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失敗の付箋_2024年5月17金/晴れ

よく、若いうちは失敗しろという。
こうなったらいいなという姿になるには
「そうじゃないこと」をしないとたどりつかない。だから
有名な人も、先生も師匠も上司もお父さんもお母さんも、
たくさんの人が先輩として若者を励ましている。
ひとかどの人物になるために失敗は欠かせないから、と、
なんだか、失敗が若さと同じような意味で使われることもある。

たとえば、「失敗の付箋」があったとしましょうよ。
それは、目標の数だけあるんじゃない。
そうなるためにしたことの、ひとつひとつに、
無数に貼れるような気がする。
マニュアルを持ってる人は貼りやすいだろうし、
芸事や技術を追う人は、その気になれば
いくらでも「そうじゃないこと」をみつけられるよね。
知らない街で道に迷ったときも「失敗の付箋」は貼れるし、
失敗とはそうじゃない状態だけのことだから、
トレーニング書なんかでは、言い方はちがうけど
「失敗の付箋」を貼りながら軌道修正することを勧める。

だけど、ね、
「失敗の付箋」は幾つになっても貼っていいんじゃないか。
わたしはこんなふうに思っていて、
そういう意味では自由にやれてるほうだけど、
手あたり次第になんでもやりたがるのは、
賢そうじゃないのでしょうね。
人生はなにかをかたちにして成功しなくっちゃ、
と考えられているのかもしれない。
そのとおりだとはわたしも思う。
でもね、よくよく思い返してみてくださいな。
大人になって、「失敗の付箋」を貼るのを億劫がってやしませんか?
「失敗の付箋」を貼ってこの先どうするのか、と
見えてないこと多くありません?

若くない人が挑戦することについてあれこれいわれるけど、
失敗を「努力」なんかに替えて語ることが多い気がする。
あるいは、「まぁ、ぼちぼちやりますわ」っていうものごとに、
「失敗の付箋」を貼りたくないのかもしれない。
最近、ふと、わたしは階段を飛び降りるということをしているのだけど、
たとえ2、3段でも、あんまり久しぶりで体が感覚を忘れている、
いつも膝がガクッとしてうまく着地できない。
そのうちできるとは思ってるけど、
失敗する悦びみたいなものを、
もういちどじぶんに問いたいんですよね。
ほんとは、ほかのもっと深刻そうなうまくいかないこともあるし。
失敗の付箋を貼り惜しみしてたら人生が終わってた。
そこのところ、なんとかしたいと思ってません?

大人よ、いまから大志を抱いて遊ぼうよ。かたちにならなくても、さ。


よんでくださった方、ありがとうございます! スキをくださった方、その勇気に拍手します! できごとがわたしの生活に入ってきてどうなったか、 そういう読みものをつくります! すこしでも「じぶんと同じだな」と 思ってくださる人がいるといいなと思っています。