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短編小説『ある夏の記』

 ある夏の昼下がりに、私は母の実家を訪れていた。一昨年に祖母が亡くなったことで無人となった家の、家財などの整理にやってきたのだった。
 遺品の整理もひと段落ついたので、私は休憩をとることにした。縁側に座り、用意したコップ一杯のぬるい麦茶を一気に飲み干す。こめかみに浮かんだ汗が頬を伝い、顎先で止まって、音もなく私のもとを去っていく。紺のスカートが黒くにじんだ。
 家は山奥にあるので、町中に比べれば暑さはいくらかマシなのだろうが、やはり暑いものは暑い。
 高すぎる気温のせいか蝉は鳴くことをやめ、ギラギラとうるさい夏空とは対照的に、家の周囲は一切の音が取り除かれてしまったような静寂に包まれていた。
 次はどこから手を付けようか。私は後ろを振り返った。そこは八畳の和室で、祖母の部屋でもあった。文机の前に座る祖母と、時間を忘れておしゃべりを楽しんだことがつい最近のことのように思い出される。記憶の中の祖母はいつもあの文机の近くにいた。
 よくよく思い返してみると、私は祖母の部屋に入ったことすらないことに気が付いた。今こうして遺品整理のために帰省していても、なんとなく祖母の部屋は後回しにしている。「親しい中にも礼儀あり」というような、彼女の個人的な領域に足を踏み入れる遠慮というよりは、なんとなく、気後れに近い正体不明の感情があった。
 そうはいっても手を付けないわけにもいかない。意を決した私は、思い切って部屋に足を踏み入れた。正直に言えば、私の心はこのときすでに、好奇心に支配されていた。
 初めて見る部屋の中には、きれい好きで几帳面な祖母の性格が形を変えて、今も色濃く残っていた。
 箪笥の上を見れば、市松人形が入ったケースは天板と並行に置かれている。その隣には、絹鞠が大きさの順に並んでいた。そのどれもが等間隔に据え置いた台座に収まっている。部屋の隅に置かれた文机の上には、やはり背の高さの順に並べられた冊子や文庫が本立てに挟まれ整列していた。
 その手前に置かれた黒い文箱と思しきものに、私の視線は釘付けになった。
「あれ?」と思わず口に出していた。
 さっき障子を開けたときには、文机の上に文箱など無かったはずだ。でも確かに目の前にある。文箱は漆塗りの光沢を放ち、現実に存在を示している。こんなものを見落とすだろうかと首を傾げつつ、私は誘われるようにして文机に歩み寄り、腰を下ろそうと天板に手をついた。
「いたっ!」腕全体に鋭い痛みがはしる。
 体重を支え切れなかった私は膝をついた。前腕を見ると、赤黒く変色している。
「高かったのになあ」
 無残に砕けたお気に入りの花瓶のことを思い出し、悲しくなった。
 気を取り直して文箱に向き直る。蒔絵もない、飾り気のない黒い箱。私は文箱の蓋をあけた。
 文箱の中にしまわれていたのは、一冊の手帖だった。上質紙を使った市販のノートなどではなく、わら半紙を紐で綴じただけの質素で古めかしい手帖。祖母のお手製かもしれない。私は文庫本サイズのその手帖を、そっと膝の上に乗せた。無地の表紙をめくる。そこには懐かしい祖母の筆跡で【山姥記】と記されてあった。

 もし誰かに、祖母、雪江がどんな人物かと聞かれたら、私は「おっかなくて、可愛い人」と答えるだろう。
 快活でおしゃべり好きな祖母は、母と共に帰省した私を毎度のように縁側に呼びつけた。それから、二人でとりとめのない世間話を始める。学校のこと。好きな男の子のこと。それに趣味の話も。
 祖母は園芸が趣味で、庭は彼女が手塩にかけて育てた植物でいっぱいになっている。季節ごとに表情を変える草木や花を我が子のように可愛がっていて、その一つ一つの特徴や世話をするときの注意点などを私に教えてくれた。特に無花果の木を大事にしていて、こまめに雑草を抜くのはもちろん、剪定も自分でするほどだった。
 それだけではない。夏の帰省に合わせるように生る無花果の実は、「絶対にとってはいけないし、口にしてはいけない」と母から散々に言い聞かされた。かといって祖母の好物というわけでもないから、不思議な話だ。
 吹奏楽部だった私は、演奏の楽しさや難しさについて熱弁をふるったり、お気に入りのミュージシャンの話についてやはり熱く語ったりした。話のほとんどを祖母は理解できなかったに違いないが、笑みを絶やすことなく相槌を打ってくれたものだ。
