見出し画像

ことばの質量

2020年に入ってから、「ことば」の危うさについて考えることが増えた。

某大統領の「アメリカファースト」を(たぶん)発端とし、某都知事候補が「都民ファースト」と謳い当選。キャッチーなフレーズやコピー、造語が、認知度と支持率を上げている。

要は、ウケの良いことば選びがうまいだけで、大衆はことばの短絡的な意味の上で踊っている。

遡ると2011年東北大震災以降、専門家の発する、事実を正確に表すようなことばが、大衆から拒絶されてきたような所感がある。COVID-19に関する初期の説明においても、同様な温度感が感じられていたことは否めないだろう。

それが「クラスター」「緊急事態宣言」「東京アラート」などと表されると、どうだろう。それらはたちまち人々の意識・関心を掴み(そう仕向けられ)、大衆はことばの表面的な意味のみを咀嚼し従った。ことばの奴隷と化した。

ことばのコンテクストや、造語であれば造られた背景を、正確に理解し、考えているひとはどれだけいるのだろう。例えば、「緊急事態宣言」の解除後、東京都内在住で働く身としては、ひとがすぐさま市中に湧いた印象だった。

情報社会に生きる我々は、COVID-19が2週間強の潜伏期間を経て発症する事実を知ることは容易い。よって、感染者が0になり、かつ、2週間強その状態が維持できなければ、事態が収束したと言えないことは明らかだ。つまり、「緊急事態宣言」の解除はコロナの収束を意味しない。

にも関わらず、個人は、法人は、政府は、さも事態が収束したかのように振る舞い、悪戯に人同士の接触機会を増やし、結果また100人を超える感染者を出している。考えれば、思い出せば、簡単に分かることだ。「緊急事態宣言」発令直前はどのような状況だった?

昨今、人々はことばの共有に重きをおき、そのコンテクストの読み取りと、そこから発する思考を疎かにしがちだと思う。視覚的表現の表面的な共有が、SNSにより活発化・重要視されているからだろう(たぶん)。

◯◯ファーストとか◯◯ドリブンとか謳うのは、その短絡的な、印象ありきのことばだけで人を惹きつけ、全てを伝える労力を惜しんでいるだけ。

Black Lives MatterをAll Lives Matterで返すのは、ことばの表面的な意味しか受け取れず、その表面で揚げ足をとっているだけ。

自分はというと、ことばの外における表現の可能性をたくさん見てきたし、そこに重きを置いてきたせいでことばを疎かにしがちな面があったと思う。反省はしている。が、発することばは少なくとも、ことばを大切にし、ことばから想像を広げられるよう努力をしていた自負はある。

周りにもたくさんの表現者達がいて、その中にはもちろん「ことば」を扱うひともたくさんいる。そして彼、彼女らには少なからずとも影響力がある。

そんな人たちにこそ、質量を下げず、そして頻度高く、「ことば」を発し続けて欲しいと、無責任ながらも切に願い続けている。