だけど願いはかなわない 第十四話「懐柔」
「あおい君は、彼女は居ないの?」
あれは、中学一年の春休みの事だったと思う。連休を利用して、アメリカの兄貴の元に滞在していた時の話だ。
お喋り好きの伯母が手作りのアップルパイを切り分けつつ俺に投げかけたその質問に、いつも口数が少ない兄貴が珍しく横から口を挟んできた。
「あおいは、彼女は作らないよね。」
その意味深な言葉に、一瞬にして心臓が凍り付いた。
当時の俺はまだまだ子どもで、自分自身でもこのセクシャリティの自認と受容が済んでおらず、真意の見えない兄貴の発言に底の無い恐怖を覚えた。
兄貴は何を知っているのだろうか。伯母さんは俺にどんな視線を向けるのだろうか。ジュン以外の人間に自分がゲイだと知られる事は、足が震えるほどに恐ろしかった。
幸い、並外れた知能を持った兄貴が突拍子の無い発言をするのはいつもの事だったので、伯母がその言葉の意味を深く追求する事はなかった。そして兄貴も、俺のセクシャリティそのものに対しての言及はせず、ゆっくりとアップルパイと紅茶を味わった後、独特の言い回しと抑揚のない口調でこう言ったのだ。
「もしあおいがジュンを好きになるなら、ジュンはあおいを選ぶかもしれない。そうならないから良かった。」
ーーーーー と。
・・・・・
うちの食器棚の奥の方には、以前の職場を辞めた時に寿退社だと勘違いされて贈られたティーセットが眠っている。当時私に付きまとっていたやっかいな男性に諦めてもらうため、結婚して遠くに引っ越しますとうそぶいていたのが広まってしまったのだ。
繊細なデザインのそれは普段使いには不向きで、かと言って滅多に来客の無い我が家では使用するタイミングも無く、正直、持て余してしまっていた。
その茶器が、まさかこんな形で陽の目を見るとは。
「どうぞ、お口に合うといいんですけど。」
私がそう言って彼女にコーヒーを差し出すと、すっかり私の婚約者役のスイッチが入ったあおいちゃんが笑顔で言葉を付け足した。
「ジュンのコーヒー、美味いんですよ。おかわりも遠慮無く言って下さいね。」
恋人同士のフリをするのは慣れっこだ。あおいちゃんが同性愛者である事を隠すために、あるいは私に執着してくる男の人を牽制するために、私達は幾度となくこの役を演じてきた。
ただ今回は、何の打ち合わせも無しに私がその演技をスタートした事と、それから今までと違って『彼氏にベタ惚れの彼女』という設定を勝手に追加した事で面食らっていた様子だったけれど、流石は三十年来の大親友。私が彼女を部屋に誘った時も、きっとあおいちゃんは内心かなりの動揺をしていた事だろうに、瞬時に話を合わせてくれた。
「そうだ、先程は失礼しました。春日さんの奥様と知らなかったとは言え、本当に申し訳ありません。」
あおいちゃんの丁寧な謝罪の言葉に、彼女は「あ…いえ…」と小声で応じる。
おそらく、私より二つ三つ年上だろうか。けれど年齢からは少し違和感のある、甘いデザインの露出の多い服、過剰なアイメイク、大きめのアクセサリー。いかにも自己愛が強そうなタイプだ。
そしてそれらとは対照的な、艶を欠いたバサバサの髪や、椅子の背もたれに掛けられている薄汚れた白いコート、そして落ち着き無く泳ぐ視線は、彼女の精神のアンバランスさを物語っている。
「あの…彼はどこに…。」
今にも椅子から立ち上がりそうな程、そわそわとした様子で彼女が言った。
ハルキ君には、「何が起こっても寝たふりをしていてね」と、あおいちゃんの寝室に籠もってもらうように伝えている。あのハルキ君の事だ、きっと私との約束は守ってくれるだろう。
「あ、そうですね。あおいちゃん、いいかな?ちょうど薬が効いてる頃だろうし、静かに見てきてね。」
私の言葉を受けたあおいちゃんが席を外したタイミングで、虚実の入り混じった説明をスタートした。
ハルキ君は高熱で寝込んでいて、ちょうど別件で会う約束をしていたあおいちゃんが病院に付き添う事にした。どこの病院が良いか分らなかったのでタクシーでうちのすぐ近所にあるクリニックに行き、インフルエンザの診断を受けた。そしてその帰りがけ、ハルキ君が吐いて服が汚れてしまったのでとりあえずうちで着替えてもらい、あまりに熱が高かったのでそのまま寝てもらっている ーーーーーと。
