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034 窓辺で本を-夢十夜-

高校生のころに仲の良かった友人が夢に出てきました。
とても楽しい夢でしたが、目がさめたときに「これはまずい」と思いました。
私は身近な人と夢で会う頻度が高くなればなるほど、その人と疎遠になる傾向があるからです。でも、なにかにつけて気づくのが遅いの私は、はっと思ったときには、すでにその人とは会えなくなっていることがほとんどです。

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「こんな夢を見た」という出だしが有名な夏目漱石の『夢十夜』は、1908年の夏に朝日新聞で連載されていた短編小説です。十編とも題名の通り「夢」を題材にしているので、幻想的で美しく、現実では起こりえないことが描かれた、不思議でちょっと怖い作品集です。

今回はそのうちの第一夜について書きます。

第一夜は、今にも死にそうな女性と主人公との会話から始まり、女性の死後、主人公がその女性と再会するまで百年待ち続けるお話です。

このお話を読んで私が感じたことは、色のあざやかさと煌めきです。
小説なので、基本的には文字だけでお話をつむぎます。そこには、絵の具や色鉛筆で物理的に色づけをすることは(まず)ありません。
このお話ももちろんそうです。
しかし、表現として登場する色がとても美しく際立って見えます。

たとえば「赤」。
女の唇や、女の死後に毎日出てくる赤い日。

たとえば「白」。
女の頬や百合の花。

たとえば「黒」。
女の眼や暁の星が出ている夜空。

そして、その美しい色たちの中にちりばめられた煌めき。
真珠貝や月の光、女の涙。

夢という曖昧な世界を彩っては消えていく色と光たち。
その一瞬一瞬が儚くて、二度と見ることのできない景色(夢)を繰り広げています。

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ところで、主人公は女性に再会できたのでしょうか。

女は死ぬ直前にこう言います。
「死んだら埋めてください。(中略)百年、私の墓の傍に坐って待っていてください。きっと逢いに来ますから」
主人公は、赤い日が昇ったり沈んだりするのを勘定しながら待ちます。
ひたすら待ち続けていると、自分は女に騙されたのではないかと思い始めます。
そのときに真っ白な百合が咲き、遠い空に暁の星が出ているのを見つけます。
そして主人公は「百年はもう来ていたんだな」と思います。

「百合」という字が「百」年と「合う」だから、女は姿を変えて主人公に会いにきた、という説が有力です。
また、最初に出てくる女の「輪郭の柔らかな瓜実顔」や「真白な頬」という描写は、百合を連想させます。

厳密には、女の姿がそこにあるわけではないので、女は逢いに来ていません。
しかし、姿が違っていても、本人が「百年はもう来ていた」と感じているので、主人公は百合、あるいは暁の星を女として見ています。

私は、この場面を夢でありながら現実的であると感じます。
夢は実際には起こり得ないことでも可能にする力があります。
このお話の場合は、簡単に百年が過ぎてしまいますので、時間の感覚は現実世界と異なるようです。しかし、「一度死んだ人は生き返らない」という法則はこの夢の中では適用されています。

これは、時間がどれほど経っても、一度命の働きが止まってしまった人間は、全く同じ状態で戻ってくることはない、ということを主人公は夢を見ながらもどこかでわかっていることになります。

それに気づいたとき、なんてかなしいお話なんだろう、と感じました。


人の姿でなくてもいいから会いたいという思いは、苦しみやかなしみよりも祈りに似ています。

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私も、もう会えない人に夢で逢うことがあります。

その夢を見ているときは、目がさめる前からこれは夢だとすでにわかっています。
それはぞっとするほどさみしいことですが、現実でなくても、人の姿でなくてもその人に会えたということが、記憶となって胸の中できらめきます。

『夢十夜』第一夜の主人公は、目が覚めたときになにを思うのでしょう。
夢に出てきた女は知っているひとでしょうか。
それとも、いつか出会うことになっているひとでしょうか。

どちらにしても、よかったね、と思います。
亡くなったあとに百年待ち続けられるほどのひとに夢で会えてよかったね。


今回も最後まで読んでくださって、ありがとうございました。


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