見出し画像

だけど願いはかなわない 第十八話「妻達(前編)」


「あの日の約束を果たしてもらいに来ました。」

十一年振りに顔を合わせた元妻は、想像よりずっと老けた顔と白髪交じりのロングヘアで、けれど勝ち気だった学生の頃と同じ微笑を口元にたたえつつそう言った。

八年間に及ぶ結婚生活があっけなく幕を閉じた後、順番が逆になってしまったが遅ればせながら財産分与の話し合いをしたいと改めて連絡を取った時、けれどイズミは一切を受け取ろうとしなかった。

俺は無理に金を押しつけるのは諦め、その代わりとして学生時代から俺達夫婦と懇意にしていたタナカタケシを代理人に置いて伝言をしたのだ。

『長い人生、何が起こるか分らない。もし、まとまった金が必要な事態に陥ったら言ってくれ。例え何十年後でも応じるし、それはそちらの正式な取り分だから正々堂々と受け取って欲しい。』

そして時は流れ、元妻は語った。

「私の息子が腎不全で、早急な移植が必要です。私達夫婦は、二人とも提供者としての条件を満たしませんでした。海外で生体移植を受ける準備をしていますが、お金が足りません。正々堂々と受け取らせていただきます。」


・・・・


それは、小雨の降る平日の午後の事だった。

半休を取っていた僕は、真央との離婚話の件で弁護士事務所を訪問したところ、先客の中年女性が今にも暴れ出しそうな程激しく興奮している現場に遭遇したのだ。

「春日さん申し訳ありません、良ければ外に行きませんか?生憎の雨ですけど、コーヒーの美味しいカフェが近くにあるんですよ。」

そう言う僕の担当弁護士の背後、中年女性は聞くに堪えない暴言を吐き続け、新人の女性弁護士と初老の男性弁護士が二人がかりで中年女性をいさめている。

その女性の顔が、似ても似つかないはずの妻の真央と重なった。少し前の僕なら、おそらくこれだけで足が震える思いをしていただろう。

けれど、怒りに支配され我を忘れているその姿に対し、僕が抱いたのは、哀れみや切なさといった類いの感情だった。

ひたすらに真央の感情の起伏に振り回され、怒りの矛先を向けられ続けた二年間の結婚生活。彼女のか細い腕から放たれる暴力は、僕の肉体よりも精神を蝕んだ。

僕は少しずつ、けれど確実に、正常な判断力と自尊心を失い、心は恐怖で埋め尽くされた。

真央のように理不尽な激昂をするタイプの女性と深く接するのは初めてで、彼女の嘘や矛盾が露見する度、目の前の妻が何か恐ろしい怪物の様に思えた。

日常的に暴言を吐かれ、感情を持つ事すらも否定され、ただひたすらに憎しみをぶつけられ ーーーーーそして何より、その相手がお互い愛し愛され合うはずの自分の伴侶であるという事実が、心底惨めで恥ずかしかった。

そう、僕は自分が『惨めな男』である事を認めきれず、現実から背を向けてしまったのだ。

自分のマンションからまるで泥棒のように逃げ出したあの日も、その行為に対し真っ先に後ろ指を指したのは、他の誰でも無く僕だった。

僕の真の敵は真央では無く、そんな自分自身だったのだと思う。

スミちゃんのマンションに真央がやって来たあの日。僕はそれまでの羞恥心が全て吹き飛ぶほど、心の底から自分自身を恥じた。

スミちゃんが身体を張って僕を守ってくれているのに、自分はただ寝てるふりしか出来無いなんて。不甲斐ないという言葉は、僕のために存在しているのだと思った。

強くなりたい。

いや、なりたいなんて生易しい事を言っている場合じゃ無い。

惚れた女性に守られて、逃げて、それで終わっていいわけがない。

僕が、僕の方こそが、彼女の支えになりたい。

強くならなければ、その資格は無い。

「春日さん…落ち着いて聞いて下さい。」

カフェでの話し合いの最中、テーブルで向かい合っていた弁護士が、眼鏡の奥の視線を僕の背後に向けながら言った。

その続きを聞くより先、僕は察した。

真央が来ている。

視線の先を追うと、窓越しにこちらに半身を向けて立っている白いコート姿の真央が居た。カフェの軒先で雨宿りをしている体を装っているらしい。

仮の住まいでの一人暮らしは二年目に突入し、真央からの着信や留守電、次々と送られてくるメッセージの類いは優に数千件を越え、職場やアパートに押しかけられた回数も十や二十では収まらない。そしておそらく、真央はここ最近仕事も辞めて時間を持て余しているのだろう、先日スミちゃん達のマンションに現れたのを皮切りに、こうして思いがけない場所にまでやって来るようになった。

