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太宰治『待つ』について

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太宰治『待つ』について
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2016年2月の記事一覧

自己を見失い、不安を抱えた者たち〜太宰治『待つ』について 第二回

自己を見失い、不安を抱えた者たち〜太宰治『待つ』について 第二回

 小説『待つ』における“誰か”とは、佐古純一郎氏曰く“キリスト”であるという。また、他の評論家は各々の持論がある。私自身、それらについて何ら異存はない。答えはひとつとは限らない。いずれにせよ、真実を知る唯一の人は、もうこの世にはいないのだから。
 だが、湧きあがる好奇心というものは抑えきれないもので、様々な考えを思い巡らせてしまうのである。他人はきっと、これを妄想と呼ぶのであろう。今回はその妄想を

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待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね〜太宰治『待つ』について 第三回

待つ身が辛いかね、待たせる身が辛いかね〜太宰治『待つ』について 第三回

 さて、前回までは作品『待つ』における“誰か”の正体について触れてみた。しかし、私としては、それが“誰か”ということよりも、“待つ”という行為そのものに強く興味を覚えるのだ。
 私は“待つ”という行為について、或るエピソードとともに、太宰さんの印象的なセリフを思い馳せずにはいられない。

 昭和11年の12月のことである。家にいると仕事ができないと言って太宰さんは、井伏氏の知り合いである小料理

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走れ太宰治〜太宰治『待つ』について 第四回

走れ太宰治〜太宰治『待つ』について 第四回

 前回のエピソードとセリフを聞く限り、太宰さんは随分ひどい男のように思える。実際に付き合いづらい人物であったのであろう。
 しかし、何故だが彼の周りには常に人が集まってくるのだ。このエピソードにみられる数々の借金のほとんどは、その周りの人物によって支払われている。それほど魅力のある人物でもあったことが、ここに窺えるのである。
 これより4年後、太宰さんは『走れメロス』を執筆する。このことについて、

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信実とは決して妄想ではなかった〜太宰治『待つ』について 第五回

信実とは決して妄想ではなかった〜太宰治『待つ』について 第五回

 今回より『走れメロス』における“待つ”という行為について考察していきたい。
 本作品の執筆における“重要な心情”の発端が、檀一雄氏との熱海行きにあったらしいということは、前回において触れている。
 だとすれば、自ずと、次のような図式が成り立つかと思われる。

 メロス≒太宰さん
 セリヌンティウス≒檀氏

 さらには、次のようにも考える事ができるのではないだろうか。

 暴君ディオニ

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