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第6節 米沢藩の医学史

6-1 藁科松柏と細井平洲

    藁科松柏は、元文2年(1737年)、藁科周伯の子として生まれました。早く父を失いますが、元服後、江戸で医学を学び、21歳で江戸御留守居となります。さらに、23歳で、第8代米沢藩主、上杉重定の側医を務めます。

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 明和元年(1764年)、両国橋のたもとで、熱弁をふるう辻講釈がいました。その講話には、いつも、多くの人々が集まっていました。わかりやすく、力も沸いてくるような内容でした。その人は、儒学者、細井平州でした。
 それを聞いていた松柏は、
「この人こそが、我が主君、鷹山公の学問師範となっていただくお方だ!」と、藩に告げるのです。こうして、細井平洲は、世子鷹山の師範に決定されました。鷹山14歳、平洲37歳、松柏28歳の時でした。
 平洲は、現在の愛知県東海市の農家に生まれました。そこでは、嚶鳴館(おうめいかん)という塾をつくり、地域の教育の普及に努めました。その塾生達は、住職、侍、大工等、身分、職業問わなかったといわれています。
 平洲の影響を受けた松柏は、米沢に戻り、家塾「菁莪館(せいがかん)」を開きます。そこでは、竹俣当綱、莅戸善政、神保蘭室など米沢藩の憂国の士達が学びました。彼らは、窮乏する米沢藩の再生を模索したのでした。後に、この塾生達が中心となり、鷹山の藩政を支えてゆくことになるのです。
 明和4年(1767年)、鷹山が家督を継ぐと、松柏は鷹山の侍医になります。しかし、松柏は、その頃、不治の病といわれた肺結核を患っていました。病床を見舞った平洲に、松柏は次のように述べ、最後の願いを託します。
 「学校を興すことが、我が米沢藩中興の基礎となります。米沢はへんぴな所ですが、願わくは、先生に米沢に行っていただき、学問所を開いていただきたいと思っております。そして、米沢の万民を徳化していただたくことを願っています。」
 平洲は、藩校興譲館設立のために惜しみない協力をすることになります。
 明和6年、(1769年)、松柏は肺結核で死去しました。享年33歳でした。松柏は、米沢市相生町にある善立寺(図1-5)に葬られています。

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 安永5年(1776年)、藩校興譲館が落成します。平洲は、その年、鷹山の要請を受けて、米沢を訪れ、興譲館学則を揮毫し、興譲館生や藩周辺の地域の人々に講義も行いました。

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  なお、「興譲館学則」は、次のようです。
 先生教えを施し、弟子これ則る。 温恭自虚しくし、受くる所これ極む。
 善を見てはこれに従い、義を聞きてはすなわち服す。
 温柔孝悌にして、騎りて力を恃むことなかれ。
 志虚邪毋く、行いは必ず正直。 遊居常あり、必ず有徳に就く。
 顔色整斉にして、中心必ず式み、夙に興き夜に寝ね、衣帯必ず飾う。
 朝に益し暮に習い、小心翼翼、此一にして解らず。
 是を学則という。
               安永丙申九月  紀徳民敬書

 上杉鷹山は、藁科松柏が師範に推挙した細井平洲を、生涯の師としたのです。

6-2 本草学者、佐藤平三郎の招聘

 本草学(ほんぞうがく)というのは、中国の伝統医学で、植物を中心とする薬物学のこととです。西洋医学が日本に入る前までは、医学と言えば、この本草学が中心でした。
 佐藤平三郎(1762年~1848年)は、20歳の時には薩摩に招かれ、さらに白河、会津、松山などの諸侯の招きに応じました。全国各地を訪ね歩き、本草学の調査と講義を行いました。
 上杉鷹山も、藩に医学校を設立する準備として、平三郎を米沢に招き、当時の医師や医師志願の若者達にその道を伝授させました。

