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「思考の供養」として下書きを大公開してみる話。

突然ですが、note の記事の下書きが、とても溜まっています。

私は普段、note の記事に書くアイデアが浮かんだら、とにかくキーワードだけでもタイトルに記して、下書きに残しておきます。で、時間を見つけて、その下書きのキーワードをもとに考えを膨らませて、一気に記事を書き上げています。

ですが、一旦下書きの状態に残してしまうと、それで安心して、放ったらかしになったままの下書きも多いんですよね。

ちなみに、こんな感じで残ってます。

note の記事を書こうと思って下書きを作ったものの、続きを書くタイミングを逃してしまうと、こうして、しばらく下書きのまま塩漬けにされている記事も増えていくわけです。

これを

#熟成下書き

と呼ぶようなのですが(多分)。

でも、このままにしておいても、少なくとも私は、恐らくその続きは書かないのです。というか、書けません。

「いつか書こう。下書きにはあるんだから・・」なんて思っているから、安心しちゃって、そのままになっているわけです。いざ続きを書こうと思ったとして、一番古いものなんて去年の夏からなので、その時の感情や思いをもう一度思い出すのは、ちょっと無理があります。当時の熱量などは、時間が経つにつれて薄れていきますしね。

これはあまり良くないなと。

私が note で記事を書いている目的は、以前にも何度か書いていますが、「今の思考の断面を保存すること」なので、この状態ではそれが果たされていないのです。思い出話もたまには良いですが、私の目的とはちょっと異なるわけです。新鮮なうちに言葉にしておきたいんですよね。

というわけで、ここは一度、綺麗にしようかと。
このタイミングで、もう下書き消しちゃおうと、全部。

ただ、その前にこうして、公開に至らなかった記事たちに最後に思いを馳せて、下書きのタイトル一覧を公開した次第です。

でも、それだけではありません。最後にもう一度だけ、それに関する思考をして、丁寧に書き加えて、そうしてから葬りたいのです。

もしかしたらこれらは、思考にも至っていないかもしれません。単なる「思いつき」とか、はたまた「反応」レベルです。しかしそのような形であっても、一度外に出されたものです。その時の思考の「断面」いや「断片」としてでも敬意を表して、覚えている限り、最後に書き残していきます。タイトルもそのままに、やってみます。若干の恥じらいはありますが。

要は、今回の記事は「思考に至らなかった思考の供養」なわけです。

何とも自分本位な内容ですが、ご興味ある方はお付き合いください。

※めちゃくちゃ長いです。


<住む場所(京都出身ってだけで負けた気になる)>

住む場所(京都出身ってだけで負けた気になる)
ー2023/01/25

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なんとも偏ったというか、ひねくれたタイトルです。

これは、テレビをボーッと見ていましたら、「年末年始は、京都に帰ったんですよ」と言っている芸能人の方が居まして。それでブワッと考えが降りてきました。

「出身は京都なんです」と言えることって、その実情はどうあれ、すごく「強い」よなぁ、と感じたのです。京都に限らず、東京出身とかも「ああ、強い・・」と思います。よく分からないですけど。

私は北関東のド田舎出身だからなのか、そういう華やかだったり、賑やかだったり、スマートだったりする町の出身者って、とても憧れるんですよね。一言であらわすなら、自分の中に「都へのコンプレックス」があるんです。勝ち負けではないと分かっていながらも、やはり「洗練された都会で生まれ育ったカッコ良さ」を感じてしまいます。浅はかでしょ?知ってます。笑

そもそも、この記事を書こうと思ったこの時、ちょうど、祖父の相続の話で頭がいっぱいいっぱいになっていて、「生まれた場所は選べないよなぁ・・」と絶望に近い感情すら抱いていました。

そんな時に「俺、実家京都なんで~」みたいにタレントさんがテレビで話しているのを耳にして、正直「鼻につくなあ」と思ってしまったその一方で、「ああ、もし京都に生まれ育って、その土地を相続する話だったなら、もう少しポジティブに考えられたりしたのかなぁ」なんて冗談半分に、純粋な羨ましさを感じてしまったりしたのです。

