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苦悩は人を気高くしない

いまどき、サマセット・モーム、といっても流行らないのでしょうか。

先日、サマセット・モームの『月と六ペンス』についての話を、年下(20代半ば)の友人にしようとしたところ、そもそも著者の名前も、作品の名も知らなくて驚きました。時代が変わって、今は「必読図書リスト(?)」に入っていないんでしょうか。昔は「新潮の100冊」の定番であったようにも記憶しているのですが、、

彼はフランソワーズ・サガンの名前も、代表作『悲しみよこんにちは』も知りませんでした。広範な知識を持つ、頭の良い人物であるのにと不思議に思い、いろいろ聞いてみると、以前は暗黙のお約束としてこれは読んでおくべし、といったイメージのあった「(いわゆる名作といわれる)小説」自体ほとんど読んでこなかったみたいなんですね。そういう雰囲気自体もなかったと。

たまたま彼と彼の周りの人だけの話なのかもしれませんし、良い悪いの話でもまったくないのですが、自分の中・高時代の頃を振り返ってみると、時代は様変わりしたようにも思われ、なんだかいろんなことを考えてしまいました。


ところで、話は大きく変わるのですが、今日はそんなサマセット・モームの『サミング・アップ』を読んで、印象に残ったところと、それを受けて考えたことをご紹介いたします。

その当時(大部分の人にとっては、平和は確実、繁栄も保証付きという充分に安楽な時期)、苦悩の道徳的な価値をくどくどと説く作家の一派が存在し、苦悩は有益だと主張した。
苦悩は同情心を増し、感受性を高めると主張した。心に新たな美の通路を開き、神の神秘的な王国と接触せしめると主張した。苦悩は性格を強め、人間的な粗雑さを純化し、それを避けるのではなく、希求する者に更なる幸福をもたらすと主張した。
このような主張に沿った何冊かの書物が大成功を収め、その著者は快適な家に住み、日に三度の食事を摂り、健康そのものであり、苦悩とは無関係であったのだが、大層な評価を得た。

※ウケる話ですが、現代においても同様のことはありそうです(↑)


私自身は実際にこの目で見たことをノートに書きつけていた。それも一度や二度でなく、十度くらい書いた。私は苦悩が人を気高くなどしないことをはっきり知った。
苦悩は人を我儘にし、卑劣にし、ケチにし、疑い深くする。些細なことに拘るようにさせる。苦悩は人を本来の性質より良くはしない。悪くさせるのだ。


この一節に触れて自問自答してみたのですが、私(鮒谷)もまた、苦悩することによって人が気高くなれる、とは、どうしても思えませんでした。


世の中において(あまり表には出ないけれども)日常的に起きている生々しい現実を速習しようと思ったら『ナニワ金融道』やら『ミナミの帝王』やら『闇金ウシジマくん』やらなにやらを、大人買いして一気読みせよ、というのが私のかねてよりの考え。

こうした本を読み、さらに、実地に人生経験を重ねていくうちに「世の中は苦悩(と邪悪)が満ち満ちている場所」であることが分かってきます。

「人間到る処、青山あり」ならぬ「人間到る処、落とし穴あり」で、上り坂、下り坂はもとより「まさかの坂」もあらゆるところにあって、どれだけ調子よく生きていても、次の瞬間に落とし穴にズボッとはまり込む、といったことが珍しくないことも理解できるようにもなるでしょう。


さらに、苦悩は往々にして、善良な人を賊心を持つ存在にさせる、そんな現実も認められるようになる。たとえば相続に絡んで、それまで良好であった親族間で発生する醜悪な人間関係など、カネがないことによる苦悩がさらなる苦悩を巻き起こす、ことなども、まったくもって珍しいことではありませんが、そも、世の中とはそういうところである、人間とはそういう者である、と達観するようにもなりました。

そんな背景もあって、自らがそうした環境に身を置いたときにどうなってしまうか分からない(はなはだ心配)だからこそ、やっぱり私は「避け得る苦悩は出来る限り避けて、通り過ぎるべき」と考えるようになりました。わざわざ自ら苦悩の世界を賛美する必要などどこにもありません。


そもそも、このブログのタイトルは「比喩と意思決定基準と私」というものですが、ここでいう「意思決定基準」とは、また機会を改めて詳述するつもりですが、端的に言えば「未来の苦悩を避けるために、様々なシチュエーションごとの、明確な意思決定基準を事前に定めておく」そのための記録帳のようなものとして活用する、という意味合いでつけたもの。

