見出し画像

眠りの森の植木屋さん 第一話「眠り姫達は自力で起きる」


「バーについて、一のポジションから。」

 レッスン場に母の声が響き渡り、レオタード姿の生徒達の背筋が一斉にピンと伸びる。

 足の形は、アン・ドゥオール。左右のかかと同士を背面でつけ、右のつま先から左のつま先までを一本の線に。初心者が悪戦苦闘するこのポーズは、物心が付いた時には自然と身についていた。

 レッスン場が心地の良い緊張感に包まれ、ジュニアクラスの子ども達の手が足が次々と同じ形を辿り、その合間合間に母の声が飛ぶ。

「〇〇ちゃん、お尻を引かないで。」

「△△くん、いいわね、その調子よ。」

 私はそれを聞きながら当り前の様に身体に染みこんだポジショニングを繰り返しつつ、自分の口元がニヤけている事に気が付いた。

 今日はこの後、発表会の配役が告げられる予定だ。ジュニアクラスの演目は、『眠れる森の美女』。

 幼い頃に初めてプロのバレエ団を観覧した際の演目で、その時に受けた衝撃は今も新鮮なまま心に焼き付いている。私自身がバレエコンクールで一位を受賞した時に踊ったのも、オーロラ姫のバリエーションだった。

 オーロラ姫は、私にとって最も思い入れのある役で、そしてこのクラスのメンバーを考えれば、どう考えても私が選ばれるはずだ。ニヤつきながら高く掲げた自分の足を見上げると、私が履いていたのは練習用のポアントでは無く、本番用の真っ白なトゥシューズだった。

 ここで、やっとこれは夢なのだと気付いたが、場面は容赦なく切り替わり、レッスン場の壁に配役が張り出される。

 分かっている、この後どうなるかなんて。もう、何十回とみてきた夢なのだから。

 オーロラ姫に選ばれるのは、現実の記憶通り、一学年上の大橋あずみちゃん。私は皆がレッスン場を出た後に母に詰め寄るが、母の言葉も現実通りだ。

「そうね、親の欲目を抜きにしても、花が一番上手だわ。オーロラ姫のイメージにも、一番合っているでしょうね。でも、自分の教室の発表会で、毎回娘に主役をやらせるなんてできるわけが無いでしょう。そのくらい言わなくても分かりなさい。」

 そしてそこから先は、時系列なんて無視をして、まだずっと先の未来に起こる予定の私の最大の受難が、いかにも夢らしい形で姿を現す。

「それに、花のその足でオーロラなんて…踊れるわけがないでしょう?」

 そう言う母の視線は私の足元に向けられていて、その目線を追うと、いつの間にか右足のトウシューズは真っ赤な血に染まっていた。

 私が慌ててその血まみれのトウシューズの紐を解いて脱ぐと、ポロポロと三本の指がレッスン場の床に転げ落ちた。


 ・・・・・


 スマホの着信音で目が覚めた。

 画面には、妹からのハッピーバースディのメッセージ。そしてスマホ越しに広がるのは、雑然と散らかった室内。

 衣類、仕事の資料、コーヒー缶、蓋を紛失した蛍光ペン、菓子パンの袋、慌てて交換したプリンターの空インク、付箋を貼りすぎて閉じなくなっているノートパソコン、その周りに散らばっている粘着力を失った付箋、書けなくなったボールペン、そして蛍光ペンの蓋。

「あぁ、ここに居たの。駄目だよー、迷子になっちゃ…。」

 私は蛍光ペンの蓋に話しかけながら拾い上げ、離ればなれになっていた本体にカチリと合体させて机の上のペン立てに放り投げた。そしてそのまま散らかった部屋の中央に立ち尽くし、自分の誕生日も曖昧になるくらい仕事に没頭していたのだと、全ての記事が完成した昨夜の余韻に浸る。

 月に一度、必ず仕事に一区切りつくように計画し、『回復期』を設けている。今日は徹底的に溜まった家事をやっつけて、明日からの三日間は自由気ままに過ごすつもりだ。

 ライターの仕事は嫌いじゃ無い。入稿後の達成感は何物にも代え難いし、普通の会社勤めが難しかった私がこうしてフリーでやっていけている事は幸いだ。だけど、だからこそ、仕事に夢中になり過ぎて自分のキャパシティをオーバーしないよう、積極的に休息を取る事にしている。

 三本の指が欠けた右足と、それから少々偏りがあるらしい私の脳と、上手く付き合っていく為に。

 洗濯機を回しながら部屋の片付けを終え、ここ数日の野菜不足を補うように大量のレタスとトマトをほおばっていると、ふと先程見た夢が頭の中によみがえった。一瞬苦しい気持ちになりかけたが、それと同時、そう言えばもっと若かった頃は母の夢をみた朝は起きるなり泣き出してしまう事もあったなと思い出し、随分強くなったものだと自分で自分に感心した。

