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誕生日はいつもと変わらない朝から始まった

我が家の玄関の扉を開けると、細い廊下の先に行く手を塞ぐように突っ張り棒がかけられていた。そしてその棒にはまるで暖簾のように画用紙がぶら下げられていた。画用紙には、「誕生日、おめでとう」の文字が。下の方には小さく、「焼き鳥食べ放題、お茶飲み放題、ケーキもあるよ」という文字も。

手作りの暖簾をかいくぐり、扉をあけると、懐かしい音楽が聞こえてきた。これは夫婦の思い出の曲。
「いらっしゃいませー!」
焼き鳥屋さんに扮した夫が威勢の良い声をあげてキッチンの前に立っていた。いつも食事の際に使っている机には、赤いテーブルクロスが敷かれていて、その前には花のいけられた花瓶と、手紙が置かれていた。何よりも目をひくのは、壁に貼り付けられた画用紙。焼き鳥屋を模したメニューがいくつも書かれている。皮、つくね、特上モモ…。焼き鳥のメニュー以外にも、卵焼きやおにぎり、冷奴やサイダーなど。まるで大学生の模擬店みたいに画用紙にマジックで書かれたメニューが壁に貼られていた。

ああ、わたしはただこの人の愛を受け止めたらいいんだ。部屋に一歩踏み入れたまま、そのまま立ち尽くしていたわたしは、なんて自分は馬鹿だったのだろうと思った。涙が出た。これだったのだ。求めていたものは。きっと、初めからあったのにわたしがちゃんと受け止めていなかった。

夫は部屋の入り口で泣いているわたしを見て、「泣いているの?」と笑った。促されるままに椅子に座らされて、「何でも好きなものを注文して」という夫に、焼き鳥のメニューを伝えた。
「あのね、焼き鳥は時間がかかるから他のもので」
「じゃあ冷奴で」
「それならすぐできるよ!」
そう言って冷蔵庫から豆腐を出し、手早く調理してわたしの前に運んでくれる。いつもは机のすぐ横にベビーチェアを置いて娘を座らせているのだが、今日は少し離れたところにベビーチェアがあり、その上で1歳になる娘が物欲しそうにこちらを眺めている。
「この子が近くにいると気になってゆっくりできないからね」
夫がそう言って、娘にも用意してくれていた離乳食を差し出した。
こんな小さな配慮が嬉しい。


今日は、わたしの誕生日だった。

朝、家族で一番に目が覚めてガラス戸を開けると、雨に濡れた草の匂いが鼻をついた。涼やかな風が素肌にあたる。ウグイスの鳴き声がこだましている。ベランダにおいた鉢からは、茎があふれるように伸び、南国色の花がのぞいていた。植物や生き物が瑞々しく動き始めるこの季節がわたしは好きだった。もちろん、自分の誕生日があるから、ということもあるのかもしれない。

しかし、澄み切った空とは反対にどこか心が沈んでいることを感じていた。どうしてなのだろう。布団をたたみ、洗濯機に衣類を放り込みスイッチを入れる。目覚めた娘と自分のために朝ごはんを用意する。普段はほとんど意識をせずにやっているこれらの動作が、今日はいつになく負担に感じる。

「誕生日だとしても何ひとつ変わらない日だ」
そう思って、どこかがっかりしてしまったのかもしれない。
「おはよう」
起き抜けの夫がキッチンの横にあるソファに腰掛ける。
「コーヒー飲む?」
わたしが聞くと夫がうなずく。
横ではベビーチェアに乗った娘が、皿に盛られたおかゆを手で触って遊んでいる。離乳食が始まってもうすぐ1年ほどになる。離乳食が大変だとはよく聞いていたけれど、初めのうちは拍子抜けするくらい何でもよく食べてくれた。しかし、やがて好き嫌いをするようになり、食べたくないものは掴んで床に落とすようになった。「だめ」と言っても意に介せず、次々と放り投げて床をべちゃべちゃにする娘に対して、時に可愛いだけではない感情が湧いてくる。今日も娘はたくさん落とし、わたしはかがんで拭ってはゴミ箱に捨てた。

コーヒーソーサーから、香ばしい香りと共に湯気が立ちのぼる。お湯を入れて温めておいた揃いのマグカップに、それぞれコーヒーを注ぐ。コーヒーが特別好きというわけでもないけれど、毎朝コーヒーを淹れることをやめられないのは、この時間が自分にとって小さな幸せになっているからかもしれない。

以前、仕事でインタビュー記事を書いたとき、「幸せとはなにか?」というあまりにも抽象的なわたしの質問に対して、その人は「日常の小さな喜びや、楽しさがあつまったもの」と答えてくれた。それは一杯のコーヒーであったり、楽しみにしていたドラマの配信だったり。ささやかだけれど、心を満たしてくれるもの。わかるような気がする。この日常を、今日という日を生き伸びるための幸せは、一杯のコーヒーを飲むことのような、些細なことなのかもしれない。