もとより30年前から続けている日記も、17年前から配信してきたメルマガも、同様の目的で続けてきたものです。

どれだけ気をつけていたところで、人生の落とし穴にはまってしまったときには、そこはそれ、仕方ありませんが、なにも「苦悩を歓迎する」という姿勢でなくてもいいでしょう。そして回避しようとするならば、回避することができる苦しみも現実に存在するわけです。


たとえば、人間関係の苦悩を避けたいのならカーネギーの『人を動かす』を一度、ニ度ではなく、時間をおいて(精読でなくてもいいので)十回くらい繰り返して読めばいいでしょう。

いくらなんでも十回も読めば、人間関係で苦しんでいる人がなぜ自分が苦しんでいるのか、嫌でも分かるでしょう。ならば、まずいところは改めようともするはずです(私はそうでした)。

ほとんどの場合、相手が悪いんじゃなく、自分が悪いのです。好かれる人はどこにいっても好かれるし、嫌われる人はどこにいっても嫌われる。


あるいは、お金に困っているのなら、お金を稼ぐための然るべき本を読めばいいのです。あるいは然るべき人に話を聴きにいけばいいのです。

リーダーシップを発揮できていないと思うなら、リーダーシップ醸成を促す本を読めばいいのです。然るべき人に話を聴けばいいのです。

時間管理に難があると思うのなら、タイムマネジメントについて記された本を読めばいいのです。然るべき人に話を聴けばいいのです。

健康が失われて苦悩するのが嫌ならば、何をどのようにして備えるか、然るべき本を読めばいいのです。然るべき人に聴けばいいのです。

その上で、防げないこともあるでしょうけれども、やることやってなくて、こんなことになってしまった、と嘆くのは自業自得。


、、、と、他人はともかく、少なくとも私(鮒谷)は自分自身のことについてはそのように考えているから、日々、自分なりに節制しているし、予防もしています。

こうした備えをした上であれば、何か起こっても諦めがつく、とまではいいませんが、未来に起こるかもしれない苦悩や苦痛や後悔は多少なりとも軽減されるのではないか、くらいには考えています。


サマセット・モームが

私は苦悩が人を気高くなどしないことをはっきり知った。苦悩は人を我儘にし、卑劣にし、ケチにし、疑い深くする。些細なことに拘るようにさせる。苦悩は人を本来の性質より良くはしない。悪くさせるのだ。

と書いてみたり、また別のところでは

苦悩の結果、人は自己本位になり、自分の肉体や身の回りのことがむやみに重大に見えてくる。気難しくなり、愚痴っぽくなる。些細なことを重視する。私自身も、貧乏、失恋の悩み、幻滅、失望、芽が出ないことへの恨み、自由の不足、等々の苦悩をなめたが、そのために嫉妬深く、無慈悲に、短気に、わがままになり、片意地になったのは否定できない。これに反して、羽振りのよさ、成功と幸福は私をよほどましな人間にしてくれた。


と記してもいる、現実がもしその通りだと信じるのなら、出来る限り、将来の苦しみを未然に防ぎ、かつ、その上で、理想の未来を実現するための、学習なり備えなりの努力が必要なのではないか、と考えています。 

そのための材料は、今の時代、手を伸ばせば届くところにいくらでもあるわけです。それを手に取らないとすれば、それは単なる怠惰に過ぎない、と私は自分自身に対して、そのようにいい聞かせています。


その上でなお、不測の事態が起きて、苦しみの世界にどっぷりはまり込むことになったら、そのとき初めて「高性能の状況解釈装置」を発動させるべし、という「二段構えの備え」を取りたいと考えているのです。

「高性能の状況解釈装置」とは、どんな不遇な状況に置かれてもその状況を自分にとってプラスになるように解釈するための心的態度(あるいは心的習慣)、です。

小公女におけるセーラのような、あるいは、ポリアンナ物語におけるポリアンナのような心の姿勢、というと、より分かりやすくなるかもしれませんね。


こちらについても、まだまだ記したいことがあるので稿を改めて記述するつもりですが、まずは不幸を未然に防ぐために万全の準備を行う。次に、万一、訪れてしまった不遇には、予め強化しておいた状況解釈力を発動して、ダメージを最小限度に食い止める。

こうした二段構えの備えによって、出来る限り「苦悩から逃れられる生活」の実現を心掛けてみてはどうでしょう。もちろん食い止められぬダメージが存在することは否定いたしません。

とはいえ、苦しみの原因の少なからぬものは、事前の準備によって回避、あるいは軽減できるようになると考えています。


いうまでもありませんが、人間に、老いと病、そして最終的には死がある限り、最終的には、完全に苦悩から逃れることはできないのかもしれません。そこにおいて、自分なりの思想なり、哲学なりが必要になってくるのでしょうが、それはまた別の話。

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