 自然と顔がほころび、鼻歌交じりにマヨネーズを追加していると、再びスマホから着信音が鳴った。

 それは近所に住む女友達からのメッセージで、『三十六歳の誕生日、おめでとう』とわざと私の年齢を強調した少し意地悪なお祝いの言葉と、今夜予定が空いているなら奢るので食事に行かないかというお誘いだった。

 私はまず彼女にお礼を伝え、そして追加で『じゃあ六時にうちを出てそっちに迎えに行くね』といつも通りの返信をした。

 夕方六時ちょうどに玄関ドアを開けると、十一月の空は既に真っ暗だった。想像以上の冷たい空気に包まれ、軽く羽織っていた秋用コートのボタンを慌てて留める。

 “六時に迎えに行く“ではなく、“六時にうちを出る”と伝えているのは、時間感覚の鈍い私は、〇時集合といった類いのものが昔から苦手だからだ。

 例えば、うちから彼女のアパートは徒歩十分なので、六時に彼女の家とするなら五時五十分に家を出れば良いはずだ。けれど、六時と約束してしまうとその時間の印象だけが強く残り、お化粧や準備が終わるのが六時ちょうどになってしまう。

 これは、そもそも準備を始める時間が遅いとか、そういう単純な問題では無い。ちゃんと余裕をもって動き始めても、六時という時間が焼き付いていて、まるで完了時間がちょうど六時にくるための帳尻合わせをわざわざするかのように思考が次々と逸れ、全く急ぎでは無い仕事のメールの返信をしてしまったり、そう言えばその仕事相手の人が以前美味しいパスタのお店の話をしていたなとスマホで検索してしまう。

 会社員時代はこの癖のせいで幾度となくミスをしてしまい、周囲に多大な迷惑をかけ、自分自身も深く悩んだものだ。自分の特性を理解した今は、仕事の締め切りは必ず一日早い日付でスケジュールに書き込むし、例えば取材で十一時に現地の駅集合という場合は、“十一時〇〇駅集合“とは決して書かず、仕事を受けた時点ですぐに当日のルートを確認して“十時十分までに家を出て十時三十分発の△△行き電車に乗る“という具合に書き込んでおく。そこまでして、やっと人並みの動きが出来るようになった。

 とは言え、今日の待ち合わせなんて、気心の知れた友人同士で外食に出かけるだけなのだから、もっとざっくりと“六時過ぎに迎えに行くね”で良いはずだ。けれど、私にとって一度決めたルールを崩す事は容易では無い。プライベートでもこの方法を貫いていると相手によっては変な顔をされる事もあるが、待たせてしまうよりずっと良いに決まっている。

 バレエやライティングの様にさらりとこなせる分野がある一方で、普通の人間が当り前に出来る事が出来ない。人間としてのバランスがあまりに悪すぎる自分をこうして受け入れられるようになったのは、年齢と共に経験と失敗を重ねつつ、そして自分なりに知識を身につけて対策を講じられるようになったからだけれど、今から会う約束をしている友人、あずみちゃんの存在も大きかった。

 母のバレエ教室の生徒だった大橋あずみちゃんとは、当時はあまり親しくなかったが大人になってから改めて友人になった。

 母の教室は個人経営のものにしては大きい方だと言えるが、それでも全国に山ほどあるバレエ教室の一つに過ぎない。自分で言うのもおこがましいけれど、プロのバレリーナとしての将来を期待されていた私とあの教室で唯一ライバルと言えたのは、一学年上の彼女だけだった。

 私が右足の指を失い、教室に顔を出さなくなったのが高校一年生の頃。彼女の方は本格的に進路を決める時期に差し掛かかっていて、スッパリとバレエを辞めてしまったと人づてに聞いた。それから会うことも無く干支が一回り以上し、私が「上司に殴りかかる衝動を止められなくなる前に」と見切り発車で会社を辞めてフリーのライターになった頃、心機一転も兼ねて引っ越しをした所、偶然の再会を果たしたのだ。

 ある日深夜のスーパーで声をかけてきた彼女は、よくよく見れば確かに面影はあったものの、すぐには誰か分からなかった。何せ、記憶の中の彼女は、宝塚の男役のようなスラリとした長身の中性的美少女だったのに、横幅が倍ほどに膨れ上がっていたからだ。

 その昔、バレエ教室の発表会でオーロラ姫を演じたあずみちゃんは、金色の刺繍があしらわれたチュチュに負けない輝きで、観覧席からため息が漏れるほど美しかった。ふとその頃の彼女の姿を思い出しながら、インターフォンなんて押さなくて良いと本人に言われてはいるものの、一応はピンポンと鳴らしてから鍵すら掛けられていない玄関ドアを開ける。

