掌編小説(21)『クロミミとウォルナット』
風に吹かれた人形が、カタカタ音を立てました。
パカっと開いた頭の蓋が、風の力で開いたり閉じたりを繰り返します。
露天で売りに出されていた頃は、大きな飴を頭に入れられていましたが今は空っぽ。飴を失った人形は用無しとばかりに、道端に投げ捨てられてしまったのです。たまたまそこに生えていた、大きな胡桃の木の下に。
偶然とは不思議なものです。それに、不思議であるからこそ偶然といえます。
言い方を変えましょう。
不思議なことが起こるためには偶然が必要なのです。
秋のはじめ。よく晴れた空の下。一羽のヤマガラが偶然、胡桃の木の枝にとまりました。枝の先では胡桃の実が割れはじめ、種を守るしわしわの殻が顔をのぞかせています。種はヤマガラにとってご馳走でした。
それにヤマガラはお腹を空かせていました。あとで食べようと隠していた木の実を、他の野鳥にことごとく横取りされてしまったのです。
そんなわけで、その胡桃はようやく見つけたご馳走でした。ですから、もう隠すだなんて面倒で効率の悪いことはしません。殻ごと種を持ち去って、どこか安全な場所でさっさと食べてしまおう。そう考えていました。
そこに一匹の狐がやってきました。これも偶然。
そして狐もまた、腹を空かせていました。やっぱり偶然。
狐の獲物はヤマガラでした。なるべく音を立てないように、落ち葉を慎重に踏み歩きます。
木の上ではヤマガラが実の一つに狙いを定めて、枝から飛び立ちました。つついて落として持ち帰るつもりです。
ヤマガラが逃げてしまう。狐は思わず前足に力を込めました。すると不運にも、落ち葉の下敷きになっていた枯れ枝を踏んでしまいました。パキッと乾いた音が鳴ります。
それはそれは小さな音でしたが、ヤマガラが危険を察知するには充分でした。
今にも胡桃の種をくわえようとしていたヤマガラは、空中でさっと方向転換すると、そのままどこかへと飛び去っていきました。お腹は空いたままでしたが、命には代えられません。狐に食べられてしまっては、もう二度と胡桃を食べることができませんから。
ヤマガラがとり損ねた胡桃の種がどうなったかというと、真っ逆さまに落っこちて、例の人形の頭に激突しました。またもや偶然。
種はコーンと音を立てて真上に跳ねました。殻が割れます。
人形の頭の蓋は、種がぶつかった衝撃で完全に開きました。
そこに落ちてきた胡桃の種実がすっぽりおさまると、反動で人形の頭の蓋が閉まりました。さすがにこれが最後の偶然でしょうか?
いえいえ、そうではありません。
その日に起こった最後にして最大の偶然は、彼の頭に放り込まれた胡桃の種実が、生き物が持つあるものにたまたまそっくりだったことでしょう。ええ、もうまさに、偶然に。
こうして彼は生まれました。
「ああ、ひどい気分だ。頭の中で、コンコン、コンコン音がする」
人形は頭を二、三度振って、中身のすわりを整えました。
奇跡ともいうべき偶然の産物。驚いた狐は口をあんぐり開けると、まるで石像のように固まってしまいました。無理もありません。目の前で人形に命が宿ったのですから。
「お、おまえ——」
「ああ、驚かせてすまなかった。狐の、えーっと」
「クロミミだ。見たまんまさ。それよりもおまえはいったいなんなんだ?」
「まあ、ウォルナットとでも呼べばいい。からだはオーク材だがオツムは胡桃。ご機嫌さ。まったくもってね」
期待していた答えではありませんでしたが、狐はそれ以上の質問はやめにしました。
すでに気をとり直したクロミミ。彼の目的は別にあります。
先ほどからくるくるとやかましい腹の虫を鳴り止ませる必要があるのです。ウォルナットと長い付き合いをするつもりはありませんでした。
「まあいいや。それよりもよう。そのう、さっきおまえの頭に妙なもんが入ったろう。取ってやるから、こっちに来なよ」
「それは困る。私はこれから行くところがあるのでね」
「いいから。悪いようにはしないよ」
クロミミの言葉には耳を貸さず、ウォルナットはどこかに向かって歩きはじめました。まあ、そもそも耳が付いているようには見えませんから、仕方のないことかもしれません。
「しょうがねえなあ。少しだけつきあってやるよ」
