見出し画像

「集中」のはなし

皆さんこんにちは!
グッと寒くなり、布団から出るのが辛くなってきました。
古山大です😂
今朝の龍ケ崎は氷点下2度くらい…。

と、いうわけで。
今日は練習中に思いついたことのメモ編。


最近はもっぱらコツコツコツコツ来シーズンに向けて地味~な練習の毎日です。
まあ、地味な練習の積み重ねっていうのは持久系競技者の宿命みたいなものなのですが。
こういう地味な練習って、ゼーゼー息が上がるハードな練習よりも「集中できているかどうか」というのが、練習達成度により関係してくる気がします。

インターバルとかダッシュとか、明らかに「キツイ」練習は、そもそも集中できていないと練習を100%消化できません。
目標のタイムに届かなかったり、強度をあげられなかったり。「集中」していることは大前提で、その上でどんな練習ができたか?という練習です。

ですが、息の上がらない練習。ジョギングとかロングライドとかは、集中できていなくても練習を100%消化することができてしまいます。
基本的に時間や距離をこなすだけなので。
私はこの練習の場合に、上手く集中できていない状態になってしまうと、練習後の体の感じが中身が空っぽな外側だけの感覚になり、練習効果を上手く得られたように感じられません。

後者のような練習の時に集中する感じを、最近は仮で「入る」と定義して練習ノートに「今日は練習に入れたor入れなかった」っていうのを書いています。

で、じゃあ「入れた」時に「入れた」と思う原因ってなんだ?と思いました。
この時期は超低強度で仲間と喋りながら練習することもあります。
それはそれでOKでした。その練習でも入れたときと入れていない時がありました。
その違いが何かと見てみたところ、フォームや体の反応に意識の一部だけでもいいので注げていた時は自己評価が「入れた」となっていました。

喋っててもいいです。一人でのんびりやっててもいいです。夕飯のおかずのことを考えてても、読みかけの本の事を考えてても大丈夫でした。
しかし、100%ある意識のうち、動きに割く量が20%くらいを下回ると「ただ動いているだけ」の状態になるみたいです。
「入れなかった。」という評価になっていました。
コンビニまで買い物に行く時にただ歩いてるみたいな感じなのかな…。

最近、気を入れなくても練習を始められるようになってきました。
古山大の中で、いままで「非日常」だった競技が「日常」にまで降りてきたののだと思います。
ようやくそのレベルにまで心身ともに到達したのかと喜ぶ反面、少しでも気を抜くと「ただの日常」として大切な練習の時間が消費されてしまうようにもなりました。

この「空っぽな感覚」は私がまた一つ次のステップに進んだ証かなと思いつつも、持久系競技者として地味~な練習を身につけるために、クリアしなきゃいけない課題だなと思いました。

って話でした!

というわけでここまで!
それでは!

トライアスロンーーー!!!🏊‍♂️🚴‍♂️🏃‍♂️🥇