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 平三郎の宿泊所、学舎となったのは、屋代町の御国産所(図2-1)でした。その周囲や、米沢城下の北寺町等にも薬草農場がつくられ、製薬研究がなされたといわれています。
 昭和42年1月、米沢市発行の米沢風土記には、江戸の本草学者、「佐藤平三郎を招いた米沢藩とその医学」という節が設けられており、藩の受け入れ体制について、次のように記載されています。

    宿泊所:元会所
    御用係:横田新兵衛 大石求馬 佐藤九門
    定付門弟: 水野道益秀親
         (御中之間御番医筆頭)の嫡男、水野元丈  
    医師御用係:平田道宣範淑(医師) 樫村元龍清応(医師)
          堀内忠意忠明(医師)
    学習方法:御用係の医師を中心として、外様法体、外様外科藩医、   
         町医師等は通勤して学ぶ

 平三郎の米沢滞在期間は、寛政4年(1792年)8月から寛政5年(1793年)10月までの1年2ヶ月間となっていました。
 平三郎は、米沢滞在中、米沢はもとより、赤湯、小国、朝日岳、飯豊山、吾妻山に登り、置賜地域の約300種の薬草を採集し、それらの効用について説いたといわれています。
 このことにより、米沢藩の本草学の礎が作られ、米沢藩の医学館、好生堂の歴史が始まることになります。
 平三郎は、全国の薬草について、詳細な図として記録しました。
    「奇説新編」「流虬百花譜」「漁古斎複志」「五瑞編」、
       「南譜」「全署録」「産物録」「中稜魚録」
など、多くの著書を遺しました。

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 図2-2は、米沢市立図書館に残されている「琉虬百花譜」です。平三郎が米沢藩に持ってきた書を、門人がそっくり模写したものです。琉球(沖縄)の薬草、97種が101枚に収められており、江戸時代には、藩校、興譲館に置かれました。
       (参考にした資料:昭和42年1月、米沢市発行の米沢風土記)

6-3 医学館、好生堂の設立

 佐藤平三郎は、寛政5年(1793年)、任務を終えて帰還しました。その年の秋、米沢藩は、医学館、好生堂を設立します。
 好生堂の設立については、平三郎滞在中、その任務にあたった人達が中心となりました。場所は、平三郎が滞在した御国産所内とされています。そこは、図2-1に示しましたが、現在の山形新聞社米沢支社付近となります。初代の総裁は、医師で、鷹山の正室、幸姫(よしひめ)のお側医を勤めた平田道宜でした。
 好生堂の名称の出所については、書経の中にある、
   「生けるを好するの徳は民の心に治し」
という一節から選ばれたものです。
 鷹山は、オランダ製の外科の医療器械や多くの医学書を積極的に購入するなど、好生堂の充実に力を注いだといわれています。
 好生堂では、医師を目指す学生達が、佐藤平三郎から伝授された薬草を植え、その培養、製煉の方法等について研究しあいました。また、医学に関する多様な学習を積み重ね、お互いに研究を進めながら医学の勉強を深めたといわれています。
 その14年後の、文化4年(1807年)には、好生堂を藩校興譲館構内に移し、飯田幽澗 が総裁となりました。

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 図3-1は、その頃の「興譲館の図」です。図によれば、藩校興譲館は2階建であり、図面の左下の部分に「好生堂医学館」、中央の上部には聖堂が配置され、その他の施設が配置されました。
 図3-2は、その平面図です。左側の医学館には、「好生堂医学館」と記されています。1階には講堂、聖堂等があり、2階にはいくつかの小部屋が置かれています。

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 また、図3-1、図3-2の上部には、共に堀が描かれています。藩校興譲館の北側には三の丸の堀があったことがわかります。
 図3-3は、藩校と三の丸の堀の位置関係を示したものです。
 江戸時代、この好生堂からは、高橋桂山、堀内素堂、伊東昇廸等、米沢藩の有能な医師達が輩出されることになります。
 なお、明治4年(1871)の廃藩置県の際、全国の272藩の中で、藩校に医学科を設けていたのが36藩、独立に医学校を設けていたのが26藩でした。

