035 ホット・チョコレート □イラスト通信
秋はしれっとやってきました。
朝起きて窓(なのかドアなのか?ベランダに出るためのガラスがはめ込んである大きな引き戸です)を開けたら、涼しい風が吹いてきました。アイスティーもそろそろ飲みおさめです。
ためしに、朝ごはんのときホットティーを入れてみました。
紅茶の色がいつもよりもきりりと鮮やかに見えます。きれいな茶色を含んだ赤色。
秋はやっぱりすぐ近くまで来てくれているようです。
こんな色の冴えた紅茶を見たら、チョコレートを食べたくなってしまいました。
--------------------
はじめてホットチョコレートを飲んだのは、高校生のときです。
叔母が夜遅くにつくってくれました。
理由は忘れてしまいましたが、その日は私一人で叔母の家に泊まりに行っていたのです。
叔母の家は山に囲まれた静かな、九月でも十分涼しいところにありました。
叔母の家が消灯したら、周りはなにも見えなくなるような、周囲は緑ばかりの場所です。
私は居間にころがって、本を読んでいました。
窓から風が入ってきます。
秋の風は、きちんと秋のにおいがするのね。
夏とは違う、すこしすっきりしたにおい。
そんなことを思っていたら、叔母が
「なに読んでるの?」
と訊いてくれました。
「野菊の墓」
と答えました。
「ふうん。ね、ちょっと朗読してよ。代わりにおいしいもの作ってあげるから」
そう言って、叔母は私の返事を聞かずに台所へ入ってしまいました。
台所にはカウンターがついているので、私はしぶしぶそこのスツールに座って読みました。
「途中からでもいい?」
と私が訊いたら、叔母は
「オーライ」
と答えてくれました。冷蔵庫からがしゃがしゃとなにかを出そうとしています。
叔母の口ぐせを聞くと、いつもつい嬉しくなってしまいます。
はりきって朗読しました。
--------------------
花好きな民子は例の癖で、色白の顔にその紫紺の花を押しつける。やがて何を思いだしてか、ひとりでにこにこ笑いだした。
「民さん、なんです、そんなにひとりで笑って」
「政夫さんはりんどうの様な人だ」
「どうして」
「さアどうしてということはないけど、政夫さんは何がなし竜胆の様な風だからさ」
民子は言い終って顔をかくして笑った。
「民さんもよっぽど人が悪くなった。それでさっきの仇討あだうちという訣ですか。口真似なんか恐入りますナ。しかし民さんが野菊で僕が竜胆とは面白い対ですね。僕は悦よろこんでりんどうになります。それで民さんがりんどうを好きになってくれればなお嬉しい」
二人はこんならちもなき事いうて悦んでいた。秋の日足の短さ、日はようやく傾きそめる。さアとの掛声で棉もぎにかかる。午後の分は僅であったから一時間半ばかりでもぎ終えた。何やかやそれぞれまとめて番ニョに乗せ、二人で差しあいにかつぐ。民子を先に僕が後に、とぼとぼ畑を出掛けた時は、日は早く松の梢をかぎりかけた。
--------------------
朗読を止めて
「ね、なにを作っているの?」
と私は聞きました。叔母の手元が見えないためです。
「まぁすぐにわかるから」
と叔母は答えてくれません。私は質問を変えました。
「こんな途中からの朗読で、話がわかるの?」
「もちろん。知っているお話だもの」
叔母は鼻歌を歌っていました。
--------------------
半分道も来たと思う頃は十三夜の月が、木この間まから影をさして尾花にゆらぐ風もなく、露の置くさえ見える様な夜になった。今朝は気がつかなかったが、道の西手に一段低い畑には、蕎麦そばの花が薄絹を曳き渡したように白く見える。こおろぎが寒げに鳴いているにも心とめずにはいられない。
--------------------
ここまできて、なんとも甘い香りがします。
カカオの香ばしい香り。でもココアではないみたい。
叔母はミルクパンから茶色いとろりとした液体をマグカップにうつして
「どうぞ」
と私にさしだしてくれました。
「ホットチョコレートよ」
と。
私はすっかり感激してしまいました。
マグカップからは湯気がひらひらと出ていて、こっくりとしたチョコレートがゆれているのが見えます。
ふぅふぅと冷ましてそっと飲むと、まったりとした甘くてやわらかいチョコレートが口いっぱいに広がりました。
「おいしい」
頬がとろけそうになりながら、私は言いました。「ものすごくおいしくて、太りそう」。
それを聞いた叔母は、声を上げて笑い、
「当たり前じゃないの。おいしいものは太るものよ」
と言いました。
月が明るい夜でした。
叔母の家を囲む木々も土も風も、きちんと月の光を含んでいました。
--------------------
「オーライ」
私は何かに挑戦するときにこの言葉を思い出します。
なに不安がってるの?大丈夫よ。
叔母のさばさばとした明るい声。
つい、やる気が出てしまう、甘くてうれしい口ぐせです。
最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
--------------------
おまけ
身近なチョコレート編。
朗読のところで引用させていただいたのは、伊藤左千夫『野菊の墓』です。
青空文庫にもありますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?