだった。

 怪物を討伐せよと最初に声をあげたのは、街一番の商家の番頭であった。隊商キャラバンも寄り付かなくなった街の行く末を危惧した同業者たちも、続々と協力を申し出た。
 ほどなくして、街の男のほとんどが討伐隊に加わることとなった。

 ある日、陽も沈んだ頃、街はずれの穀倉の前に番頭の姿があった。
 番頭は辺りの様子をうかがいながら、滑るようにして穀倉の中に姿を消した。
 中にはすでに数十人の男が待機していた。跪き、番頭を見上げる男たち。その眼は獣のようにギラついている。久方ぶりの頭目からの招集に、興奮を隠し切れないのだ。
「いいか野郎ども。ちまちまと小銭を稼ぐのはもう終いだ。今夜、例のバケモンを討伐するって名目で街のほとんどの男が【ジュバ岩窟】に集まる。もちろん俺もそこにいる。その時、おめえらがどこで何をするべきかは……もう分かってるよな? 街ごと空き巣に入るようなもんだ。お宝は俺たちの総取りだ」
 番頭として街に潜り込んでいた盗賊頭は、手下の顔を見渡すと満足気にほくそ笑んだ。
「街の連中だが、皆殺しにするんじゃあねえぞ? 商売敵、街の顔役ども、歯向かう奴等はみな殺せ。だが、女こどもは生かしておけ。老いぼれもだ。ガキや女はいずれ商品になる。老いぼれどもはその後の計画に必要だ」
 手下の何人かが頷く。
「化け物退治は適当に切り上げて、陽が昇りきるまでには俺も討伐隊も街に戻る予定だ。おめえらはそこを狙え。そして隊を襲い、死闘を繰り広げたおめえらは、俺の合図で散り散りに退散するって寸法よ。演技だとバレねえように死ぬ気でやれよ。俺も手加減はしねえ。なんなら俺を殺して一味を乗っ取るってのもアリだ」
 盗賊頭が最後の一言を言い終わるや否や、場の空気が一変した。ある者は頭巾の下で薄ら笑い、ある者は腰に差したカトラス刀の柄頭を強く握った。
「いい目だ。それでこそ俺の一味だぜ」
 小さな盗賊団の下っ端から、腕っぷし一つで大盗賊団の頭目へと登りつめた男にとって、手下の謀反など恐れるに足りない。
「カシラ、ちょっといいですかい」
 手下の一人がおずおずと腰を浮かした。
「この街の宝をいただいちまうってのはわかりやす。その後なんですが、なんで討伐隊を待たなきゃあいけねえんです? トンズラこいちまったほうが楽だと思うんですが」
 手下のうち数人が同意の声をあげた。それを聞いた盗賊頭は溜息をついた。
「馬鹿野郎。俺がさっきなんて言ったか聞いてなかったのか。小銭稼ぎは終いだと言ったんだこのトンマ。単にお宝を盗むよりでけえ手があるってこった。それこそ、この街を丸ごと頂いちまうようなでけえ手だ」
 手下たちは生唾を飲んだ。
「おめえら〈悪の一味〉を討伐隊が追っ払う。俺様が率いる討伐隊がだ。俺はたちまち英雄となる。生かしておいた奴らが証人ってわけだ。それから要人を失い途方に暮れる民をまとめて街の盟主となり、ほとぼりが冷めたらおめえらを街に引き入れる。そうすりゃあ、この街を俺たち一味で牛耳ることができる。街に入る金はぜんぶ俺たちのもんだ」
 今度こそ関心しきった手下どもは、口々に感嘆の声をあげた。
「化け物退治は適当に切り上げると言ったが、討伐隊の人数も減らしておくにこしたことはねえ。そこは俺に任せておけ」
 すでに街を手中にしたかのように色めき立つ手下たちを、盗賊頭が宥める。
「それじゃあ諸君、後ほど会おう。その時は、派手にやろうぜ?」
 手下たちが一人残らず頭を垂れた。頭目に対する畏怖と、財宝への欲望と、略奪に昂る非情の悦びを胸に。
「さあ行け」
 盗賊たちは音もなく、夜の闇に溶けるようにして姿を消してゆく。
 穀倉の屋根裏の梁の上。散会する盗賊たちを眼下に見ながら、怪物はその一人一人の風貌を静かに記憶していった。一人も逃すわけにはいかないと考えた怪物は、街に散った盗賊を一人ずつ狩ることに決めたのだった。
 討伐隊が街を出立してしばらくすると、街を包む静寂を裂くように二種類の悲鳴があがった。一つは盗賊に襲われる民の悲鳴。もう一つは、怪物が仕留めた獲物の断末魔だった。

