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だけど願いはかなわない 第十五話「初恋」


久し振りに、夢の中でシロさんに会えた。

シロさんは二十代の青年なのに、私はまだ小学校の一年生で、シロさんのお膝に座って本を読んであげている。

いや、『読んであげている』というよりも、私のたどたどしい朗読に、シロさんが微笑ましそうに付き合ってくれているのだ。

読み上げているのは児童書で、私が小さい頃に好きだった本の一つだ。確か実際は、四、五年生くらいの子ども向けの本だった。

主人公の女の子は悪い魔法使いに誘拐され、人里離れた大きなお城で育てられる。その魔法使いの見た目は美しい青年で、女の子を蝶よ花よと何不自由なく育て、女の子もすっかり魔法使いに対して本当の家族の様に懐いていく。そして、やがて成長した女の子を自分の妻にしようとするが、外の世界に憧れた女の子は魔法使いとの約束を破ってお城を出て行くのだ。

実際の物語はその後ハッピーエンドだったと思うのだけれど、夢の中のお話は違っていた。

ずっとお城で魔法使いにお世話をされていた女の子は自分で生きる術を知らず、中身が子どものまま大人になってしまった自分に愕然とし、魔法使いの元で生きる事しか出来無いと悟る。そしてお城に戻った女の子が見たのは、彼女を失った事への悲嘆に耐えきれず、真っ黒なカラスになってしまった魔法使いの姿だった。

夢の中の私が本を読み終わると、最後のページに大粒の涙が一滴ポツリと落ちた。

慌てて見上げると、シロさんが両手で自分の顔を覆っていた。シロさんが泣くなんてよっぽどの事で、幼い私は自分まで悲しくなってポロポロと涙を流しながらシロさんに抱きついた。

「シロさん、シロさん、どうして泣いてるの?泣かないで。」

私がそう言うと、シロさんは私を抱き返し、彼特有の抑揚の無い声で答えた。

「魔法使いがかわいそうだ。」

それを聞いた私は、どうすればシロさんが悲しまずに済むか必死に考え、幼子の浅知恵で言う。

「じゃあ、私なら絶対に魔法使いから離れない。魔法使いのお嫁さんになる。」

するとシロさんは私を抱きしめたまま頭を撫で、「ジュンは優しいね」と満足そうに笑った。

夢の中の私はいつの間にか二十歳ほどの姿になっていて、そのままシロさんの腕の中の居心地の良さに浸り続けた。


物心が付いた時から、ずっとシロさんに恋してた。

同級生の女の子達は皆コロコロと好きな人が変わって、時には複数の男の子が同時に気になると言う。私には、それが理解出来なかった。

シロさん以外への恋心なんて、知らない。シロさん一人だけを想うのが当り前で、シロさんが私の世界だった。

なのに、最近の私は少し変だ。


・・・・・


ハルキ君の奥さんとの一悶着を終えた翌日の夕方、病状が大分安定したハルキ君は、あおいちゃんに付き添われてアパートに帰って行った。その夜にハルキ君から届いたお礼とお詫びのメッセージに返信をし、そのまま他愛の無い会話も含めてズルズルとやり取りをしてしまっている。

そもそも、いつかはお別れをする予定の相手だった。既婚者だと知った時が引き際だったのだ。もう、二人で会ってむつごとに興じるつもりも無い。

なのに、二回目の拒絶には踏み出せないでいる事も事実だった。

モヤモヤした気分を引きずりつつ職場に向かう。その足取りが重いのは、決してハルキ君だけが原因では無かった。

何せ、もう一つのモヤモヤがその職場で待っているのだ。

ハルキ君の奥さんと対峙したあの時、私はハッキリとした怒りを覚えた。あの優しいハルキ君を追い詰めた彼女に対して負の感情が沸く事は想定の範囲内だったけれど、鬼塚さんの顔が浮かんだ瞬間胸が詰まり、それと同時にそんな自分に戸惑った。

