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第3節 米沢藩の水

3-1 猿尾堰と御入水堰

 図1-1は、猿尾堰御入水堰の位置を示したものです。

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 関ヶ原の戦いで敗戦した上杉藩は30万石に減封され、3万人を越える家臣団と共に、会津若松から米沢に移封されることになりました。
 米沢においては、生活用水を確保することは、緊急の課題でした。米沢城下内の戸数は3,000以上はあったといわれています。家老の直江兼続は、入城した翌年の慶長7年(1602年)から、城下への生活用水を確保するための御入水堰の工事に着工しました。
 御入水堰は、図1-1のように、石垣町の赤崩橋南側左岸から堰上げし、城下南端の七軒町まで導水します。図1-1の等高線からわかるように、この地域は、扇状地の扇頂部から扇端部に向かって、標高差は約100m下がって来ます。七間町周辺地は、伏流水による湧水が数多くあり、それらも合流して水量を増大させます。これらの水を本丸と城下の南、東、北部に配水し、生活用水に供するようにしました。その下流側は、分水して潅漑用水としても使用しました。全長およそ10㎞、城下のみならず南原の諸士屋敷も潤しました。
 御入水は、お城に入る水、お城で使う水として敬称され、その管理には「御入水奉行」が置かれました。城下の用水路は、道の中央を貫流させ幅約3尺(約91㎝)、両側を石積みにして路面よりやや高くし、汚水などが流れ込まないように作られました。所々に一段低い洗い場が設けられ、そこで米をといだり野菜を洗ったりしました。そこは、井戸端会議ならぬ川端会議の交流の場ともなっていたのです。
 図1-2は、現在の御入水堰です。左上に見えるのがその取水口、手前の滝となって越流している部分が堰上げするための頭首工、松川全幅を堰止めし、約30m3 / 分の大水量を取水しています。米沢市内の主要な用水として使用されるようになっています。

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 猿尾堰は、図1-1のように、南原の李山地域内の松川左岸にあります。この堰から開削された水路は、50間(90m)程北上して分枡となり、そこから南原の5つの町に分水されます。本流は西に下って堀立川と合流し、笹野、諸仏を潤して城下に入ります。城下に入ると、米沢城三の丸の西側を堀とさせる堀立川の水源ともなりました。
 諸堰の中でも猿尾堰は特に難工事で、初めに手がけた某郷士は、不成功のため切腹してはてたと伝えもあることから、「切腹堰」との名称も残されました。猿尾堰には、図1-3のような案内があります。200m程上流左岸に、その掘削跡が残されています。 

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 図1-4は、昭和56年(1981年)に近代土木技術を駆使して建設された現在の猿尾堰で、大水量を取水しています。

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3-2 帯刀堰と木場川

 図2-1は文化8年(1811年)の米沢御城下絵図の北西の部分です。

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 帯刀堰は、館山の原方集落の西方にありました。また、図2-2は現代の地図にそれらの位置を示したものです。鬼面川(おものがわ)は、大樽川、小樽川を合流して米沢城下、西部、北部地域を流れる川となっています。
 帯刀堰は、鬼面川を堰止める堰であり、その河川水を潅漑用水、生活用水として利用するために作られたものです。地域の人達は、鬼面川を西川といっていましたから、帯刀堰は西川堰ともよばれていました。
 工事は、慶長15年(1610年)に始められ、その3年後に完了したと記されています。帯刀堰で堰上げされた水は、木場川をはじめとする用水路に流れ、米沢西北部の農業用水、生活用水として使われました。
 工事の際には、武士達が、刀を腰に差して、労役に従事したことから、これを「帯刀堰」ともいわれるようになったと伝えられています。
 また、これらの川は、木流しの川でもありました。鬼面川上流は、大樽川、小樽川で、その流域は、田沢、簗沢、綱木村等となっています。冬季になると、それらの村から流された薪材は、帯刀堰まで流れ着きます。そこから木場川に流し込まれ、城下内の木場町で木上げされました。

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 図2-3は、木場町の木上げの様子です。木上げは、ふんどし一つ、首に手拭いを巻き、その上に頬被りした「はだか」とよばれる若者達が担当しました。腰まで水につかり、薪材を持ち上げ、鈎(かぎ)持ちがそれを受けて、陸に上げるという、力仕事でした。
 木上げの季節になると、村の人達は、毎年、木場町の民家に宿泊しながら、このような薪材を作る仕事をしていました。
 木上げされた薪材は乾燥されて、米沢城下町に生活する人々の貴重な燃料として使われたのです。また、流域の農家にとっても、山の木は安定した収入源にもなっていました。
 しかし、時代は、木から石炭、石油へと変化します。木場川の木流し、木上げは、昭和12年(1937年)、ついに終了します。木材は、トラックで運ばれる時代となったのです。