 夜が明ける頃、街に帰還する討伐隊の姿があった。怪物の棲家とされた岩窟にその姿はなく、討伐は空振りに終わった。ある者は怪物を討てず落胆し、あるものは怪物と対峙することなく街に帰ることができたと安堵した。しかし、ラクダの背に乗り隊列を率いる男の表情はそのどちらともいえなかった。
 商家の番頭として討伐隊を率いた盗賊頭だったが、計画の出鼻をくじかれたことに内心苛立っていた。討伐に参加した街の男たちを化け物と潰し合わせることで、その人数を半数以下に減らすつもりが、一人の死者も出さずに街に戻る羽目になってしまった。これでは一味が返り討ちにあう可能性もある。せめてもの救いは、街の男たちに遠征による疲労が多少なりともあるくらいのものだ。
 街まであと少しのところで、討伐隊は足を止めた。街の様子に違和感を感じたからだ。
 普段なら、とっくに朝餉の煙が家々から立ち昇る時間のはず。それに、街を囲む防壁の上に警吏の姿が見当たらない。最低限の防衛はするべきと、残してきた兵がいたはずだ。
 朝焼けを背に、静まりかえる街を目の前にして、盗賊頭は全く別のことを考えていた。街の異変は手下どもが命令通りに行動した結果とみてとれるが、それにしてもおかしい。計画通りなら、手下の一人や二人が物見櫓にいるはずだ。
 乾いた砂に水が染み込むようにして、隊列に動揺が広がる。
「おい、あれを見ろ!」
 誰かの指差す先に人影が見えた。足を引き摺るようにして現れたのは、夜番を任せた警吏の男だった。すでに満身創痍の男の姿に、隊員たちの胸に芽生え始めていた悪い予感は確信に変わった。
「何があった!」
「盗賊が現れた。どこからともなく……。それに、例の化け物も」
 差し出された水を押し退けて、警吏は続けた。
「盗賊どもは化け物に喰われちまったらしい。他にも大勢死んだ。はやく街に——」
 そこまで言って、警吏の男はこと切れた。
 怒り狂う討伐隊の男たちをよそに、盗賊頭は冷静に状況を整理していた。
 計画の大筋が狂ったわけではない。予定通り、討伐隊を化け物にぶつけて潰し合わせることにしよう。手下どもがやられたのは誤算だったが、どのみち連中は口封じに始末するつもりだったので、かえって都合が良い。そう結論を下した。
「諸君、落ち着いてくれ! 元々あの化け物を退治するのが我々の目的だったはずだ。今こそヤツの息の根を止め、命を奪われた民の仇を討とうじゃないか!」
 怒号を上げる隊の男たち。討伐隊とともに、盗賊頭は街に駆け入った。街路に転がるいくつもの死体。
「誰か! 誰かおらんのか!」
 男たちの帰還の声を耳にした街の民は、恐る恐る戸外に出ていった。昨夜の惨劇が頭から離れない。一晩で大勢が殺された。盗賊以上に化け物を恐れた民らは、戸を固く閉ざし、息を潜めて脅威が過ぎ去るのを待っていたのだった。怪物が民など目もくれず、盗賊のみを標的にしていたことを知るものはいない。知る由もない。
 怪物は実に優秀な狩人といえた。
 悲鳴を聞いた多くのものは最初、男たちの留守を狙った強盗だといち早く察して武具を手にした。交易の要所であるオアシスの街の民にとって、財産を狙う悪党との衝突は珍しいものではなかったからだ。
 警吏や街に居残った男たちが、それがただの盗賊による夜襲ではないと気がついたのは、椰子の木にぶら下がる夜盗の骸を発見したときだった。人外の化け物が街に現れ、人を貪り喰っている。それも、最も兵が手薄なこの夜に。ひとり、またひとり。街の至る所で悲鳴や断末魔があがる。民らが恐慌に陥ったのは無理もないことだった。
 家族の無事を喜ぶ討伐隊の男たちも、留守中の惨劇を知るとその凄惨さに身の毛がよだつのを感じた。盗賊頭もその例外ではなかった。
 その時、風を切る音とともに、ラクダの眼前に黒い何かが降ってきた。獲物を見つけた怪物が、どこからか飛び降りてきたのである。
 突然のことに驚いたラクダは、背中に跨る盗賊頭を振り落とし、一目散に逃げていった。取り残された盗賊頭は青ざめた。目の前に現れたのは、ラクダほどの巨体を持つサソリであった。
「助けてくれえ!」
 群衆の中に逃げ込もうとする盗賊頭。その背を怪物が追う。最後の一人。逃すわけにはいかない。
 目にも止まらぬ俊敏さで、怪物は男の背中に飛びかかった。盗賊頭はもんどり打って地面に倒れ込む。怪物が尾針をもたげて身を屈めた。
 この一刺しで全て片が付く。その気の緩みが命取りとなった。
「このバケモノめ!」
 誰かが突き出した槍が怪物の急所を貫いた。紫黒色の血が、怪物の胸から見る見るうちに溢れ出る。
 それでも盗賊を逃すまいと、怪物は男の衣の裾を鋏でつかみ、引き寄せた。血だまりに男の右足が浸かる。盗賊頭が悲鳴をあげた。怪物の血には肉を溶かす作用があった。怪物が盗賊頭を抱き寄せるようにして覆い被さると、悲鳴はじきに止んだ。
 体から力が抜けていく。怪物は己の死を悟った。
 群衆の中に、いつか自分を救ってくれたかつての少女を見つけた。出会いの日からずっと、少女を喰らうこともせず助け続けた理由。その答えを見つけ出せないまま、怪物は死んだ。
 怪物の命の光が消える間際、猛り狂う炎がロウソクほどの大きさになったとき、少女だった女はようやくその正体に気がついた。
 皆が勝鬨かちどきをあげる中、たった一人だけ、怪物のために涙するものがあった。


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このお話は『愛か執着か』をテーマにして書きました。

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