一体、何が私に引っかかりを与えたのか。私はもちろん、鬼塚さんに対して人間としてのある程度の好意と、そして彼の持つ才能への畏敬の念を抱いている。なので、無神経なあの作家の『なけなしの純粋な心』を弄んだ彼女に対して怒りを覚えたのだと思うし、それは不自然な事でも何でも無い。

けれど私の脳裏に、ほんの一瞬、本当に一瞬だけ、思いがけない思考が浮かんだのだ。

ーーーーーかつて鬼塚さんの妻だったこの人は、彼から特別な愛情を向けられていた事があるのだ、と。

私が彼女に抱いている嫉妬心は、ハルキ君に対してのものだけでは無い。

そう気付いた瞬間、その考えを必死に頭から追い出そうとしている自分に気付き、また困惑した。


「ジュン!俺はもうダメだ!頼む、いっそ殺してくれ!」

私の職場兼作家の自宅に着き、書斎の襖を開けた途端、『もう一つのモヤモヤ』は、まるで駄々っ子のように仰向けに寝っ転がりながら自分を殺してくれと懇願してきた。

畳敷きの和室の隅っこで、若手編集者の及川君が死んだ目をしてじっと座っている。この光景を見るのは何度目だろうか。

その瞬間、まるで潮が引くようにスッとモヤモヤが消え失せた。

こんな人相手に嫉妬を?冗談じゃ無い。あれはやっぱり、ただの私の義侠心や、この情けなさの塊のような雇い主への情が入り混じり、一瞬の錯覚を起こしただけに決まっている。

私は腕まくりをしながら書斎に足を踏み入れ、無言のまま鬼塚さんを引きずってパソコンの前に無理矢理移動させた。

「いいから書きなさい!」

冷たく言い放つ私を見上げ、鬼塚さんは「この鬼…」とぼそりと呟いたが、その表情はどこか嬉しそうだった。

及川君の顔が土気色になった頃、週刊連載コラムの原稿はどうにか完成した。ゾンビのような足取りで出版社へと帰って行く及川君を見送り、一服中の作家に次のスケジュールが詰まっている事を告げる。

「カンベンしてくれよ、徹夜明けなんだ。眠らせてくれ。」

「カンベンしてくれよはこっちのセリフです。台所にあった日本酒の空き瓶、私が気付かないとでも思いましたか?」

今日の鬼塚さんの顔色は、徹夜明けとは到底思えない。それどころか、むくんでいるくせにどこか艶々としたその肌は、深酒をしたまま充分過ぎる睡眠を取った事を匂わせている。

「あれか…あれはなぁ、及川が飲んだんだよ。」

鬼塚さんは悪びれずにケケッと笑ってそう言うと、火の点いたタバコを口に咥えたまま畳にごろんと寝そべった。

仰向けのまま畳に直置きしている灰皿に腕を伸ばし、まるでラッコのように自分の腹部に乗せる。そしてそのままお腹の上で器用に火を消すと、心底気だるそうに口を開いた。

「なぁ、たった今原稿を上げたばっかだぜ?ちょっと位眠ったっていいだろ。入稿後の惰眠っていうのが最高なんだよ。」

「十二月なんですよ?年末進行でいつもより締め切りが早いんです、そんな余裕ありません。」

「ちょっとで良いんだって。そのまま一晩寝るとは言わん。そうだ、お前が添い寝してくれりゃ、『ご休憩』どころか『ショートタイム』で終わらせてやるよ。」

とっくに慣れたはずの彼流の軽口に、今日はなぜか激しい苛立ちを覚えた。この大きな子どものペースに引きずられてたまるものかと、半ばムキになって言い返す。

「ーーーーー いいですよ。」

私の言葉に思わず上半身を起こした鬼塚さんの服の上で灰皿が倒れ、周囲にタバコの灰が散らばった。

鬼塚さんは「あがっ!」とよく分らない声を上げてその灰に目を落としたが、直ぐに私の顔を見上げて無言のまま頭を掻き、再び面倒臭そうに灰だらけの畳の上にドカッと体を横たえた。