クロミミはウォルナットの後をついて行くことにしました。彼がどこに向かうのか、少し興味が湧いたのです。それに、ウォルナットはたいへん不思議な人形ではありましたが、クロミミにとっては脆くて小さな木製の人形であることに変わりはありません。その気になればいつだって、襲いかかって胡桃を奪うこともできるのです。
自らに迫る危機に気がつくこともなく、ウォルナットはクロミミを先導します。
「あっちにモグラがいるんだが、寒い寒いと震えているんだ」
「ほう、モグラがねえ。そいつはいいや」
狐は思わず舌舐めずりをしました。モグラはクロミミの好物のひとつです。
「いいことなどあるもんか。これからさらに寒さが厳しくなるだろう? どうにかしてやらないと」
使命感に燃えたウォルナットはどんどん森の中を進んで、木々の密集した日陰までやってきました。
「ここだ。おおい! 寒さに震えるモグラのきみ! いるんだろう。助けにきた。出てきたまえ!」
ウォルナットの声は木立に吸いこまれて消えました。
クロミミはというと、地面すれすれに鼻を近づけてふんふんと嗅ぎ回っています。モグラを見つけ出そうとしているのです。
クロミミが動きを止めました。
「ここか」
クロミミは前足で地面を掘りはじめます。
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
地面の中からくぐもった悲鳴が聞こえました。慌てたモグラが助けを求めます。
「急になんだい! 助けるって言ったそばから狐が穴ほり、出ていきゃパクリか? えらく姑息な手段じゃあないか! ええ?」
「へえ、おれが狐だって? どうしてわかる。鹿や猪かもしれないだろう」
「鼻がきくのはアンタたち狐の専売特許ってわけじゃないのさ」
「生意気なやろうだ。待ってろ。今に掘り出してやるよ」
クロミミが再び土を掘り返そうとします。
「よさないかクロミミ! 彼は寒いと言っているのに。ほら、そこらにある落ち葉をここに集めてくれ」
「馬鹿も休み休み言えよ。どうしておれがそんなことをしなくちゃならない。寒くて辛いってんなら、ひとおもいに腹ん中におさめてやるよ。あったかいぜ。ぬくぬくできらあ」
「それでは冬を越す前に彼は骨になってしまう」
モグラは地中で小さく震えています。これは寒さのせいではありません。
「クロミミ、頼む。力を貸してくれ。私の用事が終わったら、君の望みも叶えようとも。それでどうだい?」
「おれの望みがなんだって?」
クロミミはウォルナットを睨みつけました。
ウォルナットは一歩も引き下がりません。
クロミミはため息をつきました。
「わかったよ。落ち葉だな。どっさりくれてやらあ」
クロミミは前足を器用に使って、しかしぞんざいに、落ち葉の山をつくりました。
「よしよし、それで充分。モグラのきみ。これを巣の中に敷けば、暖かいふとんになるだろう」
「おお、これは助かる。狐のだんな、さっきはすまない。あんた、意外と親切なんだな。ありがとうよ」
クロミミは前足についた枯れ葉のくずをもう片方の前足で払っています。その顔にははっきりと「おもしろくない」と書いてありました。
「ふん。情けねえ話だぜまったくよ。お狐さまがモグラにご親切ってか」
モグラに見送られながら(といっても、姿までは見せませんでしたが)、ウォルナットとクロミミはその場をあとにしました。
ウォルナット一行はその後も森の住人たちの困りごとを解決しながら行ったりきたり。
昼寝しているうちに長いからだを絡ませてしまったヘビや、脳震盪を起こしたキツツキの手助けをして歩きました。
それにしても、森の住人たちの居場所を見つけるのは、それほど簡単なことではないはず。なのに、ウォルナットの歩みにはいっさい迷いがありません。どうしてでしょう。
「おい、ウォルナットよう。おまえ、さっきからなんでそう見事にヘビやらキツツキやらのいる場所がわかるんだ。コツがあるんならおれにもちょいと教えてくれよ。そうしてくれりゃあ、きっとおれも、みんなの役に立ってやらあ」
この言葉の半分は嘘です。
クロミミの腹はずっと空いたまま。できることなら、さっきのヘビやキツツキだって食べてしまいたかった。だから半分は、獲物を楽に探せる方法を知りたいのです。ではもう半分は?
