不識庵”Fushikian”

短歌や書評、小説などを発表していきます。 よろしくお願いいたします。

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最近の記事

いまはもうシルエット

ガシャポンをまわすふたりを見て思うあの時きみを抱きよせていたら

    • あおり運転をするものは

      早朝あおり運転を受けた。距離にして1キロくらいか。中央線はオレンジ色の県道で。田畑の多い田舎道で。車間を十分にとらないで運転するものもいるが、このものはぐいぐいと後ろから押すような運転である。まるでぶつからんばかりに。 腹がたってきたので私は速度を落とした。ルームミラーで確認すると、あおりの張本人は片腕を頭の上にあげて軽薄そうな姿である。片手運転でずっとあおってくる。やがて赤信号にさしかかり車を止めると。後続車は急ブレーキをかけた。 ルームミラーで後ろを見るとあおりの当事

      • 映画三本、はしごした話

        昔は映画二本立てとかよくあった。一本の料金で二本観られた。一種の抱き合わせ商法だが、当時はだいたい両方観る客が多かったと記憶している。こういうところからも時代のゆるさというかおおらかさが垣間見える。それだけ世の中に余裕があったともいえる。 今回久々に一日で複数の映画を観たが、もちろん三本分の料金を支払った。鑑賞作品は、『関心領域』『あんのこと』『シド・バレット独りぼっちの世界』である。 はしごといっても一つの映画館で観られたのはシネコンが当たり前の現代ならではだが。とはい

        • 80‘s

          たまたまつけていたTV画面に、小室哲哉とUAが映った。80年代の音楽シーンを振り返る。小室が率いるTMネットワークのほろ苦い思い出が語られた。レベッカ。同日デビューしながら、その前にかすんでしまったという。 UAにもどこか切ないような思い出がある「フレンズ」。涙ぐむUAにピュアなアーティストの一面が垣間見られた。 番組のなかでUAがリードボーカルを取るAJICOが「フレンズ」を演奏した。 80‘s、世の中は明るかった。環境問題、高齢化問題、それらのことはやがて来ることと

        いまはもうシルエット

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        • 小説集
          13本

        記事

          そしてだれもいなくなった

          社長業を卒業してビジネスオーナーになるのは悪くはない。理想的である。 しかも会社の規模に限らずそれが可能になりそうである。AIを駆使してシステム構築が出来れば社長が出社しなくても会社は回るようになると想像がつくし、それはすぐそこまで来ている気がする。 意識高い系のみんなが大好きなテンプレで会社が動くようにしてしまえば、あとはバカンス……とな。 しだいに社長だけでなく社員もいなくなり、バカンスの先でもサービスを担うのは…… なんか既存の成功テンプレに、わずかに引っかかる

          そしてだれもいなくなった

          スパイも飯は食う

          振り返ってみて学校を楽しいと思ったことは一度もない。義務教育のころからそうである。私は田舎の中学に通った。小学校の時との大きな違いは、上級生がいばるということである。年齢が上なら無条件で格上になる。それが私は嫌でたまらなかった。 不良生徒は不良どうしでけんかにあけくれればいいのだが、堅気の生徒に手を出すのだから質が悪い。実際のところただのいじめっ子である。県内でも下から数えたほうがいい問題校だった。 日本の多くの中小零細企業に見られる、使用者と労働者の「主従関係」への予行

          スパイも飯は食う

          今ここに、PERFECT DAYS

          役所広司演ずる清掃員の平山が銀塩カメラを構える。ファインダーの向こうに木々の葉が揺れていた。 朝は道の落ち葉を掃く老婦人の箒の音で起きる。いつも同じ時間に近所を掃除する人が、街のトイレ清掃人である平山の朝にかかわっている。誰かのルーティンが別の誰かのルーティンとつながる。決して自己完結しているわけではない。淡々とした日常を、静かにカメラが追う。 スクリーンに映る東京は表面的に平和そうに見えるが、ここ十数年での変貌ぶりも映していく。礼節を忘れて疑い深くなった日本人の姿もあっ

          今ここに、PERFECT DAYS

          長江ありて

          「この仕事に誇りなんてない。さっきも馬鹿にされただろう」  重慶のベテラン荷役(バンバン)がカメラの前でこぼす。 が、その双肩は頑強であり、苦もないように長い階段を上がる姿は若々しい。棒一本で妻子を養ってきた事実が、静かだが生きる原動力になっているように思えた。 竹内亮監督のドキュメンタリー映画、『再会 長江』を角川シネマ有楽町で観た。 竹内は長江を上海からさかのぼり、沿岸に暮らす人々との再会を果たしていく。 開発が進んで生活が豊かになった村もある。住民はもう10年前

