真夏のシュガードーナツ
「東京にしては珍しく、ここのは関西風の出汁で、美味いよ。」
かつて4年間ほど、代官山の蔦屋書店から徒歩で十数分の場所に位置するヴィンテージマンションの一室に、毎週通っていたことがある。
そのマンションの近くにある小さな蕎麦屋で、私はKと向かい合って熱々のかけそばを啜っていた。
ある年の、暑い夏の日で、私はノースリーブの薄手のワンピースにスポーツサンダル、KはTシャツにハーフパンツにニューバランスのスニーカーという、とてもラフな格好をしていた。
互いに熱いそばの汁のせいで額から汗が滴り落ちるほどだった。
関東の醤油味ではなく、優しい出汁が効いた上品な関西風の味で、たしかに最後の一滴まで飲み干したいぐらい美味しくて、目の前にKがいることも忘れて夢中で啜った。
代官山のその一室は、当時働いていた会社の事務所で、関東方面の顧客との商談室として機能していた。
来客する人が口を揃えて、「こんなにいい物件をどうやって見つけたんですか」と言う。
立地も建物も魅力的でパーフェクトだった。
私がその部屋に初めて足を踏み入れた時本能的に感じた、「あ、この部屋好きだ」という感覚は、今でも思い出せるほどである。
Kから直々で、東京の商談担当をやってくれないかと言われた私は、二つ返事でそれを引き受けた。
当時の私は、東京から地元にUターンしてまだ1年ほどの頃であった。
東京での文化的で刺激的な暮らしに未練があった私にとってまたとないチャンスだった。
心の中で、やった、とガッツポーズを決めたほどである。
都内でしか上映されない映画を観たり、友人の働く店で服を買ったり、お気に入りの本屋に立ち寄ったり、美術館に行ったり、友人に会って食事をするなどの時間の調整も、可能に思えた。
私が担当することになった初日は、Kが引き継ぎのため同行していた。
先ほどの小さな近所の蕎麦屋は関西出身のKの常連店だったが、程なくして私も店主に覚えてもらえるほど通うようになるほどのお気に入りになっていた。
今はすでに閉店してしまったが、あの味を忘れることはこれから先もきっとないだろう。
「もう事務所の場所も覚えたでしょ?商談もだいたいさっきみたいな感じでいいから。じゃあ、来週から1人でお願いね。蕎麦だと夕方は腹減るな。スタバでコーヒーを買って新幹線で帰るか。」
Kは品川駅のスターバックスで甘いフラペチーノとドーナツを買い、私はただのブラックコーヒーを手に、新幹線のグリーン車に隣同士で座った。
「ダイエット中?俺のドーナツ半分あげるよ。はい。」
Kは唇をドーナツのシュガーのせいでテカらせたまま、半分に割ったドーナツを私に差し出した。
素手で千切られたドーナツを私もまた素手で受け取った。その瞬間に砂糖でベタついた指同士が少しだけ触れた。Kとも少しだけ目があったような気もしたが、気がつかないふりをして私はドーナツを一口で頬張り、砂糖がべったりとついた指を舐めた。
こんなに甘ったるいドーナツを、よくフラペチーノなんかで流し込めるな、と私は思って笑った。
「何でニヤニヤしてるの。そんなにドーナツが美味かったか。痩せ我慢は良く無いよ。」
私は新幹線の心地よい揺れと血糖値の急激な上昇のせいでウトウトした。
Kとの他愛もない会話をしているうち、気が緩み頭を揺らしてしまってもいた。
「俺の話がつまらないからって、寝落ちするなよ。まあでも、今日は結構楽しかったな。来週からはひとりだけどよろしく。きみは、会社で1番期待してるから。」
Kのラフな言葉に私はドキドキしていた。成功していて、センスもいいのに庶民的なところがいいなと思っていた。
自分の胸の鼓動が隣のKにも伝わってしまうのではないかと思えていた。
なにより自分のことを認められた気がしてシンプルに嬉しかった。
私は、ふと大学を卒業してからのことを考えていた。
朝まで寝ずに働いた日もあったことや、東京での暮らしとキャリアを手放し地元に戻って後悔し続けた1年間。資格を取ったりアルバイトをしながら悶々としていた日々もあったこと、など。
なぜか、後悔してきたなにもかもが、今この瞬間に救われたような気持ちがした。
その時Kと私は目があった。今度は間違いなく合っていた。どれぐらいの時間だったのかわからない。だがとにかく私にはとても長い感じがしていた。
もしかしたら、本当に長かったのかもしれない。Kの口元にはまだ、ドーナツの砂糖の粉がついたままだった。大人なのに、そこだけは子供みたいでおかしい人だなと思った。
無防備に置いていた私の手を知らないうちにKの手が少しだけ触れていた。私は身を任せてその手を握り返してみた。多分、その時はそうしたいと思ったから。
Kは少し驚いていたが、お互い特に手をどけるこどなく私たちはそのまま席に座ってじっと過ごしていた。
互いに言葉は何もかわさなかったが、なんとなくその時は、これで良いと思えていた。
新幹線のアナウンスが私たちの降りる駅に到着する旨を伝えた。互いの深いため息が重なる。とても胸が苦しかった。
私たちはその後、無言で新幹線を降り、改札を出た先で何事もない素振りをしまた明日会社でと言って別れた。
その後の私は、なによりも仕事に邁進した。
その当時付き合っていた恋人とは、なぜか次第に話が合わなくなって別れてしまった。
学生時代から何年も好きだった映画や音楽などを楽しむ時間を犠牲にもした。映画館に通うことを忘れて、その代わりに仕事に時間を割いた。
「これから先、知っていて困ることはないから」
Kは、私にAdobe Illustratorと Photoshop、一眼レフでの撮影のことなどを一から丁寧に教えていった。私は毎日それらに夢中になっていた。本当に仕事の方に夢中になっていたのかどうかはわからなかったが、私にとってそんなことはどちらでもよかった。
まるで全部があの新幹線の日からすでに決まっていたことかのようだった。
その時間はあっという間にすぎて行き、その間にはあってはならないような出来事もあったかもしれない。でもしばらくすると、それらは何事もなかったかのように私から消え去っていった。
一年ぐらいしてKは自分の会社を去り、私も程なくして会社を辞めた。
もう今は、それがまるで他人のことだったと思えるほどの月日が経っている。
あれほど愚かだった時期はなかったと思っていたことを、こうして文章に書けるぐらいには、過去の出来事になった。
そういえば、あれ以来私はドーナツを食べていないような気がする。
本当は食べていたのかもしれないが、なぜだかよく覚えていない。
最後の記憶は、どうしたってあの真夏のベタベタに溶けた、シュガードーナツになってしまうのだ。
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