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春が来た

スポーツ用品店で働いていたが、冬が過ぎ春になった。
それまでに専門学校入学手続きも済ませ、4月から再び学校に通う事に。
お金の心配は無い。卒業までの費用は全て稼いであるからだ。
そしてスポーツ用品店で働く契約は3月15日まで。
ここで終る予定だったが、
『もう少し働かない?』
と社員さんから声掛けをされた。
このスポーツ用品店は、冬シーズンから春へ売り場の模様替えなどもする。
それまでどう?という話だった。普通に客も来るし。
専門学校へ行くことを知っていらしたので、それまでで良ければ・・・
という事で結局4月上旬まで同じ職場で、準社員→アルバイトとして働いた。
派遣会社に籍を置く形ではなく、直接雇用。
アルバイト賃金も、ご配慮いただきとてもありがたかった。
冬場繁忙期の忙しさは無く、とても楽しい時間を過ごせたのが想い出。

春のイメージ
本文とは関係ありません

そして4月に再び専門学校へ
実はここで妻と知り合う。
2年制の学校だったが、初めの1年目は多少話をする程度。
1年目の9月からビル管理人のバイトをする事となった。

あくまでイメージです

この仕事は、夕方から翌朝までの泊まり込みの仕事。
警備ではなく、管理人でありビル内テナントの鍵の受け渡し。
夜間人の出入りをnoteに記帳するなどのもの。
テナントさんが早く帰れば、23:00には就寝可能。風呂もある。
手が空いている時には、レポートも書けるという事で始めた。
週3勤で、仕事が終わると学校にそのまま行くという生活。
月に12~13万円いただいていた。
卒業近くまでこのバイトを続けるつもりだった事もあり、
当時の妻と付き合うイメージが全く無かった。
それが2年生の夏ごろ、距離感が急に近くなりお付き合いする事になる。
(妻が近づいてきたと話をしても、なかなか信じてもらえない)
バイトの事も知っていたので、学校帰りにお茶したり甘味屋いく程度。
学校夏休みのバイト休日に初めて遊びに行ったのが、某動物園。

実際に行った場所

なんで動物園にしたのか?
正直覚えていない。
8月15日という事もあり、とても暑かったのだけは覚えている。
金銭的問題が無く、大学へ進学出来ていたら妻と出逢う事は無かった。
人生の半分以上の時間を妻と過ごしているワシ。
人生とはどう転ぶかわからないものである。

そして、マジメに2年間勉強して就職することになるのだが、
当時の花形産業でもあった業界に就職することになった。

これが何かわかる方は、どんな業界かわかると思います。

専門学校卒で、設計の仕事に就くことに。
当初は、製品製造メーカに就業希望がありました。
お店などで、自分の会社の製品が目に見えるというのが嬉しいだろう
という想いがあったからです。
ところが、学校の先生からの紹介という事もあり、
部品メーカーの面接を受ける事になりました。
急な話で学校の午後の授業を休んで、しかも私服で・笑
学校に行っていた恰好で、筆記試験と面接をしました。
他に2人が面接・筆記試験受けていましたが、2人ともスーツ。
ワシだけ、超ラフな私服。筆記は簡単だった。
試験が終わり学校に戻って先生に試験具合を報告中に、
”採用”の連絡が来た。
就職活動というもの、殆どせずに進路が決まったのである。
今までの数年は何だったんだろう?という想いが少しあったが、
嬉しかったのは覚えている。
両親が喜んでくれたのがとても嬉しかった。
この頃は、バブル時代最中で売り手市場という事もあったと思う。

株価最高は1989年12月29日の38,915円87銭(終値)
取引ベースでは38,957円44銭。

ちなみに専門学校在籍中も、適当に遊びもしていた。
ボーリングや麻雀もした。
パチンコ少しやったりしていた。大きく勝つという事はなく、
バイトあったし、ヒマな時間に少しだけ。
パチンコの利益で、シャープの書院というワープロを買った。
レポートも手書きから、ワープロタイプに変えた。

今ではワープロは死語
ワープロ検定なるものもあった
個人でPC所有の人などほぼ居ない時代
学校でPCは操作してはいたけど

麻雀は、正直相手にならない状態だったので、完全なエンジョイ麻雀。
新宿のお店には、この期間も行かなかった。
そして、専門学校を卒業して就職。
”仕事は甘いものじゃない”というのを痛感する事になるのである。

ぷくぷく





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