「ばーか、冗談に決まってるだろ。」

その拗ねた子どもの様な口調に私の苛立ちは増したが、分かりやすい程に動揺した様を心の中で笑ってやった。

けれど次の瞬間彼の口から出た言葉に、その苛立ちも嘲りも一蹴されたのだった。

「俺はなぁ、もっとムッチムチの色っぽい姉ちゃんが好きなの!お前みたいな細っこいのはお呼びじゃ無いんだよ。」

ズキリと胸が痛んだのと同時、その痛みに戸惑った。

これは明らかにただの憎まれ口だ。そもそも、私の体型が鬼塚さんの好みに当てはまっているかなんて、どうでもいい。

なのに、なぜ私はショックを受けているのだろうか。

私は「そうですか」とだけ言い返し、顔を見られまいと書斎を後にした。


お茶を淹れて戻ると、変わり者の作家は書斎中に鳴り響いている自宅用固定電話の呼び出し音を物ともせずに、横になったままダラダラと休憩を取り続けていた。

「電話、出ないんですか?」

この電話は一応この家のプライベートのものなので、私は受けない事になっている。それにしても、着信があるのは珍しい。

「誰か知らんがしつこいな。しょうが無ぇな、おいジュン、スピーカーフォンにしてくれないか?」

受話器を受け取る事すら面倒らしい。私は指示された通り、電話本体のスピーカーフォンボタンを押した。

「もっし、もーし!?」

おどけた口調で鬼塚さんが電話の相手に語りかけると、スピーカー越しにゆったりとした男性の声が聞こえてきた。

『鬼塚君?もう、やっとつながったぁ。何度も携帯に掛けたのに、全然出ないんだから。』

「何だ、タナカタケシか。締め切り中は携帯切ってるんだよ。締め切り中じゃ無くても切ってる事が多いがな。で、何の用だ?」

タナカタケシさんは、鬼塚さんの数少ない友人の一人だ。恰幅の良い弁護士さんで、私も何度かお会いした事がある。鬼塚さんのデスクに湯飲みを置きながら、自然と耳に入ってくるその会話を聞き流した。

『えっとね、多分、今から僕が言う事で鬼塚君は動揺しちゃうと思うんだけど、大丈夫?』

「何だそれ。大丈夫じゃ無いって言ったら、言うの止めてくれるのかよ?」

『そうはいかないけどぉ。』

「じゃあ、さっさと言えよ。」

タナカタケシさんは「分かった」と小さく言い、一拍おいてから言葉を続けた。

『あのね、君の最初の奥さんのイズミさんから、鬼塚君に連絡を取りたいという旨の伝言を預かりました。』


・・・・・


「あおいちゃん…?」

ジュンに名前を呼ばれて我に返ると、生卵の中身がシンクに落下する瞬間だった。鮮やかな黄色が排水口に吸い込まれていくのを空しく見送り、慌ててボウルの中身を確認する。

「やっちまった…。」

自分の目を疑った。そこには、既に三、四個分の卵の殻が大事そうに入れられていたのだ。

俺はヤケになり、ついでとばかりに手の中の殻をボウルに追加した。そんな俺の様子を心配し、ジュンが顔を覗き込む。

「ね、最近よくぼーっとしてるけど、大丈夫?仕事忙しいの?」

気を取られていた対象は仕事では無いが、ボヤ騒ぎが多いのも事実なので適当に話しを合わせてその場を誤魔化した。

たまには私が奢るからと言うジュンの気遣いで、二人で駅前のカフェに出向いた。以前ジュンがよく通っていた店で、平日の夜という事もあって客が少なく居心地も良さそうだ。店内に漂うコーヒー豆の香りに、煮詰まっていた脳みそがリフレッシュされる感覚に包まれた。