 あずみちゃんの部屋は1DKで、玄関が直接ダイニングキッチンに繋がっており、その奥に寝室がある。よくある間取りの、女一人が住むには充分な広さの賃貸マンションだ。しかし彼女の部屋は物で溢れかえっていて、常に足の踏み場が無い。

 私は勝手に部屋の灯りを点け、この空間で唯一整理整頓されている靴箱に備え置きしているマイスリッパを取り出してその混沌こんとんに足を踏み入れた。オーロラ姫のお城はイバラで覆い尽くされていたが、かつてオーロラ姫だった彼女の寝室もまた、機能していない大小の棚や大量の紙袋、床に出来た衣服の山で覆い隠されている。

 それらを巧みに避けながら、あるいは踏みつけながら寝室に近付きつつ、「あずみちゃーん」と声をかけると、混沌の奥でトドのようなシルエットがゆっくりとその巨体を起こした。

「…ああ、花…ごめんごめん…うたた寝してた…。」

 あずみちゃんはそう言って、これまたトドのように大きなあくびを一つすると、「よしっ!」と気合いを入れて立ち上がるやいなや、満面の笑みで私を押し戻すようにしながら玄関へと進む。

 今までベッドで横になっていたとは思えないような、気合いの入ったパンク・ファッションと、真っ赤な口紅。そして巨体を揺らしながら張り手を繰り出す彼女は、迫力の固まりだ。

「ほれほれ、早くうまいもん食べに行くぞ!」

「やめてよやめて、ここ狭いんだから。ただでさえ私バランス取りにくいのに。」 

 私は彼女のコミカルな動作にクスクス笑いながら玄関に向かってきびすを返し、二人で夜の街に飛び出した。

 今日で三十六歳になった未婚で独身彼氏無しの私と、三十七歳離婚歴二回で常に異性関係におおらかなあずみちゃん。ほとんど化粧をしない地味な私と、いつも個性的な服装に派手なメイクのあずみちゃん。かつてのバレリーナ体型とまではいかずとも、足に負担をかけない為にもある程度の体型を維持している私と、おそらく私二人分はあるあずみちゃん。感情表現が苦手な私と、喜怒哀楽が豊かでよく笑うあずみちゃん。

 正反対の私達は、深夜のスーパーで再会したあの日から、なぜかするすると引き寄せられるように仲良くなった。それはきっと、多くを語らずとも分かり合える相手だとお互いが感じたからだ。

 焼き肉屋で食べ放題をご馳走になった後、二駅先だけど面白いカフェバーがあるから行こうというあずみちゃんの提案で、私達は駅に向かって歩き始めた。焼き肉屋の熱気で過剰なくらいに暖まった身体に、夜風が心地良い。

 あずみちゃんは道すがら、今日既に百回は聞いた誕生日のお祝いの言葉を言って、酔っ払い丸出しでレポーター風のふざけた会話を始める。

「それではここで、お誕生日の方にインタビューをしてみましょう!花さん、三十六歳になったご感想は?」

「えー、そうですねー、誕生日も三十六回目ともなると、もはやプロと言うか…うん?あれ、誕生日って、産まれた時が一回目?じゃあ、三十六回目じゃ無くて、三十七回目?いや、誕生記念日の略だから、三十六回目で合ってる?」

 あずみちゃんのおふざけを受ける私もほろ酔いで、同じく酔っ払いらしい話の脱線をさせつつ、何がそんなに面白いのか二人で声に出して笑いながら夜道を進んだ。

 三十六歳になった感想はと言えば、その三十六歳を迎えた自分の日常を愛おしく思える私で良かった、という事に尽きる。

 二十代のような浮き足立つ若さは無いけれど、若さ故の無知や焦りで自分の自尊心を不用意に傷付ける事も無い。私の心の奥底に根を張っている母親との確執も、三本足りない足の指も、偏った脳みそも、もちろん時々困難を感じる事はありつつも、コントロールしながらどうにかやっていけている今の自分は、私の誇りだ。

 そしてこの歳になってつくづく思うのだ。私にとっては配偶者や恋人の存在を得る事よりも、自分だけのペースを守れる環境こそが大切だし幸せなのだと。

 ーーーーーでも、過去の私もそうだったように、人は変わっていく。そして価値観も同時に変化し続けるものだ。

 フワフワとした幸福感に包まれながら大好きな親友と向かった駅の中で、正に私の価値観と私にとっての平穏無事な日常が変わってしまうきっかけを拾う事になるとは、その時の私は予想もしていなかった。






つづく

面白いと思っていただけたら、右下(パソコンからは左下)の♥をポチッとお願いいたします!押すのは無料でnote未登録でも押せます。私のモチベーションに繋がります!!

↓続きはコチラ↓




↓完結済み長編「だけど願いはかなわない」はこちら



↓Twitterはこちら

(1) ふたごやうめじんたん🍊(@umejimtan)さん / Twitter



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?