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自己を見失い、不安を抱えた者たち〜太宰治『待つ』について 第二回

 小説『待つ』における“誰か”とは、佐古純一郎氏曰く“キリスト”であるという。また、他の評論家は各々の持論がある。私自身、それらについて何ら異存はない。答えはひとつとは限らない。いずれにせよ、真実を知る唯一の人は、もうこの世にはいないのだから。
 だが、湧きあがる好奇心というものは抑えきれないもので、様々な考えを思い巡らせてしまうのである。他人はきっと、これを妄想と呼ぶのであろう。今回はその妄想を書き綴ることとしたい。
 太宰さんの作品に『誰』というものがある。学生から「なんじはサタン、悪の子なり」と言われショックを受けた主人公が、サタンについて調べ、自分自身を見つめ直すといった内容である。
 小説の冒頭にこうある。

イエス其の弟子たちとピリポ・カイゼリヤの村々に出でゆき、途にて弟子たちに問いて言いたまう(中略)「なんじらは我を誰と言うか」ペテロ答えて言う「なんじはキリスト、神の子なり」(マルコ八章二七)
たいへん危ういところである。イエスは其の苦悩の果に、自己を見失い、不安のあまり無知文盲の弟子たちに向かい「私は誰です」という異状な質問を発しているのである。けれども、ペドロは信じていた。愚直に信じていた。イエスが神の子である事を信じていた。だから平気で答えた。イエスは、弟子に教えられ、いよいよ深く御自身の宿命を知った。~『誰』より

 太宰さんは、この『誰』を含めて聖書に依った作品を数多く書いている。実際に、佐古氏をはじめとする数多くの評論家たちによって、太宰さんと聖書との関係が指摘されている。
 もしも、小説『待つ』おける“誰か”が“キリスト”であるならば、直接的ではないにせよ、その根底的な部分において、この二つの作品は繋がっていることが言えよう。
 その辺りを踏まえた上で私が着目したのは、先の引用におけるキリストが“自己を見失い、不安のあまり”弟子たちに「私は誰です」という質問をした部分である。
 ここで小説『待つ』に立ち返ってみよう。彼女は、戦争が始まってから駅で“誰か”を待っていたのだ。これが現代ならば、そういった者は“自己を見失い、不安を抱えた者”と見なされるであろう。
 さらに『誰』の中で主人公は、サタンを調べることで自分自身を見つめ直してさえいる。だとすれば……。
 ここにおいて私は、ある考えが脳裏に閃いたわけであるが、いまは伏せて置くこととしたい。何も結論を急ぐ必要もあるまい。何といっても、単なる妄想と一笑に付されるのがオチなのだから。
 蛇足ながら、太宰さんと聖書との深き邂逅は、パビナール中毒治療の為の入院前後だと言われている。太宰さんもまた、“自己を見失い、不安を抱えた者”であったのだ。

参考文献:佐古純一郎『太宰治におけるデカダンスの倫理』

#太宰治 #コラム

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