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「処刑されなかったマリー・アントワネット」 はじめに

 私はマリー・アントワネット。といっても、私の本名はマリー・アントワネットではないし、オーストリアのハプスブルク家出身でもない。もちろん、母親はマリア・テレジア女帝ではないし、私はロココ時代のフランス王妃でもなく、夫はルイ16世でもない。でも、私は紛れもなく、マリー・アントワネットなのだ。ふざけるな、言ってることが矛盾してるじゃないか、とお思いになるだろう。まずは、イライラせず、すぐ否定せず、私の話を聞いてほしい。説明させてほしい。私はマリー・アントワネットの生まれ変わりだとか、前世でギロチン台で処刑された記憶があるだとか、そんなファンタジックな言い訳をするつもりはない。私はただ、現代日本に生まれ、日本で育って、そして今も日本で生活をしているただの1人の女性である。そんなごく普通の私がなぜ、いきなりかの有名なフランス王妃にこだわるのか、説明させて欲しい。

 まず、私が尊敬し、親しく思っている人物は、マリー・アントワネット、母親、父親、の3人である。ここに私のごくわずかながらの数しかいない、大切な友人たちを数名付け加えたいところだが、その友人たちのことは後ほど語るとしよう。マリー・アントワネットは、オーストリアとフランスの友好関係のために、ブルボン朝が絶対的な権力を握って支配していたフランスの王子、ルイ16世と政略結婚をした。彼女はオーストリアを離れ、わずか10代の少女でありながら、ヨーロッパの平和を保つ重役を担わされフランスに嫁いできた。彼女がオーストリアとフランスの友好関係のためにするべきこととして最も望まれていたのは、ルイ16世との間に子供をもうけることだった。しかし、ルイ16世と正式に夫婦になり、ヴェルサイユ宮殿で暮らし始めてから彼女には長らく子供はできなかった。彼女は、自分の母親からひどく注意され、また、宮廷中から白い目で見られた。彼女にとって、それはとんでもないプレッシャーだった。

 私は、マリー・アントワネットの映画で、彼女が子供ができなくて悩み、苦しみ、時には急に感情を我慢できなくなり、メイドを押しのけながら自室にこもり、泣き叫んでいるシーンをよく覚えている。彼女には、姉妹が沢山いたが、姉妹たちが次々に子供をもうけ、見事にそのハプスブルク家の娘としての役割を果たし、さらに、ルイ16世の弟の子供が先に産まれ、彼女は自分の立場がどんどんなくなってくのを感じていた。私は、映画のシーンで、彼女が泣き叫んでいる時、私も同じように涙した。私も、少女時代、周囲からの重圧に押し潰されそうになり、自室にこもり、泣き叫んでいた記憶がある。彼女に心から共感し、自分の過去の苦しみと彼女の苦しみを重ね合わせ、同じく涙を流さずにはいられなかった。

 結局のところ、彼女はついに、男児、女児、両方の子供に恵まれ、束の間の幸せを手にする。しかし、フランス革命により、貧しい民衆からの怒りを買い、処刑されたのだった。彼女は浪費家で、わがままな王妃だというイメージを現代も、多くの人が持っている。しかし、私は彼女を王妃というより、1人の女性として見た時、決して悪いイメージは持たない。それも、後ほど説明しよう。あくまでこれは、序章なので、あまり長くなりすぎるのもよくない。

 私も、周囲の怒りによって、命を落としかけた。けれど、私はそこから生き残った。私は、マリー・アントワネットが、処刑される直前まで、堂々としていたことを尊敬している。私は命を落としかけた時、泣き叫んでいた。だから、私は彼女に共感する部分が沢山あるし、共通するところも沢山あると思っているが、彼女の方がずっと立派だ。ここで「立派だ」と言っているのは、彼女は王妃だが、私は一般人である、という意味ではなく、1人の女性として、私は彼女を尊敬し、立派だと言っている。

 私は彼女と同じように、周囲からの重圧に押しつぶされそうになり、また、同じように、周囲の怒りによって、命を落としかけた。いや、マリー・アントワネットは、堂々と処刑され、彼女の人生はそこで終わったが、私はしぶとくまだ生き続けている。私が彼女と違うのは、私は死ななかった、ということ。だから私は、「処刑されなかったマリー・アントワネット」なのだ。

 

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