「お休み中みたいだから、そっとしておいたよ。」
そう言いながら戻ってきたあおいちゃんに、彼女が口を挟む隙を与えないよう間髪入れずに言葉を返した。
「もう今夜はこのまま泊まっていただくんだよね?」
「さっきまでかなりしんどそうだったから、下手に動かない方がいいだろうな。幸い俺達はインフルエンザの予防接種済みだし、そうしよう。俺も職業柄、傷病人を放ってはおけないよ。」
そして私は彼女に向き直り、これで話しは決まりですと言わんばかりにこう告げた。
「そうそう、彼、消防士なんです。何かあってもすぐに対応できるので心配しないで下さいね。」
彼ら夫婦が長らく別居中だという事に対しては、あえてこちらからは触れないようにした。仮に私達がその事を知らない完全な第三者であれば、彼女のように見栄を大事にするタイプは夫婦の不仲を知られたくは無いだろう。
既婚者が、それも配偶者がこうして目の前にいる状況にも関わらず自宅以外で療養をするというのは不自然な話だが、後ろめたい気持ちがある人間は事を荒立てようとはしないものだ。
実際、彼女がマンションに現れた事に対して「春日さんから連絡があったんですよね?」ととぼけたふりをして質問したが、「ええ…まあ…」と曖昧な返事をしただけだった。
ーーーーー 冷静に、冷静に。
自分に言い聞かせながら、思考を巡らせる。
今なすべき事は、私とハルキ君が体の関係を持つような間柄では無いと信じ込ませる事。そして、彼女がこの場でハルキ君に対して肉体的にも精神的にも害を与える事無くお引き取りいただく事だ。
このまま泊まらせるという私達の判断を聞いても黙ったままの彼女を見て、どうやら私とハルキ君の仲を深く知っているわけではなさそうだと確信した。
ーーーーー冷静に、冷静に。
形勢は決して不利では無いはずだ。けれど、この場は二度と無いチャンスでもあるだろう。
できれば、彼女が抱いている不信感を消すために、もう一つクリアにしておきたい事がある。ああ、けれど、グズグズしていれば流れが変わってしまうかもしれない。今日の所は、このまま無事に引き下がってもらえれば万々歳としなければ。
私の戸惑いを察知したのか、あおいちゃんが話を終わらせようと動いた。
「奥様もご心配でしょうけど、今日の所は任せて下さい。春日さんには普段お世話になっているので、せめてもの恩返しが出来て嬉しいです。奥様にインフルエンザがうつってしまっては春日さんに申し訳が立たないので、そろそろ俺が駅まで送りますよ。」
あおいちゃんは彼お得意の、丁寧な、けれど有無を言わせない強気の態度でそう言うと、畳みかけるように立ち上がった。
すっかり自分のペースを失ったらしい彼女はつられるように席を立ったが、薄汚れた白いコートを手にしながらも、最後の抵抗とばかりにすがるように言葉を発した。
「…あ…顔…せめて、顔を…。寝顔でかまいませんから…。」
あおいちゃんが「うつるといけないので、ここからで」と言いながらドアを開け、ハルキ君をガードするようにそのままドアの枠に背中を預けた。
開け放されたドア越し、室内に視線を送る彼女。
その無言のまま立ち尽くす背中を眺めていると、左手の薬指で輝く結婚指輪が目に止まった。
ーーーーー冷静に、冷静に。
本当は、貴方とは対面したく無かった。
一体貴方は、彼にどれ程の事をしたのだろう。あの優しさの塊のようなハルキ君を、あの可愛い笑顔を、あの温かな眼差しを、どんなに無碍に扱い、傷付けたのだろう。
そして ーーーーーかつての貴方は、一体どんな風にハルキ君に愛されていたのだろう。
この人は、危険だ。私の心をかき乱す。
ハルキ君の事はあのまま忘れてしまいたかった。なのに、こうして貴方と接してしまえば、私はやっぱり貴方の事が許せないし、嫉妬心も抱いてしまう。
しかもその嫉妬心は、ハルキ君の事だけでは無くて ーーーーー。
ピピピピピピ!ピピピピピピ!ピピピピ…
ふいに、私の思考を遮るように何かの着信音が響き渡った。
普段この部屋で聞く事の無いその着信音は、つまりハルキ君のスマホが鳴っている事を示していた。
(しまった…!)