 会話の最後には決まって「悩み事はないか」と聞かれた。「特にないよ」と私が言っても、「ほんとうに? 私にだけは隠しごとなしよ」と祖母は言ってくれたのだった。
 彼女と話していると、まるで気の置けない友人、もっと言えば、年の離れた姉と話しているようで、楽しかった。
 しかし、ひとたび怒らせようものなら、鬼のように恐ろしい。
 叱られる程度ならまだいい。多少のことであれば、お小言のあとにコツンとゲンコツをもらうだけで済んだ。これはまだ、「優しいおばあちゃん」の延長といえる。
「鬼のように」というのは、決して誇張しているわけではないのだ。
 私は過去に一度だけ、祖母に殺されかけたことがある。

 小学四年生の夏休みのことだ。その年も祖母の住む田舎に帰省していた私は、近所に住むマイちゃんという女の子と知り合った。彼女は田舎暮らしに憧れた両親とともに、都会から移住してきたとのことだった。年齢が近いこともあって、私とマイちゃんはすぐに仲良くなった。
 マイちゃんには少し意地悪な一面があった。自分の友だちに対して、彼女の服装を私が揶揄していると吹聴したり、そうかと思えば、私を唯一無二の親友だと紹介したりした。日ごとに変わる一貫しない態度や言動は、私を混乱の渦に突き落とした。私が泣けば喜んで、私が笑えばそれはそれで嬉しそうだった。
 今にしてみれば、彼女の不安定な情緒は無理もないことだと思えた。突然、都会から何もない、友だちもいない田舎に転校させられたのだ。周りにうまく馴染めないために、私を共通の敵として、いけ好かない都会の子に仕立て上げたのかもしれない。その一方で、気を悪くした私が友だちをやめてしまわないかと、気が気じゃなかったのかもしれない。
 そんな私に彼女がある提案をしたことがきっかけとなって、私は祖母に殺されかけることになる。
 近所にデンという名の犬がいた。毛の短い、煤けた色の雑種だった。
 マイちゃんが言った。
「あの犬、ころしてみようよ」
 私がなぜそんなことをしないといけないのかと言うと彼女は、「だって、キタナイし、クサイから」と言った。
「犬ってさ、玉ねぎ食べたらしぬんだって」マイちゃんは肩に提げたピンクのバッグからビニール袋を取り出す。
 まるで「チョコでガムが溶ける」のを試してみるような、単純で手軽な動機で、彼女はひとつの命を奪おうとしている。
 止めようとしたが遅かった。いつも飢えたように吠えるデンは、その日もやはり飢えていて、マイちゃんの投げたオニオンフライを飛びかかった勢いのまま空中でパクリとキャッチする。萎びてくっついたオニオンフライの塊は、あっという間にデンの胃袋に収まった。
 歓声を上げて走り去るマイちゃんを追って私も走る。動悸で胸が痛い。後ろを振り返る。デンが私たちに向かって吠えている。非難しているのか、おかわりをねだっているのか。どちらにせよ、罪悪感で視界は滲んだ。
 二日後にデンは死んだ。何食わぬ顔でスイカを頬張りながら、マイちゃんが教えてくれた。
 祖母に問い詰められたのは、その日の夕方のことだった。一部始終を見ていた近所の誰かが、デンの死と私たちの行動に関連があるようだと飼い主に告げ、真相を確かめようとした飼い主が祖母に連絡したのだった。
 私はマイちゃんをかばった。いつも優しい祖母のことだから、少し叱られる程度で済むだろうという甘い考えがあった。これが大きな誤りだった。
「犬が玉ねぎを食べたら本当に死ぬのか見たかった」と、私はマイちゃんの言葉を借りた。
 私が言い終わるや否や、祖母の顔はまさに般若の形相となった。
 夕飯の支度途中だったため、祖母は手に菜切り包丁を握っていた。祖母の腕の戦慄きが包丁を伝って、カチカチとシンクを打つ。それと同時に、私の奥歯までカスタネットのように音を立てた。
 逃げようとしたそのときだった。後退りした私の腕のすぐそばを、祖母の振り下ろした包丁がひゅっと通り過ぎた。半歩下がっていなければ、私の脳天はパカリと割れていたことだろう。
 そして家の中を舞台にした鬼ごっこが始まった。私が逃げて、祖母が鬼。捕まれば、命は無い。私は必死に逃げた。
 結局、騒動を聞きつけたマイちゃんの両親が家に駆け付け、祖母を必死になだめて真実を伝えたことで一件は落着した。あちらはあちらで色々とあったのだろう。憔悴した父親の表情と、頬を赤く腫らしたマイちゃんを見て、私はそう思った。
