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【第三夜】有川浩著『阪急電車』

2008年の2月に東京から大阪に転勤になり、阪急西宮北口駅から徒歩10分程度のところの阪急電車の車両基地の近くに住んでいた。もっとも西宮北口駅の近くに住んでいたとはいえ、職場の関係で通勤に利用していたのはそこから徒歩20分程度のところにあるJR甲子園口駅であったが。

有川浩の『阪急電車』(幻冬社、2008年)を読んだのはそんな2008年の2月のことだ。ちょうど阪急西宮北口駅構内にあるブックファーストに平積みされていたのである。この本が宝塚~西宮北口間を舞台にしていることと、ブックファーストが阪急系の書店であることを考えると、何ともわかりやすい販促活動ではあったわけだけれども、その阪急グループのわかりやすい販促活動にのせられてこの本を購入して読んだ。

元々あまり小説を読む方ではなかったし、既に『図書館戦争』をいう代表作のある有川浩の作品を読んだのはこれが初めてだった。ちなみに有川浩の他の作品では、航空自衛隊幕僚監部広報室を描いた『空飛ぶ広報室』もお気に入りである。(『空飛ぶ広報室』は後に新垣結衣と綾瀬剛のダブル主演でドラマ化されている)。

舞台は阪急今津線の宝塚~西宮北口間の8駅であり、宝塚から西宮北口と、折り返しの西宮北口から宝塚の16編から成り立っており、老若男女の喜怒哀楽が詰まった群像劇の体をなしている。恋が始まる話(征志とユキ、圭一と美帆)もあるし、女の怨念が描かれた話(翔子)もあるし、老婆の独白的な話(時江)、下らない男を愛した女の話(ミサ)、女子高生のおもしろエピソードと葛藤(悦子)、主婦の人付き合いの難しさにまつわる話(康江)など、とにかくいろいろな話が扱われており、翔子の話を除けば「日常的」にありそうな話のように思う。

登場人物の人間模様は実に様々ではあるが、全ての登場人物に共通しているのは、「ちょっとした観察力」に優れていることと、「ちょっとした勇気」を持っていること、そしてその二つから起こる「小さな変化」であるというのが最近読み直した際に得られた私の感想だ。登場人物たちは、たとえそれが他の人にとって平凡と思える日常生活であっても、そこで発揮される「ちょっとした観察力」をもとに、それぞれが「ちょっとした勇気」(だがその「勇気」は当人たちにとっては「大きな」ものである)を出すことで、「小さな変化」が次々と起き、それが登場人物たちの人生を豊かにしてゆく。

2008年に初めてこの本を読み終えた後、実際に今津線に乗ってみた。住んでいたのが西宮北口であったから、ちょうど作品とは逆方向に乗った。作品と同じ電車に乗ったということだけ覚えているものの、それぞれの駅に降りて、あたりを散策して何かを考え、気付いたという記憶は残っていない。そして残念なことに、西宮北口での快適な生活はわずか10か月で終わってしまった。2008年の12月に再び別の事業所に転勤となってしまったためである。少なくとも2008年の時点では、この作品はただ読んで、「おもしろい本だったな」という程度にしか思っていなかった。

その10年後の2018年8月、今度は宝塚市内にある事業所に赴任した。作品の舞台の一つとなり、作中で「いい駅」と表現され、登場人物の少なくとも4人(当初は征志とミサが住んでいることがうかがえるが、その後、翔子とユキも加わる)が住むこととなる駅の近くに自分も住むことになり、今津線をよく使うこととなった。『阪急電車』の舞台、それも作中で「いい駅」と表現される駅の近くに住むということで、引っ越してきたのとほぼ同じ時期に『阪急電車』を再読した。

だが、新型コロナウイルスの感染が拡大したことで、2020年3月15日以降、私は公共交通機関そのものを利用することがなくなった。西宮北口以北の今津線沿線であれば基本的に徒歩で済ませることにしており、その生活は既に10か月に及んでいる。この徒歩の生活に移行したことで、皮肉にも『阪急電車』の魅力をより理解できるようになったと思っている。

13年前と引っ越してきてからの2年間ほどはただ阪急電車に乗るだけであったが、実際にそれぞれの駅の周辺をゆっくりと歩いてみることで、著者の有川浩がどれだけ緻密にそれぞれの駅や「町」について描写しているかがよくわかったし、彼女が西宮北口以北の今津線沿線がどれだけ好きであるかが伝わってきた。ちなみに有川は登場人物の一人である権田原美帆を通じて、「面白いものはやっぱり地面を走ってる線路の方が見つかりやすい」と西宮北口以北の魅力を語っている。(西宮北口以南の阪神国道と今津は高架になっている)。