こんな異様な事態に慣れてしまっている僕は、ある意味でおかしくなっているのかもしれない。

けれど、僕の心はなぜか不思議と落ち着いていた。

僕はゆっくりと席を立ち、弁護士の制止の声を振り払ってカフェの入り口へと足を進めた。

店の扉を開けると、雨の日特有の静けさと湿気に包まれた。真央は久々に見た『自分の意思でこちらに向かってくる夫』に驚いたのか、呆然とした表情を浮かべて立ち尽くしている。

カフェの軒先、改めて対峙した妻は、怪物でも何でも無く、ただの弱々しい女性だった。

頻繁に美容院に行き、少しだけ変化した髪型に気付かなければまた激昂していた頃の、あのよく手入れされた髪は伸ばしっぱなしで、出会った頃に趣味の一つだと言って誇らしげに見せてきた彼女自慢のネイルも放置されて無残に剥げてしまっている。

袖口と裾がグレーに変色した真っ白いコートは、かつて恋人同士だった頃に僕が真央に贈ったクリスマスプレゼントだ。当時の真央は喜んでくれていたはずだったが、結婚後には「あんな子どもみたいなセンスのコート、恥ずかしい」とクローゼットの奥にしまい込んでいた。

「真央。」

名前を呼ぶと、一瞬、真央の肩がビクリと跳ねた。

そこにあるのは、以前のような険しい表情では無く、かつて僕の方が浮かべていた「次に何を言われるのだろう」という怯えだ。

あの頃の真央は、目の前に居ない。

なぜなら、あの頃の僕がもう居ないからだ。

「僕は、ちゃんと君が好きだったよ。」

僕の口から出た言葉があまりにも予想外だったらしく、真央の瞳が一際大きく見開かれた。

「君と結婚して、幸せな家庭を築いていくつもりだった。君を大切にしたかったし、君からも大切にされたかった。だから、それが出来無かった事が悲しかった。けど、君がどんなに怒鳴ろうと、泣いてわめこうと、もう僕の意思は変わらない。君を再び好きになる事は無い。別れて欲しい。」

気が付くと、僕の弁護士が窓越しにスマホを握りしめながらこちらの様子を伺っていた。真央が暴れ出す事を想定し、すぐに警察を呼べるようにしてくれているのだろう。

けれど僕の言葉が終わると、真央は無言のままこちらに背を向け、傘も差さずに小雨の中へ足を進めた。霧雨で霞む視界の中、その小さな背中は震えているように見えた。しかし僕の口から引き留める言葉が出るはずも無く、それはそのまま都会の景色に混ざって消えた。

その翌日の昼休み、昼食中にかかってきた弁護士からの電話は、真央が離婚に応じると言っているという報告だった。


・・・・・


“他の作家のところに行く気は無いか?“

言われた言葉の意味を理解するのに、少し時間がかかった。

そして意味を理解した後、次はその意図が分らずただ混乱した。

鬼塚さんは少しの沈黙の後、「先に言っておくが、お前には一切の落ち度は無い」と前置きをし、まとまったお金が必要という事と、良い機会なので一度仕事の整理をしてもっと自分の時間を確保しようと思っているという趣旨の説明をした。

そして、そのため今私がいただいているお給料と同じだけの額を払い続ける事が難しくなる事、それでは申し訳無いので私の事を欲しがっている作家に何人か心当たりがあるから、今より良い条件になるようにキチンと交渉するのでそちらに行かないかと切り出した。 

そのままの流れで、一気にその『私の新しい雇い主候補達』について話しを進めようとした鬼塚さんの言葉を慌てて遮る。

「待って、待って下さい!そんなに急に言われても、私は転職する気はありません!」

それから、お給料の事だけが問題ならそもそもが貰い過ぎだと思っていたので気にせずに減額して下さいと言おうとしたが、その瞬間、ある事に思い至った。

あおいちゃんとの同居を解消するという事は、いずれ私は一人で住むという事だ。いい大人が情けない事に、私は一人暮らしにかかる費用をよく知らない。

大学に入学してから最初の数ヶ月は大学の寮だったし、シロさんと住んでいた頃は金銭面は全てシロさんが負担してくれていた。あおいちゃんと住み始めてからは、公共料金の支払いは何もかもあおいちゃんが窓口になってくれていて、私は毎月決まった額を渡している形だ。

改めて、自分がどんなにあおいちゃんにお世話になりっぱなしだったのか、どれだけの負担を彼にかけていたのかを気付かされた。

そもそも、今住んでいるマンションはシロさんが購入したもので、今はシロさんの弟であるあおいちゃんのものだ。当然私が出て行く事を想定しているが、一人暮らし用の物件を探した事も無い私は家賃の相場すら知らない。

おそらく、今まで鬼塚さんからいただいていたお給料なら問題無くやっていけるだろう。けれど、減額となると、自炊の出来無い自分には厳しくなるのかもしれない。

ああ、三十も過ぎてこんな事も分らないなんて、自分が恥ずかしい。

鬼塚さんは一人考え込む私を眺め、「ま、急に言われても困るよな」と、周囲に張り詰めた緊張感を払拭するようにケケケッと笑い、軽い伸びをしつつそのままの体勢で畳に仰向けになった。

