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信実とは決して妄想ではなかった〜太宰治『待つ』について 第五回

 今回より『走れメロス』における“待つ”という行為について考察していきたい。
 本作品の執筆における“重要な心情”の発端が、檀一雄氏との熱海行きにあったらしいということは、前回において触れている。
 だとすれば、自ずと、次のような図式が成り立つかと思われる。

 メロス≒太宰さん
 セリヌンティウス≒檀氏

 さらには、次のようにも考える事ができるのではないだろうか。

 暴君ディオニス≒檀氏

 つまり、“待つ”ことに不安を覚え、太宰さんを疑った檀氏こそが、セリヌンティスであり、暴君ディオニスであるということである。
 もしも、あのまま太宰さんを信じて“待つ”ことをしていれば、本作のようにひしと抱き合うことはなかったにせよ、お互いの胸に一抹のわだかまりをも抱くことはなかったかもしれない。(実のところは、それすらも疑わしく思えるが)
 太宰さんにとって、あの時の檀氏は、紛れもなくセリヌンティスであったに違いない。檀氏が“待つ”間、太宰さんは闘っていたのかもしれない。待たせてあることへの焦燥も、かなりあったはずである。呑気に将棋を指していたように見えるかもしれないが、その実、心の中では冷汗まみれであったことであろう。何せ、井伏氏の紹介を通じて取った宿である。決して安い額でもなく、どう切り出していいものやら思い悩んでいたのかもしれない。こういう点においては、意外にも真面目な男なのである。
 多くの太宰ファンと同じように、私は太宰さんが生活者としては最低な人間であったことを知っている。だが、断じて他人を陥れるような人間ではなかったことも、また言い切れる。「言うに言えなかった」まるで子供のような言い訳ではあるが、こちらの方が遥かに太宰さんらしいのである
 だが結果として檀氏は、セリンヌンティスではなく、信実を疑う暴君ディオニスと化してしまう。将棋を指していた太宰さんを、怒鳴りつけてしまうのである。
 その信実を疑われた太宰さん。自業自得であると言わざるを得ないが、それでもさぞかし悔しかったと思われる。自分は闘っていたのに、という気持ちがあったのかもしれない。
 恐らく、そんなところが “重要な心情”の発端であり “信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。”というディオニスの言葉。これこそが、“重要な心情”の正体なのであろう。
 しかし、ここにおいてメロスたる太宰さんは、決して檀氏を責めている訳ではない。互いの頬を殴り合うシーンや、それを見たディオニスが改心することからも、そのことが窺える。
 そして、そのことに気が付いたからこそ、檀氏は“憤怒も、悔恨も汚辱も清められ、軟らかい香気がふわりと私の醜い心の周辺を被覆”されたのかもしれない。暴君ディオニスの心のように。

信実とは決して妄想ではなかった~『走れメロス』より

引用・参考文献
檀一雄『小説 太宰治』
井伏鱒二『十年前頃』

#コラム #太宰治

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