不識庵”Fushikian”

短歌や書評、小説などを発表していきます。 よろしくお願いいたします。

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最近の記事

16号の別れ

「ヘルメットはバイクに合わせるとかじゃなくて好きな色を選べばいいんです。世界を守るなんとか戦隊じゃないんだから」 ヘルメット選びに難儀するわたしにK氏が言った。まだバイクに乗り始めたばかりだったわたしに目から鱗の発言だった。反面バイク通を自任していた知人はクラシカルなわたしのバイクを見てヘルメットもクラシック風にしないと具合が悪いし、メーカーは国内の某ブランドに限ると豪語している。 バイク用品店のスタッフであるK氏はおおまかなわたしの意向を聞くと、知人が推すブランドのライ

    • Let`s Journey

      〈身軽になろう〉 SNSに流れてきた一文を読んで考えた。無駄を省く効用について述べていた。旅人は余計なものを持たないという。大きなスーツケースを引いた観光客を日常的に見かけるようになったが、ひとまずおこう。ここでは物語に出てくるようなトラベラーを連想したい。彼らはたいてい荷物が少ない。そしてフットワークが軽い。難所も知恵と工夫で越えていく。 翻ってわが身である。初夏に一大決心で部屋の大片づけを行ったが、まだ半分が未着手である。省けるものが多数残っている。いかにひどいありさ

      • 量産型なんてまっぴらさ

        夕方のニュースで耳にした。「ゆっくり・のんびり」を「まったり」、「しっかり、たくさん」を「がっつり」と表現することに「気にならない」と回答した人々が8割余りにのぼるという。 一方、本を読まないとする層は6割余りになって、ほぼ3人に2人は読書をしない傾向にあるらしい。 ここから見えてくるのは言葉を主体的に選び取るというのではなく、多数が使っているように映るから自分も用いるという現状追認のメカニズムである。 これでは個々人のボキャブラリーは貧困になっていき、のっぺりした大衆

        • たまには短歌 あなたへ

          移り香を残し去りゆくあなたへと贈る言の葉はブロンテの詩

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        • 小説集
          13本

        記事

          米騒動と転売ヤー

          まだ、「令和の米騒動」の渦中にある。近所のスーパーでは米を置くコーナー自体が消えた。台風や地震による買いだめ需要によるものという。わが家では麺類やパックごはんで代用している。買占め以上に問題だと思うのは、米がフリマサイトなどで高額転売されていることである。 「農家にはまったく益がない」と今朝のニュース番組でも、あるコメンテーターが言っていた。米市場でも転売ヤーの闖入を許してしまっている。 わたしは趣味で模型を作っているのだが、いつも転売ヤーには煮え湯を飲まされている。『機

          米騒動と転売ヤー

          Auld Lang Syneの思い出に

          夏が去ろうとしている。連日の猛暑日、惜しむ気はまったく起きてこない。あまりの暑さに、夕涼みという習慣さえ過去のものになろうとしている。もはやエアコンだけが頼みである。夏の風情はかげろうの向こうに消えたのか。 懐かしい夏にせめて別れの歌を捧げたい。別れの歌というと「蛍の光」である。かつては卒業式の歌としか認識していなかったが、今はそれだけではなくなっている。 大学生の時に、新宿のミニシアターで観た、『哀愁』で効果的に用いられていたからである。内容の細部は忘れてしまったが、

          Auld Lang Syneの思い出に

          たまには短歌 秋虫のカルテット

          たまりゆく脳の疲労をいやすのは秋虫とピアノのカルテット こんなにも去りゆく夏が惜しくないのも珍し寂し ‥‥‥‥地獄の季節は去りつつあるか

          たまには短歌 秋虫のカルテット

          リアルに生きるとは、こういうことさ

          生のリアルさ。それがひりひりと伝わってくる読書体験だった。本物のスターたちの営みを前にすると、よくSNSなどで目の当たりにするリア充合戦に明け暮れる行為が馬鹿馬鹿しく思えてくる。 生きることは泥くさくて、時にそんなにきれいではない。難所をいとわず歩き続けたからこそ、その道は黄金の街道になった。近道や成功テンプレートなどを求める発想自体がない。貧乏のどん底で笑うような、そういう本物のロックスターたちの物語が、時に破天荒なエピソードを交えて語られる。 35ドルだけを手にして大

          リアルに生きるとは、こういうことさ

          たまには短歌 盆中日に

          大勢が集った盆の中日の気配を偲ぶ蝉しぐれかな

          たまには短歌 盆中日に

          たまには短歌 蜩に

          蜩の声が運んだ涼しさは今は昔の夏の夕暮れ

          たまには短歌 蜩に

          たまには短歌 八月に

          ことごとく見送っちまった夏の日臆病者の臆病者の

          たまには短歌 八月に

          たまには短歌

          挑戦という名はホント?セレクトとはっきり言えよクソエージェント

          いまはもうシルエット

          ガシャポンをまわすふたりを見て思うあの時きみを抱きよせていたら

          いまはもうシルエット

          あおり運転をするものは

          早朝あおり運転を受けた。距離にして1キロくらいか。中央線はオレンジ色の県道で。田畑の多い田舎道で。車間を十分にとらないで運転するものもいるが、このものはぐいぐいと後ろから押すような運転である。まるでぶつからんばかりに。 腹がたってきたので私は速度を落とした。ルームミラーで確認すると、あおりの張本人は片腕を頭の上にあげて軽薄そうな姿である。片手運転でずっとあおってくる。やがて赤信号にさしかかり車を止めると。後続車は急ブレーキをかけた。 ルームミラーで後ろを見るとあおりの当事

          あおり運転をするものは

          映画三本、はしごした話

          昔は映画二本立てとかよくあった。一本の料金で二本観られた。一種の抱き合わせ商法だが、当時はだいたい両方観る客が多かったと記憶している。こういうところからも時代のゆるさというかおおらかさが垣間見える。それだけ世の中に余裕があったともいえる。 今回久々に一日で複数の映画を観たが、もちろん三本分の料金を支払った。鑑賞作品は、『関心領域』『あんのこと』『シド・バレット独りぼっちの世界』である。 はしごといっても一つの映画館で観られたのはシネコンが当たり前の現代ならではだが。とはい

          映画三本、はしごした話

          80‘s

          たまたまつけていたTV画面に、小室哲哉とUAが映った。80年代の音楽シーンを振り返る。小室が率いるTMネットワークのほろ苦い思い出が語られた。レベッカ。同日デビューしながら、その前にかすんでしまったという。 UAにもどこか切ないような思い出がある「フレンズ」。涙ぐむUAにピュアなアーティストの一面が垣間見られた。 番組のなかでUAがリードボーカルを取るAJICOが「フレンズ」を演奏した。 80‘s、世の中は明るかった。環境問題、高齢化問題、それらのことはやがて来ることと