見出し画像

短編小説(1)『ホロウェイ(前編)』

 幼き骸骨少年は物憂げにため息をついた。
 身にまとうのは布切れひとつ。頭上に広がる曇り空のように、煤けたボロ切れただひとつ。
 今はひとり、沼のほとり。切り株に腰掛けている。
 沼を満たすのは錆色の泥水。聞こえるのは、ときおり水面に浮き出た空気がたてる、ぼこぼこという音だけ。沼をぐるりと取り囲む立ち枯れた木々も今は、耳を澄まし、口をつぐんでいる。
 骸骨少年が沼にたどり着いてから、すでに一昼夜が過ぎていた。そのあいだに、風通しの良いはずの胸の内は、暗澹たる思いで隙間なく塗りつぶされていた。
 自身に関わる記憶の欠如。思い出そうとするも、記憶を手繰る糸はぷつりと千切れ、あとに残るのはやるせなさだけ。
 湿った感情が澱む心の底を浚ってみても、あやふやな輪郭は指の間をするりとすり抜けてしまう。眼窩に溜めた朝露で涙を流してみたりもしたが、悲しみはわずかばかりも晴れはしなかった。
 骸骨少年は彼の人を待ち侘びながら、これまでの道中を振り返ることにした。





 沼にたどり着くまでに、骸骨少年は奇妙な面々と遭遇していた。
 最初に出会ったのは、燕尾服姿のやけに背の高い紳士だった。
 あたりを漂う霧の中に、胸から上が隠れてしまっている。目視できた部分だけでも、路傍に立つ枯れ木の梢をゆうに越えている。
 燕尾服の紳士は覚束ない足取りで、マッチ棒のように細い身体をゆらゆらと揺らしていた。
「おやおや少年、どこへ行く? この先には何もありはしないよ。どこにも行けやしない」
「道に迷ったんです。それに、ここに来るまでのことを何も覚えていなくて」
 燕尾服の背高男は腰を少しだけ曲げて、足元を見下ろす素振りを見せた。頭部は依然として、霧のベールの向こうにある。
「道に迷った? はて、それはおかしい。実におかしい」
 およそ、このあたりに頭があるのだろうと想像した場所から、水平にいくらかずれたあたりで声がする。骸骨少年は数字の【7】を思い浮かべた。
「君は可笑しいと笑うだろうが、本当におかしいんだ。オカシイだろう?」
 男は愉快そうにくっくと声を漏らした。骸骨少年は何と答えればいいかわからない。
「あっちに行ってごらん。私が指さす方に向かって真っすぐに進めば、君の求めるものが見つかるかもしれない」
「ぼくが求めるものって?」
「おっと、いけない。少しばかり口が滑ってしまったようだ——。とにかく行ってみたまえ。悪いことは言わない。悪いことはなあんにも言わないのさ。ほら、向こうだ」
 燕尾服の背高男は膝まである腕を持ち上げた。それからどこかを指し示した。骸骨少年は、男が霧の向こうで指さしているだろう方角に向かって歩き始めた。
「おやおや、本当にそっちで良いのかい? 後悔しても知らないよ」
 男のせせら笑いから逃げるように、骸骨少年は走った。

 骸骨少年が次に出会ったのは、膨らんだり縮んだりを繰り返す、赤いドレスを着た婦人だった。骸骨少年は最初、遠くで赤い血だまりが宙に浮かんでは、球になったり地面に落ちたりを繰り返しているのだと思った。
「あら、あなた。一体どこに行こうっていうの」
 骸骨少年は燕尾服の背高男から言われたことを風船女に聞かせた。
「馬鹿な子だねえ。あんな怪しい男の言うことを信じるなんて。あいつはとんだ大嘘つきよ。私も昔、痛い目にあってねえ」
 バスケットボールサイズの風船女は当時のことを思い出したのか、腹立たしそうに二度弾んだ。
「ふう。ああ、そうそう。向こうに行くのはおよしなさい。行ったところであなた、あそこには暗い暗い底無しの大穴があるだけ。落ちたら最後、あんたの最期よ。今度こそね」
 骸骨少年と話している最中も、風船女は涙の雫ほどの大きさからちょっとした小屋くらいの大きさをいったりきたりしている。変化に過程はなく、瞬きを超える速度で大きさが切り替わる。
「でもぼく、どうしてここにいるのか、どうやってここに来たのか、まったく覚えていないんです。どうすればいいのかも……わからなくて」
 風船女は骸骨少年の身長と同じ大きさになると、少年のまわりをぐるぐると廻った。
「迷ったのねあなた。迷子なのねえ。珍しいこともあるものだわ。ああ、これはこっちの話」
 風船女はもうしばらくぐるぐるを続けたあと、ゆっくりと骸骨少年の前で止まった。
「ならあなた。【蝋燭の森】にある沼の淵に行きなさいな。燭台公に相談するのよ。そうすれば、どうすれば良いのか教えてくれるはずよ」
 風船女は短い腕を伸ばして、骸骨少年が向かっていた方向とは直角の方角を指さした。
「真っすぐ行きなさいね。真っすぐ、まあっすぐ。するとあなた、やがて【蝋燭の森】が見えてくるわ。沼はその中心にある」
「ありがとう」
「いいのよ。これくらい」
 骸骨少年は礼を告げて立ち去ろうとした。その背中に風船女が声をかける。
「ああ、そうそう。燭台公は気高きお方で気難しいお方。失礼のないようにね。お話は手短になさい? 顔色をよく窺うのよ」

