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海と記憶

はじめて息子を海に連れて行った。

晩秋の風の強い日のことである。空はどんよりと薄暗かった。

誰もいない砂浜で、息子は海を見ていた。

入ることも泳ぐこともできない海を、眺めていた。

波が寄せる。

子供が驚く。

引波ひきなみを見送り、水に近づこうとする。

危ないよ、と声を掛ける。

また波が寄せてくる。

子供が笑って逃げる。

何度も繰り返した。

違うとこ見に行こう、寒くないの、と聞いても、
もっと海が見たい、寒くない、と言って離れない。

そうしてしばらくの間、そこにいた。

黙って、ずっと海を見ていた。

波の音は鳴き声みたいに響いている。海は、こんな音だっただろうか。

この子は海に惹かれている。

その後ろ姿は、記憶を寄せてくる。

そうだ、私にもこんなときがあった。


年に一度、家の近くのひなびた神社に舞台が組まれた。幕が張られ、提灯が灯される。

神楽の巡業であった。

太鼓の、笛の音、鉦の音。朗々とした唄。
幕から現れ出るのは面をつけた人とも神ともしれない者たち。

神社を囲む石垣に座って、私はそれを見た。

大好きだった。

音も、光も、影も、扇も、御幣も、ひんやりとした堅い石垣も、夜の空気も、集まった観客の潜めた声も。

なにもかもが特別な夜。

もう帰ろうか、と言われても帰らなかった。

帰るだなんて信じられない。

もっと聞いて、見ていたい。


あの夜の私みたいだと思った。


海と
それを見る子供と
その子を見る私。
はるか昔の記憶の私と
私を呼ぶ声と
子を呼ぶ私の声。

海は、波の音も、潮の匂いも、どこまでも広がる水平線も、特別で。
ほんとうに特別なかんじがして。
でも、風が冷たくて寒かった。

もう一度帰りを促す私を、息子は信じられないという目で見上げた。

その目には、きっとあのころ見た”大人”が映っているのだと思う。


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