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村上春樹と水曜日の午後のピクニックとの三度目の出会い

村上春樹の小説を10数年ぶりに読み返している。10代の時には共感してやまなかったのに今読見返すと、自意識が過剰すぎて自分の青春時代を垣間見ているようで、なんだか恥ずかしくなる描写もあるのだが、そんな気持ちになる文章は他の小説を思い返しても見当たらないし、一定層から「嫌い」とまで言われる作家なのだから、やっぱりつくづく唯一無二の作家なのだと感じている。

私は彼の短編にしても長編にしても、「これが彼の傑作」と感じたことはあまりない。

なぜなら10代後半から20代前半のときには「ノルウェイの森」や「風の歌を聴け」が大好きで、20代半ばぐらいには短編が好きになり「トニー滝谷」「めくらやなぎと眠る女」「納屋を焼く」を何度も読み、30代の今は、「中国行きのスロウ・ボート」「羊をめぐる冒険」の魅力を再確認している、というように自分の置かれている立場や状況によりあまりにも作品に対する見解が変わるからである。


おそらく、それだけ共感性の強い作品が多いのだろう。

だから、私のように一人の読者が何度も作品を咀嚼したくなったり、気に入った一文をついメモにとりたくなったりするのだ。

村上春樹の作品は突然どうしようもなく毛嫌いしたくなる時もあるし、反対にやっぱり好きだなと思うときもあって、まるで恋人や家族に対しての愛着にも似ている。


不思議なことに、彼の比較的新しい作品については、どんどん普遍的なテーマが多くなってきているようにも思う。

「1Q84」以降ぐらいか、「アフターダーク」ぐらいからだろうか。自意識というところよりもより社会や世界に対して意識が移行してきているようだ。

以前は青春期独特の苦悩やニヒリズムみたいなものが中心だった(実際に主人公も20代や30代前半ぐらいまでの若い男性が多い)からこそ、好き嫌いが大きく分かれていたのだとも感じる。

この10年ぐらいの作品は以前に比べれば比較的より多くの読者に愛されてきているのではないだろうか。


それでもなぜか繰り返し読んでしまうのは、初期の頃の「孤独」を感じる長編作品ばかりだ。

昨年結婚して引っ越しをした際も「1Q84」や「騎士団長殺し」などの割と最近の作品は実家の書斎に置いてきたのだが、「スプートニクの恋人」や「国境の南、太陽の西」「1973年のピンボール」などは、しっかりと持ってきていて、今も暇なときにパラパラとページをめくってみては、気になる文章に線を引いたりしている。


いつのものかわからないけれど、昔引いたであろう赤線を時々発見するのが面白い。

昨日は、「羊をめぐる冒険(上)」の、冒頭の方にある「水曜日の午後のピクニック」の箇所に線がひかれていたのを見つけた。


「ここに来るたびに、本当のピクニックに来たような気がするのよ」
「本当のピクニック?」
「うん、広々として、どこまでも芝生が続いていて、人々は幸せそうに見えて……」
彼女は芝生の上に腰を下ろし、何本もマッチを無駄にしながら煙草に火を点けた。
「太陽が上って、そして沈んで、人がやってきて、そして去って、空気みたいに時間が流れていくの。なんだかピクニックみたいじゃない?」

(村上春樹, 「羊をめぐる冒険(上)」講談社, 1982年  第一章 1970/11/25 水曜日の午後のピクニック)

これは確か高校時代に予備校の先生が「大学生活ってこういうものだよ」と教えてくれた一文だった。

まだその時は、「羊をめぐる冒険」は未読だったのでピンときていなかったのだが、数年後にはじめて読んだときに「あ、これがあの、”水曜日の午後のピクニック”の文章だ」と偶然に見つけたのを覚えている。

この文章に出会うのは3度目になるが、やっぱり好きだ。



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