どうしてまとまったお金が必要なのか、雇い主側の都合で解雇を打診されている自分にはその理由を聞く権利があるとは思うが、何となくそれは切り出せなかった。

それより、鬼塚さんはこんなにも簡単に私を手放す事が出来るのだという衝撃と、常にいい加減な彼らしからぬ雇い主としての私への責任感を同時に感じ、言葉に詰まった。

「とりあえず考えておいてくれ。今抱えてる仕事は減らすつもりだが、急に辞めるワケにもいかないからな、来月や再来月に突然貧乏になるって話でも無いし。」

鬼塚さんはそう言って、仰向けのままで話しを続けた。

「それはそうとして、聞くだけ聞いておいて欲しい。今のところ、お前の紹介先の第一候補は緑川桜子だ。出版社の忘年会で顔を合わせた時、いつでもウチに来いってお前にも言ってただろ。あのばぁさん、及川の担当作家だからな、ヤツを通してお前の評判を聞いてて以前から羨ましがってるらしい。」

緑川桜子さんはエッセイも手がける小説家で、複数の作品が映画化されている売れっ子作家だ。

鬼塚さんは『ばぁさん』と言っているが、確か年齢はまだ六十手前で、シニカルな口調と和装が独特の雰囲気を醸し出しており、鬼塚さんは彼女の事が苦手らしく、顔を合わせる場ではどちらかと言えば避けている。なので、この名前が真っ先に出てくるのは少々意外だった。

「てっきり、森田先生の方かと思いました。」

森田先生というのは、大河ドラマを手がけた事もある大御所の脚本家で、脚本家としての鬼塚さんの先輩のような人だ。お互いお酒好きなので気が合うらしく、新人の頃から可愛がってもらっているとの話しで仲も悪くない。

この鬼塚さんの自宅にも何度か遊びに来ており、私と顔を合わせる度に「鬼塚のマネージャーなんか辞めて俺の所に来なよ」と冗談を言っては私を笑わせようとする気さくな人だ。

「森田ぁ!?あんなスケベ親父の所になんかやれるかよ、お前、あっという間に愛人にされちまうぜ。」

その言葉が、まるで年頃の娘を心配する父親のようで思わず笑ってしまった。鬼塚さんはそんな私に少しムッとしながら上半身を起こし、あぐらをかいてこちらを向き直ると、灰皿をたぐり寄せながら少し真面目な顔になる。

「笑い事じゃ無ぇよ、男の作家なんてスケベ野郎ばっかりだからな。お前は世間知らずなところがあるから気を付けろよ。」

そして胸元から取り出した煙草に火を点け、白い煙を吐き出し、目を細めながらまるで独り言の様にポツリと呟く。

「ま、誰にしろ、お前を気に入らないヤツなんて居ねぇよ。」

思いがけない褒め言葉に戸惑っていると、「何だ、照れてんのか」と今度は鬼塚さんが少し笑った。

「美人で、頭が切れて、俺みたいなヤツとも上手くやっていけて。及川が、お前が来てから俺が原稿を落とさなくなったって言いふらしてるし、お世辞でも何でもなく、俺の周りの作家は皆お前を欲しがってるよ。お前ならどこに行っても大丈夫だ、誰にでも好かれる。」

鬼塚さんの笑顔なら、今までも何度も見てきた。

けれどそこにあったのは、いつも私をからかう時の少し下卑たような笑い方でも、締め切りをとっくに過ぎた原稿が完成した時の達観した様な笑みでも無く、一切の淀みの無い澄み切った笑顔で、そして私が初めて見る彼の表情(かお)だった。

「誰にでも好かれるなんて、大げさです。」

「大げさじゃ無ぇよ、自信持て。」

そう言って一際深く煙草を吸い込んだ鬼塚さんの口から、わざとゆっくりと大きな煙が吐き出されていく様を二人で眺める。

その煙が消えきってしまう直前、私は自分でも驚く言葉を口走っていた。

「鬼塚さんは、私が好きですか?」

ーーーーー私達は、ほんの数秒、まるで時が止まったかのように黙って見つめ合い、そしてやがて彼の顔に困惑の色が浮かんだ瞬間、私は自分がはっきりと傷付いている事を悟った。







「妻達・後編」へつづく

面白いと思っていただけたら、右下(パソコンからは左下)の♥をポチッとお願いいたします!押すのは無料です。note未登録でも押せます。私のモチベーションに繋がります!!

↓次のお話はコチラ


↓一話戻る場合はコチラ

↓各話一覧はコチラ


私のTwitter(最新ツイート)はコチラ↓

※「小説のファンです」でフォロバ10000%だよ!チョロいね!!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?