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掌編小説(16)『降らす調べの送り風』

 風の名は知らない。
 そのひとつひとつに呼び名があることは承知していたが、ひゅうひゅうと嘯く彼らの言葉は私の枝葉を震わせるばかりで、ざわざわという音にすべてがかき消されてしまって、いつも何を聞き取ることもできなかった。

 春。
 どこからかふわりとやってきた風が、私に向かっておもむろに告げた。
「御身は知らねばならぬ。今はもう枯れゆかんとする御身の最期は、今はまだ芽吹かぬ写身たちへの教化なれば」
 初めて明確に届けられた彼らの言。じわじわと湧き立つ高揚感は先ほどの言葉が示す意味に思考が追いつくことでますます全身に行きわたり、幹の中心では何かが小さく脈打つのを感じた。川縁の巌に張った根を通して、充実たる岩清水が我が身を隅々まで駆けめぐる。
「ああ、これこそが——」
 私がこの身のもつ役割を理解するとたちまち、八方に伸ばした枝先すべてに薄紅の花が咲いていった。その花弁ひとつひとつに込められた私の記憶。
「御身は散らねばならぬ。御身の散り花は稚児どもが連れ立つ行く末の種なれば」
 初めのひとひらが宙を舞うと、続けて花弁が十ばかり、私のもとを去っていった。

 はらはらと、分け身たちを見送った。
 今は夜半。望月があたりを淡く照らしている。水面に映る双子の空。ぼんやりと波打つ満月に吸い込まれるようにして、薄紅の花弁が降り落ちていく。我が分身のひとつひとつは月光の窓に融けるたびに、きんと静寂をわるように小さくないた。

 やがて私はすべての花と散り別れた。残されたものは萎れた枝々のほかに、かろうじて巌に立つ痩せ細った幹。意識もすでにか細く、あとは役目を終えるばかり。
 いよいよ倒れようとする私のそばで、また、ひゅうひゅうと風がないた。
「御身は行かねばならぬ。これより先、私が刻んだ轍を継いで、いつか巡り会う御身の写身たちに旅立ちを告げることが、風の名をつなぐ我々の真の役目なれば」
 倒れかかる私のからだを受け止めるようにして、風は私を包み込む。枝先が水面に触れるよりはやく、永らく時をともにした我が身は空に溶けるようにして砕けていく。
 そうして私は風になった。


***


このお話は、4月30日の『図書館の日』にちなんで、『図書館』をテーマにして書きました。

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