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6-4 高橋桂山と堀内素堂

 寛政8年(1796年)の頃、鷹山は、痔の病で悩んでいました。米沢藩の医師、高橋桂山は杉田玄白に師事していましたが、鷹山の内意を受けて、その治療に詳しい京都の医師、竹中文卿の下でも学ぶことになります。米沢に戻った桂山は、早速、鷹山の治療にあたり、鷹山の痔病は快癒します。
 鷹山は、桂山に、長崎で医学を学ぶよう、あらためて命じます。これが、米沢藩における最初の長崎遊学でした。桂山の遊学は2年間に渡り、吉雄献作について外科を学びます。吉雄は、初めは通詞でしたが、後に蘭方外科を修めました。漢学にも広く深い理解があり、和漢洋に通じていたといわれています。
 その後、桂山は、第10代米沢藩主、上杉治広の侍医となります。名医の誉高かった桂山には、多くの門弟がつきましたが、堀内素堂もその一人でした。

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 素堂は、米沢で最初に蘭学を修めた堀内忠明の長男です。11歳の時、父を亡くしましたが、16歳になると、桂山について医学を学びます。藩校興譲館にも学んだ素堂は、文政3年(1820年)、20歳の時、念願がかない、江戸桜田邸詰を命じられます。
 江戸では、著名な医師とも交流を深め素堂は、文政5年(1822年)、米沢にもどり、22歳にして第11代米沢藩主、上杉斉定の側医となります。後に、桂山の娘、たか(のち貞)を娶っています。 

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 堀内素堂の業績で特筆されるのは、「幼幼精義」を刊行したということです。ドイツ人医師、フーフェランドの記した「内科便覧」の蘭訳書があります。幼幼精義は、その中の小児科に関する部分について、日本語に重訳したものです。素堂は、西洋の近代小児医学を、日本に初めて紹介したのです。
 2015年3月、米沢市上杉博物館では、米沢市医師会とともに、堀内家に伝来した古文書の資料集、「米沢藩、医家の系譜」を刊行しました。文書は江戸時代の中頃から明治時代初期までの計314点、その全文が、解読されたのです。米沢の医学史を知る貴重な著書となっています。
 素堂は米沢市舘山にある舘山寺に祀られています。

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             (参考にした資料:松野良寅著 先人の世紀)

6-5 高橋玄益を訪ねた吉田松陰

 高橋家は、代々が米沢藩の医者です。高橋玄益の祖父、高橋桂山は杉田玄白に師事し、第10代藩主、上杉治広の侍医を勤めました。
 玄益の父、高橋松丘は、第12代藩主、上杉斉憲の侍医でした。子孫は代々、玄益や玄勝を襲名しました。
 玄益は、江戸勤学後の天保12年(1841年)、6月から2年間、長崎で医学の修業をしました。吉田松陰とは、その際に出会いました。
 また、長州藩士、吉田松陰は、松下村塾の継承者でした。この塾に学んだ、久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋、木戸孝允等は、幕末から明治初期にかけて、日本の政治の中心にいた人達です。

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 幕末になると、開国をせまる外国船が日本周辺に押し寄せてきました。島国、日本にとっては、ロシア、満州に近い東北の防衛も重要性を増していました。
 嘉永4年(1851年)12月、松蔭は、未知の地域だった東北の旅に出たのです。江戸を起点とし、日本海側を北上し、佐渡にわたり、鶴岡、本庄、秋田をめぐり、弘前、竜飛岬まで行きます。

