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プロに打ちのめされた後

ちょっと前の私は調子に乗っていた。それは #また乾杯しよう で短編小説をピックアップしてもらったからかもしれないし、たくさんの個人企画に参加しまくって良さげな反応をもらっていたからかもしれない。

甘かった。

最近、プロ脚本家の川光俊哉さんから、短編小説に講評をもらう機会があった。Twitterで「無料で講評します」というお知らせが流れてきたので飛びつくようにメールを送ったのだ。後日「あなたの記事が話題です」という通知に心躍らせて記事を開いたところ、期待とは反対に、ザックザックと心を刺された。

最近の小説に顕著な
「Twitterマンガ」化がとてもよく分かる。
設定、人物、状況はあるが
ストーリーがない。
関係性そのもの、雰囲気そのものを書こうとしている。
なにも起こらない。
この時間を切りとった理由が分からない。

え?あんなに一生懸命書いたのに、「ストーリーがない」なんて…正直ショックである。

そもそも私は「講評」と「感想」や「アドバイス」をゴッチャにした状態で講評をお願いしてしまっていた。第一段落を読んで読むのをやめようと思ったぐらい、凹んだ。

(詳しくは割愛しますが、「こんなに責められるなんてキツい」と夫氏に愚痴ったら、「お前からお願いしたことだし、作品の評価であってお前のことは何一つ責めてないからよく読め」と言われました。その通りです。)

講評はまだまだ続く。

ライトノベルからハリウッド映画まで
「行って帰る」は物語の基本的な構造で
異世界、宇宙、あるいはこの作品の「うちな〜料理・うふぐすく」であっても
行って帰ってくれば、かならずキャラクターに「変化」(多くの場合は成長)が生じる。
しかし、なにも起きなかった。
「関係性そのもの」は小説の主題にならない。
コンフリクトが生じない関係性は
作品全体の構成に貢献していないため、不要と判断する。

え、そうなの…?「コンフリクトが生じない関係性は作品全体の構成に貢献していないため、不要」なの?コンフリクトって何だっけ?

コンフリクトとは
キャラクター間では
不和、衝突、対立であり
キャラクター内では
(異なる信念、感情、動機の間に生じる)葛藤を意味する。
このコンフリクトを解決した結果としての「変化」を書こうとすべき。

考えたこともなかった…そうなんだ…起承転結があればいいっていうもんじゃないんだ。

いや、もしかして自分が起承転結だと思ってたのが違うってことか。自分的には

起:沖縄旅行に行けずくすぶっている

承:沖縄料理店に行く

転:友人とその妻に出会う

結:最後の一言

のつもりだったんですが、うーん、これじゃダメなんですね…すごくショック。

このコンフリクトを解決した結果としての「変化」を書こうとすべき。
クラシック音楽の「ソナタ形式」と同じ。
「提示部」→「展開部」(コンフリクト)→「再現部」(解決、変化)
「Twitterマンガ」的なこの作品で
小説に似ているところがあるとすれば
「提示部」の役割を果たしていると言える。
まるで長編の冒頭で、つづきがあるように思えてならない。

小説扱いですらない…もうこんな作品を読ませてしまってすみませんとしか表しようがない。

ここからはアドバイス。

あきらかに
緊張要因として導入された「メリーさん」が
「ワカシ」「シュワカ」との三角関係を暗示しているにもかかわらず
なにも起きなかった。
授業でおしえている学生たちもそうだが
現代人は心やさしく、コンフリクトのなかに登場人物を置こうとしない。
まずは、作者自身が暗示しているとおりの事件を起こして
「ワカシ」「シュワカ」の関係性をゆさぶればいいと思う。
2人がよりかたい絆でむすばれるようになるのか、結婚が破綻してしまうのか
その「結果としての変化」は作者の好みしだい。
三角関係の構図が明確になれば
それを中心とした全体の構成も見えてきて
おそらく、「メリーさん」との出会いより前は不要になるだろう。

自分としては、書いた当初は沖縄気分を味わえる作品になればいいなと思っていて、三角関係の方が後付けなので、「メリーとの出会い以前は不要」と言われると残念になる。ただ、この作品を小説として価値あるものにしたいなら、という前提があるので、リライトを前提に相談をしたのだから甘んじて受け入れないとな、とは思う。

「旅のようなお出かけ」そのものはテーマにならないが
そのイメージを意識しながら語彙を選んでいるのは分かる。
単に沖縄っぽいものを羅列するだけではなく
色彩、におい、味など
五感を刺激する描写を心がけてみてはどうか。

ああ、それは小説としてのテーマにはならないのか。どっちかというとエッセイ向きのテーマっていうことかな。描写に関してのアドバイスはすごく参考になった。確かに読み返してみると、単語が並んでるだけで、ちょっと想像しにくい。

このような定型句、生硬な会話は
濃艶な沖縄の空気を表現しようとしての工夫かもしれないが
洋画の吹き替えのようでリアリティーがない。
周囲の事物が沖縄の生命を得ることができれば
釣り合うのかもしれない。

ここが精一杯表現を工夫した部分だったけど、それすら裏目に出る。なんか自分にガッカリしたのだった。

***

ちなみにこの他にログライン・プロット大賞という私設賞に3作応募して2作落選しており、主催の横紙やぶりさんからもストーリーの曖昧さは「川光さんの講評と同じこと」と指摘されたので、私の弱みはここなのだと痛感している。

***

ここまでが講評を読んだ率直な感想で、ここからはその先のこと。

今回、講評をお願いして感じたのは、私は楽をしてきたんだな、ということ。

物書きして、小遣い稼ぎができたらいいな、なんて考えは甘々なのだ。

noteを始めた初期、私は尖っていた。ちょっと作文が得意だったくらいで、自分は物書きになれると思ってた。これが読まれないなんて周りの理解が足りない、ぐらいに。

小説おすすめに他の人の記事がピックアップされる度に、「なんでこれが?」ってなったし、「なんで私の記事じゃない?」と嫉妬した。当たり前である。小説にもなってないんだから。

ちょっと色々あって、一旦noteを離れたあとは、個人企画などの参加で他の人との交流を楽しんでいた。それも悪くないけど、ぬるま湯に浸かってたんだな、とも思う。

今、私は悩んでいる。

楽しくラクにnoteを続けるか、本気で物書きを目指すか。

迷う。

迷いすぎて、何回も記事を書く手が止まって、ブラウザバックして、また書いて。

そして今日もまだ結論は出ていない。

でもnoteは辞めないと思う。ここでやめたらせっかくもらった講評が無駄になるし。素人なりに少しずつ勉強して、人に読んでもらえる文章を書けるようになりたい。

***

この記事の文章自体、何回読み返しても納得いかない。ログラインとか3幕構成とか付け焼き刃じゃ全然活かせない。

上手に書けなくて悔しい。


でも、絶望したら、あとは這い上がるだけ。

打ちのめされて良かったのだ、私は。