というのも、私は大学時代を京都で過ごしてたので、「卒業後もあのまま住み続けていたら、今頃はどんな生活を送っていたんだろうなぁ」なんて想像してしまったんですよね。何とも不毛ですが。もちろん、学生時代なんてほんの数年ですし、そこに何十年と住み続けることの大変さとか苦労はあるとは思うのですけれど。周りに何も無い町で生まれ育った自分としては、やはり純粋に、羨ましくて仕方が無かったりするんですよね。

いずれにせよ、そのような思考を通じて、住む場所を決めるということは、自分にとってすごく大きな出来事だったんだな、と再認識しました。「住む場所」というより「住みつく場所」と言いますか。それは、自分だけではなく、子供の出身を決める行為でもあるので。

どこで生まれて、どこで育って、というのは人間のアイデンティティが形成されるうえで、ものすごく重大な問題なんじゃないかと思ってしまうんですよね。当然、生まれた家の経済状況や親の育て方というのはもちろんあるんですけど、日々当たり前に過ごす町が、そこでの生活という意味で、その人の思考とか感性とか、そういったものに与える影響はすごく大きいものだと思うわけです。その点で、私は出身の町の寂しさとか、過疎っぷりとか、不便さとか、そういったものを痛く感じて、ここまで来てしまったので、せめて自分の子供には、私が味わっていたような思いをさせたくないと思ってしまうんです。

そんなことを言いながらも、結局は今、埼玉の田舎に住まいを構えて、子供もすくすくと育っていっていますが、これはこれで良いなとも思っています。子育てにおいては、なかなか良い選択だったと、私はそう感じています。失礼な話、京都よりも上品な雰囲気は無いですし、東京都区内ほどには栄えてはいませんが、故郷の町ほど不便ではなく、どのような方法でも身動きはしやすい、そんな心地良さがあります。なんだかんだで、この町は住みやすいです。

なんて。そんなふうにして、「出身がどうたらこうたら」というコンプレックスを強制的に抑えつけているわけなんですが。とにかく、いわゆるカッコイイ(※独断と偏見に満ちた基準ですが…)都道府県出身の人には、一生勝てそうにないなぁと思うのです。

「出身?京都なんです」
言ってみたいわ〜。。

<役に立たない勉強をしたい、楽しいやつを。>

役に立たない勉強をしたい、楽しいやつを。
ー2023/01/25


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ここ最近ずっと頭の中にあるテーマです。勉強がしたいのです。

でも、勉強というと、どうにも仕事が関係するものになってしまいそうで。それだとダメなんです。

業務上で使う知識の習得は大事ですが、ここでのポイントは「とにかく役に立たないこと」をしたいのです。実際、暇を見つけてチョコチョコ好きなもの探したり、色んなジャンルの本を読んだりしていますが、どうにも「役に立ちそうな」側面を見つけようとしてしまいます。それではダメ。「いつか役に立ちそう」と一瞬でも思ってしまうのもダメです。

そうではなくて、純粋に、ただただ没頭できるような勉強がしたいと思っています。やっていて楽しいもの。学んでいてワクワクするもの。全く仕事に関係がない、将来にも役に立たない、そういった一見「無駄」なインプットをしたくてたまらなくなるのです。

大学時代とか社会人なりたての頃とか、よく分からんような知識を得ようと勉強して、未来にどう繋がるのか分からないけれど、とにかく暗闇の中をひたすらランナーズハイで進むあの感じ。だって行く先が見えないですから。手あたり次第、興味本位で求めて、目の前のものを取り込んでいくようなあの行為。楽しかったなあ、面白かったなあと思って。またそういうのをやりたいのです。

しかし難しいのが、今となっては、あの頃と同じようにチャレンジしようとすると、やはり「面白いなぁ」という要素は、どこかで仕事にも結び付くようなものだったりするのです。それが難しい。結局、仕事は嫌いではないので、仕事で使う知識も興味深くなってしまって、つい、その方向に進んで行ってしまうんですよね。それだと、違うのです。求める「ワクワクさ」でとは違うように思うのです。

そう考えると、そもそも「勉強」という考え方自体が、ダメなのかも、という気もしてきます。「勉強」とか「学習」といったキッチリとした目的があって主体的に取り組むものではなく、「体験」とか「参加」とか「挑戦」といった、ひょっとしたら受け身であったりして、未知のものに対して広く触れるといったようなアプローチのほうが良いのかな・・とか。