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 青森に戻り、盛岡、仙台、七ヶ宿街道から二井宿を越え、高畠、亀岡、川井、花沢関を経て、米沢城下に入りました。米沢では、粡町辻西の遠藤権内に宿泊し、翌日には玄益を訪ね、その紹介で米沢藩士と語ろうとした、といわれています。
 しかし、その日は、藩主、上杉斉憲の江戸出府を翌日に控えていたため、藩士の多くは、客の接待どころではありませんでした。結局、松陰は玄益に会うことはできませんでした。
 松陰は、「東北遊日記」を遺しましたが、その中に次のような記載があります。
「花沢の関を過ぎ、橋を渡りて市に入る。すなわち米沢なり。上杉弾正大弼15万石の都なり、粡町に宿す。26日、晴、高橋玄益を訪ひ、藩の諸学士に介がんことを求む。たまたま、藩諸侯、将に明日を以て発し江戸に期せんとす。ここを以て諸士繁劇、相見るを得ず。」
 3月27日、松陰は、斉憲の参勤交代の行列を大町で見送り、その後、会津街道を経由して江戸に向かって行きました。140日間の行程でした。

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 図5-3は、「吉田松陰旅宿の地碑」です。松陰の米沢訪問を後世に伝えようと、平成3年(1991年)、山形県米沢市粡町町内会の方々や、その他の関係者の協力によって設置されました。3日間の宿とした、米沢市中央7丁目の遠藤権内の宿に最も近い、この場所が選ばれています。
 なお、玄益は、戊辰戦争中は病院頭取として負傷兵の治療にあたり、米沢藩医の筆頭として、医学校、好生堂の近代化、英学校の設立実現等に力を注ぎました。

6-6 シーボルトに学んだ医師、伊東昇迪

 伊東昇迪(しょうてき 1804年~1886年)は、文化元年、米沢の信夫町で生まれました。伊東家は代々医を業としました。
 寛政7年(1795年)置賜地域に痘瘡が大流行した時、米沢藩は、江戸の痘瘡医、津江柏寿を招聘し、その治療にあたってもらいました。その折、昇迪の父、祐徳は、その門人となることを願い出て、その年の暮れには大小屋村(現在の飯豊町中津川)、翌年正月には玉庭村へ出かけ、痘瘡患者の治療に奔走したといわれています。
 昇迪は、文政7年(1824年)、20歳のとき江戸に上り、土生玄碩と杉田立卿の門に入り眼科を学びました。その後、長崎に赴き、シーボルトの鳴滝塾門弟の第1期生となり、2年間、そこで学びました。水沢伊達家の高野長英も昇迪と同期に鳴滝塾で学び、学友でした。
 文政11年(1828年)、長崎から米沢に戻り、その翌年には、伊東家の家督を継ぐことになります。昇迪は、西洋医学を学んだ医師として活躍することになります。
 米沢藩では、外様外科として召喚され、その後、中之間御番医師、好生堂助正等を担います。後に12代米沢藩主、上杉斉憲の侍医も務めました。
 当時の日本では、痘瘡(天然痘)の治療方法がなく、多くの人が命を絶っていました。痘瘡は、ウイルスを病原体とする感染症の一つです。江戸時代の頃には、疱瘡によって命を落とした人が大勢いました。
 痘瘡は非常に強い感染力を持ち、治癒しても瘢痕(あばた)を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられました。致死率は40%前後もあり、時に集落や藩をも滅ぼすほどの一大病として恐れられました。
 昇迪は、その予防策となる接種用痘苗(痘瘡のワクチン)を長崎から持ち帰っていました。住民が恐れず接種できるよう、自分の娘二人にそれを試行してみせました。娘達も痘瘡患者の家に慰問させて種痘の効用を説き、このことで住民が、安心して接種できるようにしたともいわれています。
 昇廸は、明治6年(1873年)に建設された置賜病院にも出仕するなど、晩年にいたるまで活動は衰えなかったといわれています。
 明治21年(1888年)、昇廸は病死しました。享年85歳でした。図6-1は、米沢市相生町にある伊東家の菩提寺、龍泉寺と伊東家の墓地です。

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 図6-2は、の文化8年(1811年)の「米沢御城下絵図」です。「伊東昇廸」と記された箇所があります。現在の山形県米沢市信夫町交差点の北側の所です。
 なお、昇廸の長男、伊東祐順は陸軍一等軍医等を務め、次男の平田東助は明治政府の官僚政治家として活躍します。また、孫の伊東忠太(祐順の次男)は、東京大学で教鞭をとり、後に建築界での功績が認められ、文化勲章を受章しました。米沢の名誉市民にもなっています。
             (参考にした資料:松野良寅著 先人の世紀)