 都会に住んでいるくせに、長い休みとなれば田舎に帰ってくる。そんな「いいとこどり」をするような私が恨めしくて、動物虐待の片棒を担がせたとマイちゃんは告白した。幼稚な嫉妬で私は祖母に殺されかけたわけだ。
 人騒がせなマイちゃんは、次に帰ったときには、どこかに引っ越していなくなっていた。
 それにしても、菜切り包丁を持って私を追う祖母は、さながら山姥のようだった。
 そんな祖母が大事にしまいこんでいた日記のタイトルが【山姥記】というのだから面白い。祖母はこのような、良識ある大人であれば眉を顰めるようなユーモアも持ち合わせていた。

 手帖の表紙を開くと、折りたたまれた紙が挟んであった。手帖を机に置き、紙を開く。すると零れるようにして、一枚の紙片が膝の上に舞い落ちた。写真だった。
 白黒の写真には、和装の男性がひとり映っている。写真の裏を見ると、祖母の字で【幹雄さん】と書いてあった。幹雄とは、祖父の名だ。私は胸の高鳴りを覚えた。
 私はこれまで祖父の顔を知らずに生きてきた。祖母宅にある仏壇の写真立てには、そこにあるはずの遺影がなかったからだ。
 どうして遺影が入っていないのかを、私は祖母にたずねたことがある。
 祖母はそれまでの会話の中でみせた饒舌さが嘘のように、口を閉ざした。
「顔なんてね、まともに見れたもんじゃないよ」
 ぽつりと、祖母は庭の無花果の木を見つめて言った。
 そのときに祖母が浮かべた、申し訳なさそうな、それでいて懐かしむような複雑な表情を今でもよく覚えている。
 私は自分の祖父はよほど不細工だったのかと、少なからずショックを受けた。顔も知らない祖父のことを、いつの間にか脳内で勝手に美化してしまっていたのだ。
 祖父は母が三つか四つになる年の夏に、何の前触れもなく他界したらしかった。「らしい」というのは、母曰く祖父は「ある日突然いなくなった」とのことだった。母親である雪江に理由を聞いても泣くばかりで、母、美雪は幼心に、父親とはもう一生会えないのだと悟った。
 その頃、祖母のおなかの中には叔父の幹彦がいて、一家の大黒柱を失ったばかりの母たちは相当な苦労をしたらしい。食うや食わずの毎日に、母は何度もくじけそうになったと言っていた。ようやく食料にありつけても、雪江はまず娘に差し出して、自分はほとんど口にしなかった。
 叔父の幹彦は、中学校を卒業するとすぐに家を出て行ってしまった。そのために、経済的に厳しい生活はさらに続いたとのことだった。叔父とは今でも絶縁状態にあるが、祖母も母も叔父に対する恨み言は一切言わなかった。
 写真の中の祖父は微笑んでいた。二枚目とは言えないかもしれないが、とても優しそうな人に見えた。
 それにしてもなぜ祖母は、祖父の写真が存在するにもかかわらず、こうして仕舞い込んでいたのだろうか。
 その謎は写真を包んでいた紙にあるのかもしれない。そう思った私は改めて、広げた紙の上にヒントを探した。だが、すぐに首を傾げることになった。包み紙は便箋で、端の方にたった一文だけがこう記されていた。
【一緒に燃やして欲しい】
 あの手帖と一緒に燃やしてくれと、そういうことだろう。
 まだ中を見ていないので内容はわからないが、手帖は多分、日記かなにかだろうと見当をつけた。自分の日記に夫の写真を挟んで大事にしまっていたなんて、祖母もかわいいことをする。私は思わず頬を緩めた。
「よお」とすぐそばで声がした。
「だれ?」と考えるより早く、私の肉体は声の主を判別していた。
 ほとんど反射的に、私の体は竦みあがった。

「随分イナカにいたもんだな。遠かったよ」
 薄ら笑いを浮かべた夫、和也が庭に立っていた。
「もしかしてここが由香のばあさんち? とりあえず位置情報たどって来ただけだから、自分がどこに向かってんのかもわかんなくて」
 何も知らない赤の他人が見れば人の好い笑顔にも見えるのだろうが、和也が今にもフラストレーションを爆発させようとしていると私にはわかった。
「ちなみに位置情報ってのは車ね。出て行くならせめてレンタカーとかにすればいいのに、相変わらず頭悪いよなあオマエ」
 手に提げたビニール袋から缶ビールを取り出し、縁側に置いてあったコップに注いだ。わざわざ道中で買ってきたのか。すでに数本空にしているようで、いくつかの空き缶がビニール袋の中でひしゃげていた。