そんなふうにして、もう少し考えを深めていきたいなぁと思っていたところで、なかなか仕事面でタスクが増えてきてしまって時間的余裕が無くなり、この記事はずうっと塩漬けになってしまいました。

<話を聞いて考えてくれる人が居ることのありがたさの話>

話を聞いて考えてくれる人が居ることのありがたさの話
ー2023/01/20


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これを書いた時には、相続で頭を悩ませていました。

その時、そういう悩みなどの漠然とした思いだったり、はたまた、具体的・現実的な解決策の案だったり、を妻に聞いてもらっていたのですが。いつでも真剣に聞いてくれる彼女のことを本当にありがたく感じたので、そういった内容の記事を書こうと思っていました。

けれど、あまりにべた褒めしてしまいそうで、ノロケというか、あんまり人様に公開できるような内容ではなくなりそうだったので、「どうやって書こうか・・」と思いながら、ずっと放置してしまいました。

これについては、多分、わざわざ下書きに残しておかずとも、またどこかで家族への感謝という形で書きたくなってしまうと思います。

<リセットは、本当に最初からということで何も持たないこと>

リセットは、本当に最初から、ということで何も持たないこと
ー2023/01/18


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これも相続の際に、考えていたこと。

相続するということは、単に名義を変えるだけではなくって、土地や実家を引き継ぐのであれば、今の生活をガラッと変えなければならないということを意味すると思っています。

なので、それが果たしてどうなるのか、今現在の生活の中に含んでいるあらゆる要素がどう形を変えていくのかを一つ一つ検討していたのですが、あまりに変化がありすぎて、それってもはや「リセット」と同じレベルだよな、と感じたのです。

よく「リセット」と言うと、いとも簡単にできるような風潮もあったりするのかもしれませんが、本当の意味で「リセット」するということは、一からではなくてゼロからなんじゃないのかなと。セーブポイントなんて存在しないわけで。リセットボタンを押した瞬間、ゲームは最初から、本当に最初のステージからスタートするもので。言ってしまえば、それはセーブデータ全消しに近いもののような気もします。

いざ相続して家を引き継ぐということは、仕事も子育て環境も、今の生活を全てナシにして、全く別の環境に移る、と。そういうことになると思うのです。もちろん、やり方次第で色々方法はあると思いますが、あまりにその「相続」=「リセット」ぶりに動揺して、かなり慎重になる感じでした。

独身であれば果断は可能なのかもしれませんが、家族が居て、子供が居て、その人たちの将来を考えたら、私一人の決定で、簡単に「リセット」なんてできない、そう思いました。

これは、もう少し考えを深めたかったところですが、そんな矢先に相続について親族で話し合う機会が持てて、存外スムースに事が進みました。幸いにも今回の相続は一つ方向性が見えて、悪く言えば問題は少しの間、先送りになって、ちょっと考えるチャンスを逸してしまった形です。

でもこの問題は、いずれまた再燃はします。必ず。もしかしたらその時、またこの「リセット」については考えるかも・・なんて思ったりしました。

<切り拓くことの話。>

切り拓くことの話。
ー2023/01/18


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これも相続関係で思い悩んで書いた内容だったのですが、こちらは、ほとんど記事として書きたいことは書き終えて、完成はしていたにもかかわらず、公開直前で、投稿するのをやめたものです。

理由は、あまりに感情に任せて書いてしまって、自分を追い込みすぎていた気がしたためです。それに、あまりに相続の内容も具に書きすぎてしまって、少し内情が露わになりすぎていたかなと。

上の「リセット」の話のコメントにも書いたのですが、生活全般を一新することで、また最初から、一つ一つ道を作っていかないといけないよなぁという思いがしており、そのことについて考えていました。もし本当に相続をして、家も引き継いで、生活も変えていくのであれば、文字通り、それは道を「切り拓いて」いくものだなと。

これも「リセット」のコメントでも書きましたが、塩漬けのまま、現時点では一旦問題は完了扱い。早晩、このテーマについては書くと思いますが。

<マンネリを感じたら→過去仮定をしてみる>

マンネリを感じたら→過去仮定をしてみる
ー2022/12/28


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すごく適当なタイトルになってます。すみません。

なんか仕事めんどくさいなぁ、とか、上手くいかないなぁ、とか思った際には、もしかしたら「あの時ああしていたら、今はどうなっていたんだろうな」と想像してみたら、今の大切さが分かるのかな、と思って書いてみました。

