見出し画像

この毎日を生きる力の話。

今、少しだけ仕事が落ち着いています。

そうすると、頭が暇になっているせいか、このようなことを考えてしまうんですよね。

・仕事って何のためにするの?
 ⇒ そりゃお金のためだよ。

・貰えるお金が多ければ、どんな仕事でもいいの?
 ⇒ いや、貰えるお金が多くても、やりたくない仕事は嫌だな。

・やりたい仕事だったら、貰えるお金が少なくてもいい?
 ⇒ うーん、そういうわけでもない。家族が養えるくらいは欲しい。

・そこそこお金が貰えて、そこそこやりたい仕事ならいい?
 ⇒ まぁそんなところかな。でも鬼のように忙しいとかストレスが半端じゃないのは嫌だなぁ。

・そうしたら、最初の質問に戻るけど、仕事は何のためにするの?
 ⇒ お金を貰って、やりたいことをやるためかな。心身が犠牲にならない範囲で。


誰と問答しているのかよく分かんないですけど、結局、自分にとって仕事は何らかの手段なんだと思うんです。

意識の低さに関してはもうほんとにすみませんって感じですが、こんな自分でも仕事をするにあたっては多面的な目的があるのかもしれません。

お金が欲しい(収入、経済力)とか、やりたいこと(自己実現、欲求の充足)とか、パッと思いつく限りはそういう目的があります。その色んな種類の目的を達成するために、手段としての仕事をしているように思います。

そう考えた時に、もしもその目的が果たせなくなったらどうやってバランスをとっていこうかなというのが、目下、私の課題と言いますか懸念事項です。

念のため申しておきますが、仕事は仕事でちゃんとやりますよ。ハイパフォーマンスではないですけど、凡人らしく一応会社には何らかの貢献はしているつもりです。

でも、その仕事が「やりたくない」方向に傾いてきた時に、どう働くか。それは自分自身の心の持ち方の話。現実的に働くことは出来たとしても、ここの安定性が問題です。「やりたくねえなぁ」って思いながら働くのは精神衛生上、結構キツイんですよね。

じゃあ転職すればいいかというと、そこに簡単に踏み切る勇気は無いわけです。給料的には(世間の平均的には低いけれど)何とか生活できるくらいには貰えているし、忙しさという点でも、ちょっと前は酷かったですが今はまた大分マシになってきました。

ですから、現状の環境に大きな不満は無いわけです。あとは、その仕事が「やりたいか/やりたくないか」の問題というわけです。

具体的な話をすると、私は現場でガリガリとモノ(情報システム)を手作りするような業務を望んでいて、今の会社でも採用面接の時に「そういう仕事をしてほしい」と言われてニーズがマッチして入社した経緯があります。

ところが、ここ数年、社内の傾向として手作り志向から外注志向にシフトしてきているわけです。そうなると、やる仕事としては外注業者の管理が中心になってくるわけで。これがもう、少なくとも私にとっては、やりたくない非常に退屈でつまらない仕事なのです。

もっとも、やりたくないことでもやってみるとか、楽しんでやるとか、そういう観点は分かります。それはやっているつもりです。でも、めちゃくちゃ熱中するとかはやっぱり無くて。

たとえば私は、人との折衝ごとがめちゃくちゃ苦手な、それこそコミュニケーション低能力者なんですけど、そうは言ってもそういう仕事があるなら一生懸命やりますよ。一応やるべきタスクはこなしているつもりです。

ですけど、そういう仕事は、何度経験してもどうしても苦手で苦手で嫌で嫌でたまらなくて。冷や汗だか脂汗だかでビッシャビシャになって。胃腸の調子がすこぶる悪くなって食事ものどを通らないんですよ。「楽しもうぜ~」って言われても、頭ではそう思おうとしても、身体が拒否している感じなのです。

逆に、何か「こんなのあったら便利なんだけどな」的な依頼を受けた仕事が舞い込んできたりすれば、心身の反応は全くそれと異なるものになります。

技術的にできるかどうかの準備やら検証やらの段階からすでにもう楽しくて、実際に開発するとなれば時間を忘れてどっぷりのめり込んで「楽しい~」って思いながらやってしまうわけです。実際、昼夜を問わずにそのことを考えていても苦ではなかったりします。(私自身、決してハイパースキルを持っているとかではないです)

そうすると、「嫌い」とか「苦手」というのを克服できない領域の中でもがいて何とか頑張ることよりも、当然「好き」とか「楽しい」とかそういう感情を純粋に持って物事に取り組める方が、なんとなく精神的に良い気がするんですよね。

言わば、仕事を通じて「快楽」のスイッチをオンにしているような。

仕事に私情を持ち込むな?
マスターベーションじゃねえんだぞ?