クロミミは頭の片隅で、あと一回……いや、二回くらいは、「ありがとう」と言われてみてもいいかもしれない。そう考えていました。手伝いを渋々続けていたのも、自分にとってどちらが得かを決めかねていたからでした。
そうとは知らないウォルナット。さっぱりわからないと手を上に。まさにお手上げです。
「なぜだろう? どうしてだか、気が付いたときにこの森で起こっていることをすべて知っていたんだ。不思議なこともあるものだろう?」
「おまえが言えたこっちゃねえよ」
その日、ウォルナットたちが最後に訪れたのは、あのヤマガラの住むブナの木でした。
「おおい、ヤマガラよ。さっきはすまなかった。ほら、これを返すよ」
驚いたことに、ウォルナットは頭の蓋をかぱっと開けると、ヤマガラに向かって中身を差し出すように頭を垂れたのです。
「馬鹿やろう、なにしてやがる!」
クロミミの制止もむなしく、地面に落ちたウォルナットの胡桃は、一瞬にしてヤマガラに持ち去られてしまいました。
ウォルナットが膝をつきます。
「これでいい。これで、私のしでかしたことも誤差の内だろう」
「なにわけのわかんねえこと言ってやがる——」
「もともとあのヤマガラに食われるはずの胡桃のオツムさ。これで偶然もひと回り。ひと回りしてもとどおり」
「忘れたのかよ! おまえがいなくなっちまったら、おれの望みってやつはどうなるんだ」
クロミミはウォルナットにすがりつきました。
「忘れてなどいないよ。きみの望みは目覚めたときから知っているさ。きみは長いこと腹を空かせていた」
ウォルナットはよろよろと左腕をあげました。
「ここから少し行けば小川がある。君なら日暮れまでに着くだろう。そこを越えてすぐに手付かずの穴ぐらがある。そばにはどっさり胡桃が落ちてるよ。君が冬を越すには十分の量だ」
「はん。どっさりねえ。腹の足しになるかどうか」
「さようならクロミミ。きみは自分で思うより素直で良いやつさ。楽しかった。ありがとう」
「もういっちまうのかよう。胡桃なんていいからよ、もうすこし一緒に歩こうぜ。なあウォルナットよう」
クロミミはいつの間にか、この人形のことが好きになっていました。小さな心変わりはいつしか、クロミミの望みまで変えてしまっていたのです。
ついに動かなくなったウォルナット。クロミミは人形の頬をペロリと舐めてやりました。
「ああ、確かに腹は空いちゃあいたが、ちくしょう。自分勝手に現れて、自分勝手に消えちまいやがって。また独りになっちまった」
俯くクロミミの鼻先からぽたぽたと落ちる雫が、地面の色を少しだけ濃く塗りつぶします。
何も知らない夕陽は木々の梢を越えて、森の向こうに沈んでいきました。
秋のはじめに偶然生まれた、不思議な話はこれでおしまい。
黒い耳した一匹の狐は、淋しさ混じりの遠吠えひとつ。
大事そうにくわえた人形とともに、森の中へと消えていきました。
***
このお話は、9月30日の『くるみの日』にちなんで、『脳に似た胡桃を脳にもつ人形』をテーマにして書きました。
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