6-7 高野長英が米沢に来る

 文政7年(1824年)、シーボルトは長崎郊外に、私塾、鳴滝塾を開設しました。高野長英は、その第1回生としてそこで医学、蘭学を学びました。彼は、オランダ語にも優れ、初代塾頭にも任命されています。

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 図7-2は、高橋嘉膳病院があった跡地であり、図5-3は病院の平面図です。○印のところに長英が匿われたのではないか、と推察されています。
 現在は蔵も壊され、更地となっています。
 表1は、「長英逃亡」に記された、長英がたどったとされる逃亡の経路についてです。表のように、嘉膳病院の後は、また板谷街道を通り江戸に戻り、さらに名古屋、広島までも行っていたことになっています。

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 これらの話は、匿った方も罪に問われますので、すべて推測で語られています。しかし、高橋嘉膳病院に長英が匿われたことの信憑性は非常に高いものと考えられています。

                                        (参考にした資料:松野良寅著 先人の世紀)

6-8 米沢に眠ったオランダ語通司、吉雄忠次郎

 吉雄家は代々、長崎の通詞を勤めていました。吉雄忠次郎(1787年~1833年)は、天明7年(1787年)、吉雄家に生まれ、通詞の親のもとで、秀でた語学力を積み重ねました。
 文化5年(1808年)に起きたフェートン号事件で、イギリスの脅威に直面した幕府は、文化6年(1809年)、長崎にいる通詞達に、ロシア語と英語の兼修を命じました。吉雄は、既に英語辞書15冊を収集する等、英語も堪能だったといわれています。
 その頃、吉雄は幕府天文方に勤め、また、通詞や翻訳の仕事に従事していました。文政9年(1826年)には長崎に戻り、シーボルトのオランダ語通訳や翻訳を手伝うことになります。
 シーボルト事件は、文政11年(1828年)9月に起きました。オランダ商館付の医師、シーボルトが帰国する直前のことです。国外に持ち出すことが禁じられていた日本地図等が、帰国船内の所持品の中から見つかり、それに関わった幕府天文方、書物奉行の高橋景保、ほか十数名が処分されたのです。景保は獄死しました。シーボルトは文政12年(1829年)に国外追放、再渡航禁止の処分となった事件でした。
 シーボルトの通詞をしていた吉雄は、事件に連座して米沢藩お預けとなります。米沢では、新田上杉佐渡守勝義等、いくつかの屋敷牢に拘束され、天保4年(1833年)、病没しました。享年47歳、2年8か月の幽閉生活でした。 遺体は塩漬けにされ、幕府役人の検分を受けた後、西蓮寺に葬られました。

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 図8-1は、西蓮寺にある吉雄忠次郎の墓地です。
 西蓮寺には、吉雄の妻、西村春香が菩提を弔うために納めた、自筆の観音画像が残されています。(図8-2)
 シーボルト事件に連坐した長崎の通詞達の中には、取調中に死亡したり、役儀取り放しなどの処分を受けたり、忠次郎と同じように永牢、流刑の罪科を受けた人も多数おりました。
 シーボルト事件によって、日本を代表する通詞、翻訳家の人達を失うことになってしまったのです。
 昭和54年(1979年)、米沢市の新道建設のため、西蓮寺墓地も一部改修となりました。その際に忠次郎の墓地も移設されることになりました。この図8-3は、その際に発掘された忠次郎の遺骨の記録図です。依頼された医師達によって調査鑑定されました。

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 吉雄が、なぜ米沢に護送されることになったのか、また、米沢での2年8ヶ月の間の処遇等については、よくわかっていません。「」という吉雄忠次郎の扱い方を示した文書が、西蓮寺の史書に記されていますが、たいへん厳しい内容となっています。

次回は、「第7節 栗子道」についてです。






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