でも日常の小さな喜びは、日常の中で起こるこれまた小さなストレスとの間で微妙なバランスを保っている。少しでもストレスが大きくなると、喜びがすっと遠のいてしまう。

この日もまた、誕生日だというのに娘の食べ残しを掃除して、いつも通り家事をして、のんびりしている夫を見て無性にイライラした。当て付けのように騒々しく皿を洗って、寝室に引っ込んでいると夫がわたしの様子に気づいて声をかけた。
「ちょっと話そうよ」
ダイニングで向かい合って座り、しばらくの沈黙の後、夫が口火を切った。
「最近、イライラすることが多いね」
家事や育児で大変なのはわかるけど、と夫は続けた。自分でもわかっていた。イライラする頻度が多くなっていること。それはイライラしていても夫が受け止めてくれていることに甘えているだけだということ。
私は自分の態度が悪かったことを謝りながら、それでも自分がこのストレスにどのように対処して行けばよいかわからなかった。
「イライラしていても、その表し方は変えられるんじゃないかなぁ」
夫は言った。

午前中、夫が娘を連れて外出したので、久しぶりに家で一人になった。一人の時間には何をしたいか、それを散々思い描いていたのにも関わらず、何をする気にもならなかった。
ストレス解消方法を見つけた方がいいと思い、スマホを取り出して検索した。
運動、アロマ、美味しいものを食べる、人に話す…。ストレスを解消するための方法はたくさんある。でもなぜか、これらのことを実践する気にはならなかった。いっとき気が紛れたとしても、また何か問題が起こったときに同じようにイライラしてしまうような気がした。根本的に、問題を解決する方法はないのだろうか。

「ただいま」
数時間後、夫が玄関の扉を開けて帰ってきた。腕には顔が隠せてしまうほどの花束を抱えていた。
「誕生日おめでとう」
そう言って花束を差し出した。
青い薔薇と、ピンクのカーネーション。その他にも名前の知らないいくつもの花が束ねられていた。前もって予約してくれていたのだ。それを知って嬉しかった。去年も誕生日に花をもらったことを思い出した。そのときはすでに花屋が閉まっていて、スーパーの中で売られている花を買ってきてくれた。あのときも、自分のために花をプレゼントしてくれたというだけで無性に嬉しかった。
「ケーキもあるよ」
夫は白い箱をテーブルの上に置いた。食べるときまで開けるのを待とうかと悩んでいると、構わず夫がふたを開けてしまった。中から現れたのはラズベリーソースのたっぷりとかかった四角いケーキだった。春らしく、苺がふんだんにのっている。
「わぁ!おいしそう」
はしゃぐわたしを見て、夫も嬉しそうだった。

夕方、仕事を終えた夫はわたしに対してしばらく外出してきてほしいと言った。何かサプライズがあるのだ、ピンときたわたしは同意して外に出た。
家の近くにあるカフェで時間を時間をつぶしていると、友人からLINEがきた。
クリスチャンである友人のLINEには、誕生日をお祝いする文面に続き、神様からの愛、旦那さんと娘さんからの愛を受けとってね、という文章が綴られていた。

「愛を受け取る」

その言葉が不思議と胸に刺さった。
誕生日だというのに、何もしてくれない夫に対してむくれていた。娘に対しても、手間ばかりかかると不満を感じていた。それなのに、花やケーキをもらうと現金にも打って変わって喜んだ。物を受け取ることは簡単だ。しかし、愛はどのように受け取ることができるのか。ほとんど人のいないカフェの店内で、飲みかけのマグカップを前に座りながら「愛を受け取る」という言葉がしばらく頭から離れなかった。

半時間ほど過ぎて、家に帰った。玄関の扉を開けると夫が焼き鳥屋さんに扮して待っていた。家の中には、夫婦でよく聴いた思い出の曲が流れていた。
「いらっしゃいませー!」
威勢よく声を張り上げる夫。そして壁には焼き鳥のメニューが書かれた画用紙が、焼き鳥屋も模して貼られている。わたしが外に出ている間にこれを準備してくれていたのだ。この日のために、前々から計画していたのだろう。
ふいに涙が溢れた。焼き鳥やケーキといった、物が嬉しいわけではなかった。わたしのことを思ってこれを準備してくれた夫の心が嬉しかった。

「愛を受け止める」という言葉が腑に落ちた。自分を思ってくれている相手の心を受け止めるということは、相手を信頼するということに近いのかもしれない。
私はときに、自分が願ったようにはしてくれない夫に不満を持っていた。何も言わなくても家事をしてくれたり、娘と遊んでくれたらいいのにと何度思ったことだろう。そんな夫は家族やわたしのことを大切に思っていないのではないか?そんな考えがかすめたこともある。
でも、夫はいつも自分ができる方法で家族を大切にしてくれていた。そしてこれからも大切にし続けたいといつも言ってくれていた。たとえわたしが願ったようにしてくれなくても、夫はわたしや家族のことを大切に思っている。そのことを心から信じようと思った。

人は結局目に見えるものを通してでしか、目に見えないものを確認できないのかもしれない。夫がしてくれたたくさんの準備を通して、やっと夫の心を知ったわたしのように。でも、目に見えないからと言って、それが「ない」わけではない。何をしていなくても、変わらず家族を大事に思っている夫がいる。

人の心を覚えておくのは、目に見えるものを覚えているよりも難しいのかもしれない。美しい花のように触れることもできず、香ばしいコーヒーの香りのように味わうこともできないから。でも、人の心から受けた喜びは、物を通して与えられるどんな喜びよりも大きくて、深いのだ。
つい、目に見える物を頼りにしながら生きている自分に気づいた。でもそれはすぐに消耗し、なくなってしまう。一方で、目に見えないものは決してなくならない。
この日のことを、そして、夫の愛を覚えていたいと思った。

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