3-3 米沢藩の洪水と治水

上杉家が米沢に移封されると、直江兼継は御入水堰、猿尾堰に着工すると共に、谷地河原堤防、蛇堤等の治水工事にも取り組みました。
 しかし、その後、米沢城下東側を流れる松川は頻繁に氾濫し、大きな被害をもたらしていました。

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 表3-1は、上杉家御年譜に記された、江戸時代、延宝8年から天保2年までの約150年間に起きた米沢藩領内の主な洪水の一覧です。
 特に、宝暦7年(1759年)には、5月に3回の洪水があり、甚大な被害を受けていたことが伺えます。
 文化9年(1812年)には、谷地河原堤防が決壊する大洪水が起きていますが、詳細な記録がないため空欄となっています。その6年後の天保元年(1830年)、天保2年(1831年)と連続して大被害を被り、藩上げての改修工事が行われました。

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  図3-1は、東河原川除(かわよけ)土手御手伝絵図(179.2㎝×45.4㎝)の一部です。これは、寛政10年(1798年)6月に完成した松川堤防の絵図です。現在の米沢市内を流れる松川左岸堤防の原型ということになります。 寛政10年は、上杉鷹山が第9代米沢藩主となってから、約30年経った48歳の頃です。   
 また、鷹山が治広に藩主を譲って13年目の年です。しかし、鷹山の米沢藩の藩政改革は相変わらず続いていました。
 原図から少々拾ってみましょう。絵図右端上に大橋と記されています。大橋は福田町裏周辺、万里橋近辺を工事するという意味です。絵図左側半分の左上に花沢村、中央下に割出町と記されていますから、松川橋付近ということになります。
 図3-1の堤防に沿って、たくさんの書き込みがあります。それは、「与板」、「五十騎」等と担当する家臣団の名前、担当箇所の長さ、高さ、幅などについてです。例えば、表3-1のように記されています。

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 この間、総延長809間(約1.5km)、動員された作業員総勢15,083人とも記されています。
 この工事は、氾濫を防いだばかりではなく、松川の流れをこの堤防で仕切り、米沢城下を堤防端まで拡張するのに重要な役割を果たしました。
 なお、黒井半四郎は、この年の前年の寛政9年に黒井堰を完成させ、翌寛政11年(1799年)には穴堰の工事を開始しています。

3-4 黒井堰

 黒井堰は、米沢藩第9代藩主、上杉鷹山、第10代藩主、上杉治広時代に作られた農業用水路です。黒井半四郎が北条郷を潤すために設計施工にあたりました。堰は上堰、下堰、州嶋堰からなり、その総延長は32㎞に及びました。

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 黒井堰で言う北条郷とは、米沢の北部にある窪田以北から赤湯、梨郷までの広範囲な地域を指していました。
 山形県史によると、「北条郷諸村は、地味肥妖だが水利に恵まれない土地が散在し、収穫不安定な農業に対して諸役免除せざるを得ないことも頻繁であった。」と記されています。黒井は、この北条郷を豊穣の地にしようとしたのです。

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 表4-1は、黒井堰の施工年、経路、距離について整理したものです。寛政6年(1794年)に試掘され、上堰の工事は、寛政7年(1795年)に着手されました。 
 上堰は、米沢市窪田の千眼寺裏の松川の水を堰き上げし、その水を流下させます。途中、松川に架かる糠野目橋に並行して、水の通る大樋を設けました。樋を渡った水は、宮内、赤湯方面の水田を潤すというものでした。
 下堰は、鶴巻から取水し、沖田村で分水、砂塚、梨郷、俎柳等の地域に流下させます。
 このように、黒井堰は、上堰は千眼寺裏、下堰は鶴巻の取水口から松川の水を取水し、北条郷という広範な地域を灌漑するものでした。
 

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図4-2は、黒井堰地図です。図には上堰と記されていますが、その位置は米沢市窪田、千眼寺裏の松川左岸のところです。下堰の取水口となる鶴巻は、高畠ワイナリーの近くになります。
 図4-3は、窪田の千眼寺裏にある上堰の取水口、図4-3は松川に架かる大樋、それぞれ江戸時代のその位置に建設されており、今も使用されています。

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 北条郷は、現在の国道13号線をはさんで、糠野目から北は赤湯、宮内、梨郷までにいたる地域が該当します。