このまま鳴りっぱなしにさせておけば、いくら何でもハルキ君が目を覚まさないのは不自然だろう。きっと、彼女もそれを期待しているはずだし、ハルキ君がどこまで寝ているふりを貫き通せるかも分らない。
しかし、四回目のコールが鳴り終わるより先、あおいちゃんが彼女の目の前のドアをバタリと閉ざした。
「すみません、俺です!」
そしてそう言いながら音の方向に駆け寄り、玄関横に吊してあったハルキ君に貸していたあおいちゃんのコートから、素早く、けれどそのスマホがハルキ君のものだとバレないようにきちんと彼女から隠しつつ取り出し、着信音を消す。
「あー、俺、何か間違ってアラームかけてたみたいです。…じゃあ、そろそろ駅まで送りますよ。」
どうにか窮地は切り抜けたが、圧倒的にこちらが押していたあの空気は確実に一変してしまった。
彼女はあおいちゃんが促す声を無視し、じっと立ち尽くしてドアの向こうの気配を伺っている。
ーーーーー冷静に、冷静に。
自分の心臓の鼓動が、少し早くなっていくのを感じる。
『もう一つクリアにしておきたい事』を切り出すなら、今だ。なぜなら、それは私にとって最強の切り札にもなり得るだろうから。
けれど、いざ口にしようとすると、自分でも驚く程に動揺してしまっている。
どうやら私は、彼女の前であの人の名前を出したく無いらしい。けれど、私から彼女を遠ざけてくれるのも、きっとあの人なのだ。
彼女に気付かれないようにゆっくりと呼吸を整え、早口になりそうになるのを抑えながら言った。
「…そう言えば話が変わりますけど、私、奥様と以前お会いした事があると思うんです。」
病院で会ったあの日、貴方はなぜあんな理解不可能な追跡をしてきたのか。あれから考えてみて、答えが出た。きっと、私が出てくるのを待っていたのに、鬼塚さんと一緒だったから動揺したのだ。
ホテルのスイートルームでハルキ君の事情を話してくれた鬼塚さんは、俺(前夫)は死んだ事になっているらしいと言って苦笑していた。
きっと貴方は、私という人間を介してハルキ君と鬼塚さんが繋がる事を怖れている。その心配は既に現実のものになってしまっているけれど、貴方がその事を知らないのであれば、きっとこれが私の最強のカードだ。
「見間違えていたらすみません。先日、私が上司と一緒に居る時に…あ、私、作家のマネジャーをしているんですけど…鬼塚勇っていう…えっと、鬼塚とお知り合いなんですか?○○ホテルに取材に行ったんですけど、その時、確か奥様が…。」
「もう遅いので失礼します。」
突然話しを遮られ、彼女は私と顔も合わせずに玄関へ向かった。
その横顔は、それまでの挙動不審で落ち着きの無い彼女と違って、まるで能面のような無表情だった。
ーーーーー冷静に、冷静に。
沸き立つ怒りを抑えながら、あおいちゃんに先導されて出て行く背中を見送る。
『遊び相手の女性から妊娠を告げられ、その日のうちに入籍した破天荒で変わり者の作家。』
鬼塚さんの二番目の結婚を知る人が抱くイメージは、おおよそそういった豪胆なものだ。私も、最初はそうだった。
けれど、鬼塚さんと接しているうちに、そのイメージは変わっていった。
最初の奥様とのすれ違いの結婚生活を心残りに思っていた鬼塚さんは、もしかしたら今度こそ『家庭』を築こうとしたのかもしれない。
あの優しいハルキ君を傷付け、本当はさみしがり屋のひねくれ者を騙し、それでもまだ自分の保身しか頭に無い貴方の事を、私は許せない。
ーーーーーそして、シロさんを愛しているのに、鬼塚さんのかつての妻でハルキ君の奥さんである貴方に嫉妬してしまう、浅ましい自分自身の事も。
つづく
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