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深夜に夫婦で料理をしながら、取り止めのない会話を繰り広げる

『結婚は、生涯の遊び相手を手に入れることだ』

これは夫の言葉。

結婚当初から、いや結婚前から言っていた。

ところで、遊び相手と言うからには、実際的に何がしかの遊びをするのだろうか。それとも比喩的に「人生は遊びだ」と言うこと?

夫の言葉の真意を、ことさら深く考えることも問い直すこともなかったけれど、「遊び相手だ」と言われる度に、「そうだね」と同意もできない日々が続いていた。

というのも、私たち夫婦の生活は遊びとはほど遠い、平凡な生活だからだ。遊びと言って連想するような娯楽をほとんどすることもない。共通の趣味と言えば、歩くこと、そして漫画を読むことくらいだろうか。

✳︎

その日は、翌日に控えている友人を招いての食事会の準備をしていた。随分と気合いの入った献立で(実際はほとんどが夫が食べたいものなのだが)、昼過ぎから料理の準備を始めていた。ローストビーフに、紅白なます、お雑煮、松前漬け、エビフライ、そして軍艦いなり…。ある程度の仕込みは終わり、あとはいなりにご飯を詰めるだけ、となった時には夜の22時を回っていた。

テーブルに置いた大きな寿司桶を挟んで、夫婦で向かい合って座り、私は黙々といなりに酢飯を詰めていた。

そんな時、夫が言った。

「僕は結婚できて良かったよ。こんなに楽しい遊びができて」

え?今“遊び”って言った?

ぽかんとしている私を前に、夫は続けた。

「こんな夜中に、一緒にいなり寿司作れて楽しいね」

「…そうだね」

いやいや、これって楽しいか?しかもこれ遊びなのか?

夫は夜中に二人でいなり寿司を作っていて楽しいという。もし仮に、夫じゃなくて苦手な人とこの地味な作業をしていると考えると、控えめに言って苦行だ。それを考えると、相手が夫で良かった。楽しいとまではいかないけれど。

そうこうしていると、お雑煮に入れる野菜を茹で過ぎたことが急に気にかかってきた。野菜は歯応えこそ大事なのに。適当に作ったお雑煮だと思われるのではないだろうか。止めどなくネガティブになる思考を終わらせたくて、夫に話しかけた。

「人ってさ、ネガティブには努力しなくてもなれるけど、ポジティブには意識しないとなれないね」

最近の悪いクセは、主語が大き過ぎることだ。“私”と言えば済むことを、なぜか人類全体に拡大してしまう。ところが夫は間髪入れずに言う。

「やっとそのことに気づいたの。僕は27歳の時に気づいたよ」

「ちょっと味見してあげよう」と言って、夫は私の煮込んだ里芋を口に放り込んだ。そして「丁度いい固さだねぇ」と言い、「おいしいよ」と続けた。

そして夫は言った。

「食べるときはね、“おいしい”という雰囲気を作ることが大切なんだよ。そうすればおいしく食べれるからね」

なるほどと思いながら、いつも食卓に出された代わり映えのしない料理を、まるで初めて食べるように目を見開きながら「おいしいねぇ」と言って食べる夫の姿を思い出した。

作り手にとっても、一緒に食べる者としても、「おいしい」と言って食べてくれることは嬉しいものだ。そして、実際には代わり映えのしない味だったとしても、「おいしい」の言葉だけで、実際においしく感じられるから不思議だ。

楽しさというのも、同じなのかもしれない。

「楽しい」と口にすることで、楽しく感じられてくる。

どんなに地味な作業をしていても、そこに楽しさを見つけて楽しいと思えば、楽しい時間になる。もしも、私のこの平凡な生活の一つひとつに、楽しさを見つけることができたら、人生は彩りに満ちてくるのではないか…。

「生涯の遊び相手」という言葉の意味を、自分なりに理解した気がした。

夫婦で共に過ごす時間は、ある意味、単調で平凡だ。

でもこの平凡な日常を、繰り返しながらも決して飽きることなく、日を重ねるごとにほんの少しずつ互いの関係が深まっているように思うのは、日常の中に楽しさを発見し続ける、夫の小さな優しさゆえなのかもしれない。


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