過去仮定と書きましたが、英語で言うところの「仮定法過去」と言いますか。いや、「仮定法過去完了」ですかね。ごめんなさい、頭が悪いのでその辺り間違っている可能性はあります。

恐らく人生の中であまたある選択肢を一つに絞って決めて進んできて、そうした結果、今があると思うのですけれど、その尊さを不意に忘れてしまうこともあると思うんです。

そんな時には、決して「後悔」といった意味合いではなく、「あー、俺あの時ああしていたら(あのままだったら)、一体今どうなっていたんだろう」と具体的にに考えてみたら面白いかなと。「世界線」という言葉が最近はやっているように思いますが、まさに、過去あの時点でああいう選択をとっていたなら、今はどうなっていたんだろうと。どういう「世界線」があったのだろうと(使い方があっているか自信がない・・)。

そうすることで、「ああ、ああしておいて良かった」という思いになれれば、少し前向きになるような気がしました。今が燻っているように感じたとしても、「いやいや、曲がりなりにも頑張ってようやく今こうしているんだろう」と。だから胸張って先に進めばいいんじゃないのと。尊い「今」という時間を生きる自分に向けてエールを送るつもりでいました。

ただ、マンネリを感じる暇がここ最近無くなってしまって、それで塩漬け状態になっていました。

<東京生活での子育て、について考えてみる>

東京生活での子育て、について考えてみる
ー2022/12/11


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義実家で思ったことを書くつもりでした。

妻の実家が東京なのですが、2~3か月に一度くらいのペースで、子供を連れてお邪魔させてもらっています。その時、泊まらせてもらうのですが、まさにその瞬間だけは「東京での生活」を実感するんですよね。

上の「京都出身」の話のコメントにも書いたのですが、私は地方の何も無い田舎町出身ということを、かなりコンプレックスに思っていまして、ことあるごとに「町」について考えてしまうのです。

大学進学を機に田舎を出て、色々な町に住んでみましたが、やはり町それぞれに良さと言いますか、趣があるんですよね。ただ、それは客観的な視点であって、あくまで「生活」という意味で主観的な視点では、どうなるんだろうというところに興味があったりします。「終の棲家」的な。いえ、そうでなくとも、子育てするにあたって、「どういう環境で子どもを過ごさせてあげたらいいだろう」という思いもあります。

それを、義実家で過ごすことで、あたかも疑似的に体験をさせてもらっている感じがあるのです。

その時は、色々なイベントと言いますか、町に触れ、そういう「体験」を通して色々と思うことはあるんですけど、どうしても、義実家に居るときに、一人でポチポチとスマホで記事を書くということもできなくて。そうしているうちに日常に戻って行って、なかなか記憶が薄れていってそのままになってしまっていました。

もしかしたら、もう少しインパクトのある出来事が重なれば、もしかしたら一気に思考を深められるような気がします。ただ、現状では、その「体験」レベルに過ぎないので、記事の続きが書けないのです。

<所有権は、「安心」から来るためのものだと思う>

所有権は、「安心」から来るためのものだと思う
ー2022/12/03

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これは、当時フォローさせていただいている方が「所有権」について書かれている記事を読んで、自分なりに考えてみたものでした。

そもそも「所有」ってどういうことなんだろう、なぜそのような行為が生まれたんだろう、そういったところから考えを深めていこうと思っていました。パッと思いつくことで言えば「安心」かな、と思ったのですけれど、考えを深めることはまだしていなくて。起源を辿るという意味でも、法律的な観点も調べてみたりしたいなぁとか思っていました。

また、最近気になっているプログラミング言語で、Rust、というものがあるのですが、その言語仕様の中に「所有権」という考え方があるんですよね。その辺も絡ませて書いていきたかったのですが、どうにも調べたりする時間が取れず、どんどん時間が経ってしまって、ほったらかしになってしまっていました。