作品の初出から14年が経過したことで、今津線沿線は「変わった」ところもあれば、「変わらない」ところもあるのが現実だろう。

作品の冒頭で登場し、征志とユキをつなぐことになった武庫川の中洲にある「生」のオブジェは、有川が作品を執筆した当時で2代目であり、作品の終盤で征志とユキがお互いの部屋を行き来する頃には、こんなやりとりがされている。

図書館に行くたびにその中洲を二人で見下ろした。

今日もあるね。
今日もある。

中洲の『生』の一文字は、誰かが手入れをしているらしく、夏草が茂る季節になっても文字を覆い隠そうとする草が引かれていたり、石が崩れて輪郭がぼやけても詰み直して整えてあったり、かなり長い期間ひっそりとそこに在り続けた。

しかし台風や長雨をいくつか過ごし、その増水の激しい流れを被って、今となってはさすがに何の変哲もない中洲に戻っている。

なくなっちゃったね。
なくなっちゃったな。
粘り強かったね。
よく頑張ってたよな。

「生」のオブジェは現在では毎年12月ごろにボランティアが修復を行い11代目になっており、阪神大震災の慰霊前夜となる1月16日の夜にはライトアップも行われる。このオブジェが現在もなお維持されている背景には、作品のメッセージももちろんあるだろうが、『阪急電車』を通じて知名度を得たこともあるはずだ。

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(宝塚大橋より臨む「生」のオブジェ、2021年1月11日撮影)

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(「生」のオブジェのライトアップ、2021年1月16日撮影)

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(宝塚大橋横の「生」のオブジェ、2021年1月16日撮影)

翔子の「討ち入り」の舞台となった宝塚南口駅前の宝塚ホテルは老朽化のため2020年3月31日で営業を終了し、2020年11月から解体中工事中であり、跡地にはタワーマンションが建つ予定である。新しい宝塚ホテルは宝塚大劇場の西側に移転した。三角屋根と阪急電車を思わせる小豆色を遺すことで旧い宝塚ホテルの雰囲気を醸し出している。

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(宝塚南口にあった宝塚ホテル旧館、2018年7月16日撮影)

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(新しい宝塚ホテル、2021年1月11日撮影)

逆瀬川、小林、仁川、甲東園、門戸厄神が大きく変わったという印象はなく、改めて作品を読んで歩いてみると、翔子とミサがどの辺に向かって行ったかが大体イメージがつくし、征志とユキはこの辺りに住むことになったのだろうなという大体の検討がつく。そこに住み、まさに「ちょっとした観察力」を持つ人たちが読めば、この作品がいかに緻密に創られているかがよくわかる。ちなみに小林駅近くにある洋菓子店には、映画化された際に亜美を演じた芦田愛菜のサイン色紙が飾られている。

著者の有川浩はこの作品を通じて西宮北口以北の阪急今津線の魅力を十分描いたと思っている。ただ、それでも彼女が描かなかった、あるいは描けなかった風景を私は知っている。それは小林〜逆瀬川間の小高い丘にある宝塚神社から臨む朝日だ。ちょうど真下に阪急電車が走っており、その音を聞きながら見る朝日はとても美しいのである。この朝日を見た時、「作品を完成させるのは著者ではなく読者である」ということを強く感じた。

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(宝塚神社より臨む朝日、2021年1月15日)

あとどれぐらいこの「いい駅」の近くに住むことになるかはわからないけれども、私自身も「ちょっとした観察力」を生かし、「ちょっとした勇気」を出すことで「小さな変化」が起きて、人生がもっと豊かになるのではないかと思う。

蛇足だが、阪急今津線沿線には美味しいラーメン屋も多い。おそらく宝塚駅〜西宮北口駅の各駅周辺にある美味しいラーメン屋を1〜2件程度紹介することができる。『阪急電車(ラーメン編)』を書くこともできるのだが、それはまた、別の話。

関連作品
①三宅喜重監督『阪急電車 片道15分の奇跡』(映画版DVD)
②宮崎明夫監督『阪急電車 征志とユキの物語』(スピンオフドラマ)

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