そういう意見もあるでしょう。

とはいえ、楽しくてやっている仕事はアドレナリンがドバドバ出る感じがして「やったるぜー!」と意欲的になれるんですよね。生きているという感じがする。死んだ魚の目をして働くよりずっと良い。

ただ、問題は、それが出来ているうちは良いんですけど、上で書いたようにそういう仕事ばかりでもなくなってきて、むしろそうじゃない仕事ばかりになってきたとしたらどうしましょう、という話。それでいて、繰り返しになりますけど、職場環境的に会社を辞めて他に移るってほどでもないと。

そうなると、仕事以外にそういった「楽しみ」を求めるしかないと思うわけです。

長くなりました。本題。

生きる上で、たとえば「何かをやりたい」という気持ちとか、ワクワクしたりとか、何かに熱中して寝食を忘れるとか、そういう心の底から湧き上がってくるようなエネルギー、つまり、生きる力みたいなものは、一体何のために出てくるのかな、と思うのです。

うーん。すみません、かなり抽象的になってしまいました。

シンプルに言い換えれば、「楽しい」とか生き生きしている気持ちとか、そういうのが何処から出てきて、そして何を目指しているのかが知りたい。

まだ分かりにくいね。少し自分の話に落とし込みます。

人間が楽しいと思う気持ちとか、そういうのって良いなぁと私は思うんです。上にも書きましたけど、私は仕事でそういう思いをすることもありますけど、じゃあ仕事以外で、どういう時にそういう思いをするのか考えてみました。

すると、そこまで多くないんですよね。というか、あまり思い浮かばない。趣味と呼べるようなものがが無いのかもしれないです。これといったものが。

「そんなに仕事が好きなの?」と訊かれたらそんなことは断じて無いんですけど、それでも、仕事関係で知識を蓄えたり何か色々技術的に試したりしてみることくらいだったんですよね、最近憶えている中ですごく楽しかったのって。

そう、楽しかった。過去形です。

今は楽しくないんですよね。
色々理由はありますけどそれは一旦置いておいて。

楽しかった頃を思い出すと、知らなかった技術を知れたり、それを使って色々なことが出来るようになったり。それは自己顕示欲を満たすというより、自分自身の内なる創造力に対する欲を満たすような。表現欲もちょっと入ってるかも。「こんなの出来たぞ」とか「こんなの知ってるよ」みたいな。

そういう思いって、決して他人に向いているものだけではないようにも思うんです。だからと言って自分だけで完結するものでもなくて。

でも今では、諸事情あって、そういう仕事関係の技術や知識を全く欲していない。目に触れるもの嫌です。

そういう状況にあっても、せっかく生きるなら、そういう以前経験していた「楽しいな!」とか時間を忘れて没頭するようなこととかに打ち込みたいんですけど、どうにも打算的な思考をしてしまって、上手く楽しめない。いつからこうなったのか、ずっと前からこうなのか憶えてないですけど。

たとえば、好きなジャンルの本を読んでみるのは良いんですけど、頭のどこかで「この知識は〇〇のことに役に立ちそう・・」とかそういうことを考えてしまって純粋に楽しめないんです。

他にも、楽器をちょっと弾いていても、身体を動かしていても、語学とか何か勉強をやってみたりしてみても。その時はたしかに面白いんですけど、ふと気付くと、何となく「先のこと」を考えてしまっている。「これは何かに使えるかな」って。

趣味を、気付かないうちに無理やり未来や将来につなげようとしすぎている感じがあるんです。「これをやったら・・」みたいな思考。下心がすごいんですよね。

ですから、純粋に、今、目の前のことに夢中になるようなこと。もう結果や先のことなんてどうでもいいと思えるようなこと。そういうのが良いんです。

それが、結局のところ、下心に繋がるのでもいいと思います。あるいは、逆にそれがスタートでもいいと思うんです。

カッコ良く見られたいとか、モテたいとか、頭良く見せたいとか、誰かに威張りたいとか。めちゃくちゃ打算的であったり邪な動機であったとしても、その過程を楽しめるならアリだと思います。

表現はムズイんですけど、まとめるとこんな感じ。

何かしらの目的もしくは結果として生々しい欲望があったとしても無かったとしても、そのプロセスに身を置く中でそういう目的や結果すら忘れられるほどそれに打ち込めること。

そういうのの中に「生きる力」があるような気がするんです。そしてその力を、生活の中で感じていたい。それが無いと毎日に張り合いも無くなるような感じがして、焦燥感のような軽い危機感を覚えているのです。

生きる力。私の場合は何だろう?

そんなことを思い返しながら今日も無趣味な私の一日は過ぎていきます。先のことは考えたくないな。おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?