あわよくば「おお、所有する、ってこういうことなんだなあ」という共通原理みたいなものを自分の中で捉えてみたいと思っていたんですけど、今となってはちょっとそのパッションを持ち続ける気力が無いと言いますか、アイデア出しした当時のパッションが薄れている感じがして、それで放置です。

いつか、これは書きたいなぁと思っています。

<パスワードの管理の不安さ、そこはかとないもの>

パスワードの管理の不安さ、そこはかとないもの
ー2022/12/03


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パスワードの管理ってめんどくせえよなぁ、と言われがちですけど、私はあまり気にならないんですよね。

ただ、そうは言っても、その「パスワード」って今は記憶の中とか、厳重に守っているメモの中とか、そういう「箱」の中にありますけど、その「箱」そのものが壊れてしまったり、そのカギを無くしてしまったら、どうしたらいいんだろうなぁ、と思って下書きに残していたのだと思います。

そう考えると、パスワードって、なんて脆い状況で管理されているんだろうな、って。パスワードそのものが要らなくなるような運用も始まっているようですけど、でも結局は別の手段で、認証をするんだと思うんです。情報を秘めたり、その情報にアクセスするためには、やっぱり認証するという行為が必要で。

だったら、一体、本当に大事なものって何だろうなぁ、「情報」なのかなぁ、とか、そんなことを考えていました。でも「情報」って何だろう、目には見えないけれど、それによって人が傷つくことになったり最悪の場合には命の危険にも晒しかねない。その一方で、誰かを助けたり、得をさせたり、そういう「情報」もあったりするわけで。そうすると、やはり「情報」なんてよく分からないけれど、それもすごく脆いものだよなと。

これもある程度考えてみたものの「これだ!」という着地点が見つからずに、塩漬けでそのままでした。

<好き勝手言うひと、ズケズケ物を言えることの価値?>

好き勝手言うひと、ズケズケ物を言えることの価値?
ー2022/12/01


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これは、仕事をしている際に、とある不手際があったんですよね。私がやったわけではないんですけど、部署として。それに対して、「モノ言う」じゃないですけど、バシバシ意見する人が居たんですね。

実際、彼の言葉がすごく正論で「はあ、その通りでございます」ということは間違いないんですけど、でも、その彼も、我々と同じ部署なんですよ。そういう、意見としては分かるんだけど、自分も何かすべきことはあるんじゃないの?言うだけ言ってそれで満足ってどうなの?というモヤモヤが出てきたので、いったん下書きに残したものです。

そもそも、歯に衣着せぬ物言いができることって、なんだか今の世の中すごく重宝されたり、評価されているように思うけれど、それだけだと何だかなぁ、と思ってしまうんですよね。言うだけなら誰でも言えるというか・・

もちろん、人それぞれ考え方はあるでしょうが、少なくとも、私は「言う」だけでなく「行動する」もセットにしてほしいなぁなんて思ってしまうわけです。あんまり考えを深める機会が無かったと言いますか、日が経つにつれて「まぁ、それも別にわざわざ言わなくていいかなぁ」と熱が冷めてきて、そのままになっていました。

<従兄弟の話、今と昔を比べて。>

従兄弟の話、今と昔を比べて。
ー2022/09/21


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私には、同い年の従兄弟が居まして。通っていた学校は違っていたのですが、住んでいた家もそこまで遠く離れていたわけでもなかったですし、親戚ということで小さい頃から交流はあったんですよね。

友達と言えるほど仲よく遊んだりすることはあまり無かったのですが、大学時代は、チョコチョコ会ってご飯食べたりカラオケに行ったりしていました。

ただ、お互い社会人になって、それから結婚もして子供も生まれて、といったようにライフスタイルも変わっていくと、なかなか会う機会もなくなって、たまにある親戚の法事とかそういった場所くらいでしか会わなくなっていきました。

その彼が今、仕事で結構疲れている、ということを母伝いに聞いていて、久々に彼から話を聞きたいなと思ったんですよね。向こうはどうなのか分かりませんけれど、私は何人か居る親戚の中でも、勝手に彼に対してシンパシーと言いますか、親近感を抱いているのです。同い年の親戚って、彼以外には居ないというのもあるのかもしれません。

なので、今度、また別の従兄弟の結婚式があるからそこで話をしたいなぁ、なんて思っていましたけど、それも叶わず。軽く会話はしたんですけど、あまり混み入った話はできなかったんですよね。