3-5 穴堰

 穴堰は、図5-1のように、荒川上流の玉川の水を白川へ疏水するために建設されたものです。

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 この構想を思いついたのは、毎年飯豊本山に参詣を続けていた奥田村の肝煎(きもいり)、横山平左衛門でした。奥田村周辺地域は、大きい河川もなく、常時水不足に悩まされていました。平左衛門は、玉川の水を疎水し、小松、高豆蒄、黒川、高山村、奥田村(いずれも現川西町)、さらに、その下流地帯の田畑を潤すことができないものかと考えていました。
 寛政10年(1798年)、平左衛門は、既に黒井堰を完成させていた黒井半四郎に現地調査を依頼することにしました。
 黒井は、飯豊山中にある玉川の源流となる御沢、不動沢、大又沢等の状況を見て、次のように確認したのです。
 (1)荒川上流の玉川渓流には夏でも雪渓が残り、融雪水による水量が
     豊富であること。
 (2)白川以上に玉川の水量が多いこと。
 (3)地蔵岳と種蒔山を結ぶ尾根線が玉川支流大又沢と白川の支流四ツ           森沢との分水嶺となっていること。
    (4)白川と玉川の間に、100余間に接近している箇所があること。
 米沢から飯豊山登山口の大日杉までは、約50㎞もの距離があります。さらにそこから現場まで徒歩で約7~8時間もかかります。しかし、米沢藩はその工事を始めることを了承したのです。
 翌年の寛政11年(1799年)、工事が始められました。その現場は、標高1,538mの高山にあります。豪雪の山岳地帯でもありましたから、7月末から10月半ばの約2ヶ月程が工事期間です。初年は約3.5mほどしか掘進できなかったといいます。
 しかしながら、黒井は、その年、穴堰建設の現場で倒れ、惜しまれながら帰らぬ人となってしまいました。
    また、その当時、米沢藩の財政は低迷し、途中、大倹約令などで5年間もの間、工事が中断されました。しかし、黒井の弟子達はこつこつと工事を進め、文政元年(1818年)、20年を要して、ついに、穴堰を完成させたのです。
 隧道の実長については、飯豊町が昭和53年(1978年)に実測調査したデータによると、144.7mとなっています。当時の総工事費用は4,029貫425文と記されています。図6-2は、穴堰の取水口の様子です。
 穴堰を通過した玉川の渓流水は、白川に流し込まれ、さらに、長堀堰を通して東置賜地域、3,000haを潤しました。

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 穴堰は、昭和41年(1966年)まで使用されましたが、翌年の羽越豪雨で、隧道は土砂で埋め尽くされてしまいました。(図6-3)
   以降は、白川ダムが建設され、昭和56年(1981年)に運用開始されました。穴堰もその役割を終了しました。

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 なお穴堰は、昭和31年11月に山形県指定文化財(史跡)に指定されています。

3-6 最上川舟運

 上杉藩京都御用商人、西村久左衛門は考えました。
「大八車で米を江戸まで運ぶより、舟なら、人手もかからず一度にたくさん運ぶことができる。」
 元禄5年(1692年)、久左衛門は、米沢藩に申し出ました。
「最上川上流、左沢から荒砥、長井、糠の目までの河川舟運権を与えて下されば、工事とその費用については、全額、私が負担します。特に西五十川(いもがわ)峡谷、黒滝の岩盤の開削に命をかけて取り組みます。」
 許可を得た久左衛門は、総工費を1万7,000両と見積もり、全額自費で工事に取りかかったのです。
 元禄6年(1693年)、6月、工事が開始されました。硬い岩盤に熱を加え、岩質をもろくし、やぐらを組んでそれを打ち砕く、という極めて原始的な方法でした。工事は渇水期だけに限られます。黒滝の西半分を幅7m、深さ1mで削り取る作業が続きました。翌、元禄7年(1694年)の夏、工事が終了し、舟道が完成しました。

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 このことによって、長井から酒田への舟運が可能となったのです。長井には、宮舟場が設けられました。

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    そこには、米や青苧等の農産物を保管する蔵も建てられました。久左衛門は、完成と同時に、江戸廻送米、1万3,700俵を請け負うことになったといわれています。
 後に、小出船場(図6-3)も設けら、農家が収穫を終えた頃には、米沢領内の各地から、この長井の舟場へ農産物を運ぶ人馬が、にぎやかに往来するようになったのです。
 また、図6-4は、国道13号、糠野目橋の松川左岸堤防にある、「最上川最終船着場跡」という案内です。後に、ここからも船が発着できるようになりました。この舟場を描いた絵図には、黒井堰の大樋も一緒に描かれています。

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 図6-5によれば、江戸時代、最上川には大小21の船着場があったことがわかります。ここは、その最終舟着場として栄えたまちでした。その頃の絵図には、河川敷内にも料理屋が描かれています。

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 ここは、現在は現在の糠野目町宮前です。かつての舟場の町だったところです。舟場は旧糠野目橋のたもとにありました。江戸時代には、「船町」、「大川端」などという地名でもよばれていました。

次回は、「第4節 米沢に通じた江戸時代の道」についてです。



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