 風船女と別れてから、骸骨少年は道なき道を歩いた。視界には、白い砂に覆われた地面がどこまでも広がっている。
 どこからともなくやってきた風が、乾いた大地を幾度となく撫でてゆく。たちまち舞い上がる砂塵のせいで、風船女に教えてもらった方角はとっくにわからなくなっていた。それでも骸骨少年は歩き続けた。
 
 どれほど歩いただろうか。遠く視界の果てに、薄い影のようなものが見えた。骸骨少年はたまらず駆けだした。
 近づいていくにつれ、影の軍勢は実体をあらわにした。それは地面に突き刺さるようにして生えた何千本もの白樺だった。
 そこが風船女の教えてくれた【蝋燭の森】であることはすぐに分かった。蝋燭のように白い木々からなる森があることに加えて、その中心と思しき場所には沼があったからだ。こうして骸骨少年は目的地にたどり着いた。
 沼の淵には切り株がひとつあるだけで、風船女のいう燭台公の姿はどこにも見当たらない。
 骸骨少年は、燭台公がいずれ現れるのを期待して、じっと待つことに決めたのだった。





 骸骨少年が沼にやってきてから三日目の夜を迎えた。
 この日も、骸骨少年は眠ることもできない身体に虚しさを覚えながら、切り株の上で燭台公が現れるのを待ち続けていた。
 夜空高くに居座る満月は、黒紅色のカーテン越しに見る電灯のような、おぼろげで頼りない光を地上に届けている。
 すると、どこからか遠吠えが聞こえた。野犬だろうか。骸骨少年は初めて怯えるような素振りをみせた。思わず切り株から立ち上がる。それと同時に、足元の地面から微細な振動を感じた。震えは徐々に力を増し、白樺の木々をしならせるまでになった。地を揺らす音が静寂を追いやる。骸骨少年は思わず地に這いつくばった。
 先ほどの遠吠えが今度は背後から聞こえた。後ろを振り向く骸骨少年。その傍らを何かが駆け抜ける。
 月光の舞台に躍り出たのは、一匹の白狼だった。狼は骸骨少年には目もくれず、じっと沼の方を見つめている。骸骨少年は思わずその視線の先を追うが、なにも見あたりはしない。
 狼が三度目の遠吠えを上げた。まるで夜空を月ごと切り裂こうとでもするかのように鼻先を天に向かって振り上げ、長く、鋭く、吠えた。
 遠吠えの残響がすべて夜天に吸い込まれたとき、沼の中から風変わりな風見鶏が現れた。
 風見鶏は針金細工の蝙蝠だった。蝙蝠はキイキイと音をたてながら、羽ばたきを始める。
 針金蝙蝠は徐々に高度を上げ、それに吊り上げられるようにして、まずは円錐形の屋根が水面からせり上がった。続けて円筒形の塔が、最後には塔に縋りつくようにして接する小さな屋敷が現れ、その全貌は月光の下に曝された。大地の振動が徐々に鎮まってゆく。
 骸骨少年には、屋敷の威容がまるで《沼の底から誰かが天を指し示している》ように見えた。闇よりも深い黒色の扉がおもむろに開く。
 扉の陰から、燭台公が姿を現した。彼の貴人はタキシードを着た蝋燭台であった。人間でいえば、頭部のみが蝋燭をのせた燭台にとってかわったような風貌である。
「やあやあ満月。さては満月に違いない。そうだろう? ウーフィ・ルーフィ」
 白狼が音もたてず、燭台公に向かって跳躍し、その足元に着地した。燭台公が頭をなでると、狼は目を細めてそれを受け入れた。
「アンハッピー・バースデイだな。少年」
 燭台公に灯るオレンジ色の炎が奇しく踊る。
 骸骨少年には、燭台公が笑っているように見えた。

つづく


***



このお話は、10月31日の『ハロウィンの日』にちなんで、『悪い夢』をテーマにして書きました。

この記事が参加している募集

#スキしてみて

528,758件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?