そういえば、幼い頃はどうだったろう、大学時代は、そして今は・・と思いを巡らせて、色々考えを綴りたいなと思っていました。

実際、今でこそ私は彼のことを好意的に見ているのですが、もしかしたら心を深堀してみると、実際はそうでもないのかなとか思ったり。いえ、嫌いというわけではないのですが。

と言うのは、もしかしたら私は彼に対して劣等感を持っているのかな、と思ったりするんですよね。同い年で、小さい頃から一緒に扱われたり比べられたり。それで進路は全く別々なところへ進んだものの、やっぱり個人的には「彼はどう過ごしているか」が気になってしまうんです。言わば、彼を知ることは、なんとなく私の内面も見つめる機会にもなるような気がしています。その点も、深く考えて書いてみたいなと思っていました。

ただ、なかなかその機会が持てず。日常に忙殺されて落ち着いて考えることがなかなか難しい感じで、記事の完成まではいけませんでしたね。この先、何処かでまた彼と会話をする機会でもあれば、書きたいと思っています。

<引き寄せの法則と悲愴な日々の話>

引き寄せの法則と悲愴な日々の話
ー2022/08/21

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これが最も古い下書きですね。

こちらは、まだ祖父が健在だった頃、子供たちを連れて、実家に帰省してきた時のことです。まあ健在とはいえ、祖父もかなり高齢でしたし、意識もボーッとしていることも多かったんですね。それに対して、祖母は頭もはっきりしているし、何より気が強くて。そんな祖父の姿を見ては、愚痴と言いますか、強い口調で注意みたいなことをよく言っていたんです。

それを見ていると、「引き寄せの法則」のようなものが頭に浮かんだのでした。

祖母は、きちんとしていて、しっかりしています。ですが、厳しいです。その厳しさゆえに、もしかしたら孤独を「引き寄せ」ている面があるのではないかな、と感じているのです。「自業自得」とまでは言いませんが・・

当時はまだ相続とか、家をどうするとか、そういう話をしていなかったのですが、本来ならきちんとそういう話をすべきだったのです。私も、母も、祖父母も。でもそうしなかった。そうしないまま、祖父が他界しました。本当なら、父が元気なうちに、どうすべきか決めておかなければならなかった。全てを、父の人生に頼りきりにしてしまった結果がこれなのです。それは私も反省すべきだと思いました。

全部、自分が招いたこと。

そんなふうにしてすべて背負い込んで解決するはずもないです。

ですが、そういう、自分の物の考え方とか、振る舞いとか、他人に接する態度とか、そういった目の前のあらゆることに向き合う姿勢が、自分の未来を決めていく。それは真理なんだと思うのです。だから、全部、自分が招いた事実を、一旦は受け入れないといけない。それができない、していないにも関わらず、勝手に惨めな思いをして、全て自分以外のことにその原因を求めるなんて、やはり間違っていると思います。悲劇のヒロインを気取っても、仕方がありません。

ものすごく厳しい言い方になってしまいましたが、祖母を見ていると、そんなふうに思えてしまうのです。あまり書くと、私まで辛くなるのでこれ以上は書きませんが、やはり、人は引き寄せているんだと思います。

まだ間に合う。そう考えています。まだ、実家のことやら何やらを片付けるには遅くないと、そう思っています。どうせ引き寄せるのなら、ポジティブなことを招く方が良いだろうと。口で言うのは簡単ですけど、やっぱり未来は捨てたくないですから。まだ。かなり道は険しいですけど、やっていくしかないかなぁと。なかなか抽象的な話になってしまいましたが。

そんな悲愴感たっぷりのことを考えていたら、どうにもゴールが見えにくくなってしまって、下書きのままになっていました。

総括

全ての下書きに対して、当時を思い出してツッコミ入れてみました。

本当に長かったです。これは一気にやりすぎましたね。これを定期的にやるなら、4~5本が関の山ですね。体力的にも、時間的にも、そして何より精神的にも、なかなかキツイものがあります。

また塩漬けの下書きが溜まったら、やってみようと思います。・・いやー、だけど、理想はやっぱり下書きはきちんと完成させたいですけどね。

というわけで、下書きはこれにて消化です。全部消します。おしまい。

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