 喉を鳴らして、和也がビールをあおるのを私は見ていることしかできない。喉になにかが詰まったような息苦しさを感じる。
 和也は空になったコップを私に投げつけた。いつもの癖で頭をかばう。耳のそばで、ガラスの砕ける音がした。
「で、なに逃げてんの?」低くなった声色は、私の視界まで暗くさせる。
「あのさあ、俺言ったよね。勝手なことすんなって。俺が良いって言うまで、ここには行くなって。行ったよねえ」
 尻上がりに強くなる口調に、全身が弛緩する。怯える私の様子を見て、和也は満足そうに目を細めた。己のかけた呪縛が今も有効であると確認できたことによる満足のためか、それとも単に愉しんでいるのか。きっとその両方に違いない。
 和也はやおら片足を縁側にかけ、土足のまま室内に侵入した。
 祖母の部屋に、私たちの思い出の場所に、私の心に、この男はいつも平気で泥を塗る。
 胸の中、灯火のように芽生えた怒りが、身体中の強張りを解いていく。
「返事ぐらいしろよ」と、髪を掴んだ和也を、私は力の限り突き飛ばした。
 火事場の馬鹿力か、それとも足がもつれたのか、和也は縁側を超えて庭の中ほどまで転がっていった。髪は頭皮ごとちぎれた。
 汗とは違う粘度のある雫が、額を伝って目に入る。左の視界が朱に染まる。赤と黒、二色の世界はとても美しく見えた。もっともっと、赤く塗ろう。赤が足りない。赤が欲しい。
 裸足で庭に下りる。せき込む和也の向こう側に祖父が立っていた。無花果の木のそばで、首を横に振っている。次は首だと、そう決めた。
 和也の頸部を鷲掴みにして、引っこ抜くようにして腕を振る。和也は枯葉のように宙を舞って、また祖母の部屋を泥で汚した。汚してしまった責任の一端は私にもあるかもしれないが、その責任の一端はやはり和也にあるのだから、やはり和也が悪いということになる。悪いことをしたのなら、頭を割られて死なねばならぬ。死なねばならぬと誰かが耳元で囁く。
 庭に出していた廃棄予定の遺品の中から、菜切り包丁を取り出す。今にして思えば、なぜこんなにも素敵な道具を捨てようとしていたのか、己の行動に対して理解に苦しむ。
 縁側に上がると、砂でできた足跡がついた。ごめんなさい、おばあちゃん。おばあちゃん、ごめんなさいと、心の中で許しを乞う。左目から涙がこぼれた。
 畳の上を毛虫のように和也は這う。彼の脇腹の下につま先を入れて仰向けにする。馬乗りになる。終わりが近づく。
 鉈を振り上げ、和也の額に狙いを定めた。組み敷かれた状態の和也は咄嗟に前腕を顔の前で交差させ、防御の姿勢をとる。構わない。腕がいらないならまずはこの腕から切り落としてやる。かつては恐怖の象徴であった二本の腕が今は、頼りのない棒切れのように見える。
 散々私を打ち据えてきた拳は力なく開かれ、汗でへばりついた埃や泥で汚れている。和也は震え、泣いていた。
 私は思わず躊躇してしまった。腕の隙間から覗いた夫の顔は、恐怖で歪み、怯えによって汚れ、ひどく憐れに見えた。
「ゆる、許してください」と和也は呻く。
 私が何度そう言っても、お前は許さなかったじゃないか。指の骨がきしむほど、包丁の柄を強く握った。もう遅い。私はきっと、もう戻れない。
 こつんと、頭を何かに小突かれた。私がいけないことをしたときなんかに、散々頂戴してきた祖母のゲンコツ。紛れもない、あの強さで。
 手から滑り落ちた包丁が、畳の上でごとりと鈍い音を立てる。
 呆けた私の隙をついて、和也は両手をこちらに突き出した。先ほどまでの、鬼神のような膂力はすでになく、私は簡単に押し飛ばされた。
 私の背中を畳がやさしく受け止める。衝撃で、肺から空気が押し出される。胸を黒く塗りつぶしていた憎悪やなにかも、吐いた息に交じってどこかに消えてしまった。
 顔を縁側に向ける。畳みの上に転がる朱色の鞠の向こうで、和也が手足を振り乱しながら走り去るのが見えた。
 後々の面倒を考えると、追いかけて始末をつけた方が良いのかもしれない。いや、そんなことをすればなおのこと面倒なことになるかも。ぼんやりとした頭でそんなことを考えたが、やめた。なによりも、祖母にこれ以上叱られたくないなと思って、何もしないことに決めた。
 私は鞠を抱き寄せた。
 いつの間にか、ヒグラシが鳴いていた。

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