          ピアノと海と愛欲と

          「ピアノレッスン4Kリマスター」を鑑賞。 絵画のような場面が、マイケル・ナイマンのピアノに乗せて展開される。海辺でピアノ演奏する序盤のシーンこそ、この作品の真骨頂である。 後半は愛欲に堕ちる展開で、暴力的でもある。ある程度女性についてわかっても、心底からはわからない。私の偽らざる思いである。余談だが愛の暴力を、性描写なしで描いてみせたのがエミリ・ブロンテの『嵐が丘』だろう。 閑話休題、『ピアノレッスン』が初公開されたころ、私はまだ学生だった。映画が初めて公開されたころに観

          ピアノと海と愛欲と

          諸行無常の響きあり

          津田沼はわたしが浪人時代を過ごした地である。イトーヨーカドーが閉店するという。つい最近もパルコが閉店したばかりである。後は思い出に帰すだけ……、というのもありきたりでつまらない。 次に何が来るのか期待するというには、あまりに単純すぎる。人の情はかくも易くはない、と思う。 とはいえ、元パルコはまだシャッターを下ろしたまま佇んでいる。ヨーカドーは?ここはOKスーパーの出店か? はてさて、街の景観をいかようにするかというのは難しいものだと思う。何をつくればいいのか。 「今ま

          諸行無常の響きあり

          容堂の軍配

          大相撲初場所、千秋楽手前の1月27日、霧島対琴ノ若。裁く行司は木村容堂。手にした軍配を返すとそこに「歳月不待人」と金文字で記されている。軍配は琴ノ若に上がった。 この二日間、近所づきあいをしている家の法事に出席した。故人は幼いころより知っている。私は受付を務めた。初めての経験である。次々来る会葬者の応対をするポジションである。来る人の顔が目に入る。 なかには旧知の顔もある。しばらく見ないうちに、ずいぶんと老けたという印象を多く抱いた。久々に近くで見たからかもしれないが、時

          史実のブッダとは 下

          ブッダ像から現代的な価値観、つまりそうであってほしいという願望を省く試みが本書である。 ブッダが生きた2500年前は今よりも、人の命はずっと軽かった。男女平等などは言わずもがなである。 本書を読みすすむうちにブッダから余計な装飾がはがれていった。リアルに当時のインドがブッダとともに脳裏によみがえる。 本書の狙いはリアルな全智者ブッダを浮かび上がらせることにある。 ブッダがいくつかの問いに沈黙した意味がわかった。 リアルなブッダは多くの人に寄り添えないか・・・・・・

          史実のブッダとは 下

          あんなに一緒だったのに

          不完全でも自由な世界を望む。私にはそれがキラ・ヤマトの選択だったと思える。 正直、人は分相応に生きていくほうが楽かもしれない。人並みに肩を並べて大きく違わずに。それこそデスティニー計画に乗るほうが「平和」は近いのかもしれない。 それでも人は、 悩んでも、苦しんでも、届かなくても、あきらめず、魂の突貫を繰り返す。 人の歴史は今日までそれを重ねてきた。 そうつい最近もあったではないか。チープジャパンにまで落ちたわが国でも。 SLIMは月に行ったよね。SOLA-Qで駆け

          あんなに一緒だったのに

          史実のブッダとは 上

          正直、そこそこの衝撃を受けている。人口に膾炙した男女平等を標榜し、身分差別を否定したブッダは神話の部分が強いとしている。 本書は現代の価値観からブッダをある意味都合よく解釈してきた部分があると説く。それを史実のブッダと対比して「神話のブッダ」としている。 私には仏教学の碩学、中村元の訳した『スッタニパータ』に救われた経験がある。作者によると中村が大成した仏教学は「神話のブッダ」を完全にはなれたものではないらしい。中村の到達地点よりもっと先に進む必要性を作者は訴えている。

          史実のブッダとは 上

          ネイビーのゴブレット

          ”この杯を受けてくれ どうぞなみなみ注がしておくれ 花に嵐のたとえもあるぞ 「さよなら」だけが人生だ” ダイソーでいい感じのゴブレットを購入。ちなみに100円ではない。 井伏鱒二の詩が真っ先に浮かぶ。 次に浮かんだのは「Auld Lang Syne」。「蛍の光」の原曲である。 酒にまつわるが、ひとつは別れの歌がもうひとつは再会の歌が想起された。

          ネイビーのゴブレット

          月のひかり

          NHKの大河ドラマ、『光る君へ』は夜のシーンに趣がある。月の光に照らされた青みがかった夜を演出している。宴の場面などで効果が出る。平安の人々が月を愛でたのは、貴重な夜の光源でもあったことと無縁ではない。 月明りに照らし出された五節の舞(ごせちのまい)の場面は、幽玄かつ豊饒だった。まひろはこの印象的な舞のなかで衝撃の事実にきづく。 家長の出世、家名をあげるための輿入れ、家を第一とする風潮に少なからず辟易しているようなまひろ(紫式部)と三郎(藤原道長)。 月と星灯りの王朝絵