しかし今度はジュンの方が心ここにあらずと言った様子で、テーブルに広げたフードメニューから視線を逸らしたままぼんやりと固まっている。

「ジュンも疲れてるんだろ?年末は忙しいって言ってたもんな。」

「…あ、ごめん、ちょっと考え事…あのね…。」

ジュンが言いかけたタイミングで店員が水をテーブルに置き、俺達はそのまま料理と食後のコーヒーを注文した。

再度ジュンの方から切り出してくるだろうと続きの言葉を待っていたが、食事中のジュンは最近のニュースやお互いの仕事の話ばかりを振り、やっと本題に入ったのは食後のコーヒーが運ばれてきたタイミングだった。

「あのね…例えばの話しだけど、あおいちゃんは複数の人を同時に好きに…ううん、好きとまではいかなくても、気になるというか、そういう経験ってある?」

三十路の同居人の口から出た、まるで中学生のような可愛らしい質問に思わず顔がほころんだ。

「そりゃあるよ。」

「そうなの?皆、そういう事ってあるのかな?それって普通?」

「普通の事だと思うよ。むしろ、そういう経験が一切無い人の方が珍しいだろうな。」

「じゃあ…これも例えばなんだけど、既に恋人が居て、なのに他に気になる人が、それも複数出来るのって…。」

ジュンはそこまで言うと急に口ごもり、気まずそうにコーヒーカップを口に運んだ。そして目線を逸らし、ボソリと呟く。

「…ごめん…今のは忘れて…。」

一体、どう答えるのが正解なのか。おそらくジュンは、未だ兄貴の事を受け入れてはいない。

春日さんと実際のところどういう関係なのかは知らないが、それでも兄貴以外で繰り返しデートをするような間柄の異性が出来た事自体、ジュンなりの大変化だろう。

ふと、あの日に春日さんと交わした会話が脳裏に浮かんだ。

 ーーーーー俺は、兄は自死したと思っています。

(ジュンに全てを打ち明けてしまおうか。)

とっくの前に『NO』という結論を出したはずの自問自答が、再び頭をもたげる。

けれどあの頃その結論に辿り着いたのは、ただでさえ壊れてしまいそうなジュンの精神面を危惧しての事だった。このままずっと俺の心に仕舞い続ける事は、果たして本当に正解なのだろうか。

そして、今現在俺の思考を占領している『あの事』と照らし合わせて考えれば、ジュンは真実を知る機会を永遠に失う可能性もある。

それから、俺も。

俺も、ジュンに許しを請う機会を永遠に失うのかもしれない。

…いや、そもそも俺がジュンに詫びる事が、罪の重さの放棄にしかならないのなら、そうするつもりは毛頭無いが…。

もしジュンが自ら気付く時が来たら、どうなるのだろうか。

引っかかりは、山ほどあるはずだ。例えば、炎に対して恐怖症を持ったきっかけや、そのジュンと一緒に暮らすために用意したマンションがなぜIHでは無くわざわざガスコンロのキッチンなのか。兄貴が頻繁に海外へ一人旅をしていた目的や、時折家を空けた理由は何なのか。

けれど人は、見たいものを見るように出来ている。

「…これは俺の考えだけどさ。」

俺は慎重に言葉を選びながら、その名前の通り純粋過ぎる幼なじみに対し、今俺が伝えうる限りのメッセージを贈った。

「ジュンは、物心ついた頃からずっと兄貴一筋だっただろ。普通の女の子が経験するような思春期の葛藤やら失恋やら、そういうの全部まとめて未経験のままこの歳になったんだよ。だからある意味、今ジュンは真っさらな状態なんだと思うよ。」

それを聞いたジュンは、一瞬不思議そうな顔をした後、「ちょっと待ってよ」と、少しふてくされるようにして言った。

「それって、私がもうイイ歳なのに中身が子どもだって言いたいの?」

ぷくりと小鼻をふくらませた美人の顔は何だか滑稽で、俺が思わず笑うとジュンの小鼻がまたぷくりと膨らんだ。

そして俺は、この何でも無い日常がたまらなく愛しいと思った。







つづく

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