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人の日記を読む理由

今朝、珍しく5時半に目が覚めた。休日で、しかも特に予定もない日に限って早く目が覚めて寝られなくなるのは何故なのだろう。

今日は、夫が仕事に行くというので、普段はほとんどやらない弁当作りなどをしてみる。部屋に鮭の焦げた匂いが充満してしまい、少しだけ後悔したが、卵焼きは美味しくできたので一安心。2月後半とはいえ、この時間はまだまだ外が暗い。6時頃、朝焼けを見ながら、窓際でインスタントコーヒーを飲んだ。豆を挽いたり丁寧にドリップしたりするほどの気力はなかったが、窓際で早朝、外を眺めて物思いにふけながらコーヒーを飲む、という行為には昔から憧れがあるのだ…。

朝が苦手な私にとって、こんなことは滅多にない。せっかくなので、このまま読書でもしようかと思い、手に取ったのは、Amazonで買って楽しみにしていた「新潮」の3月号。永久保存大特集。『創る人52人の「2020コロナ禍」日記リレー』が読みたくて買った。(人気だったようで、どこに行っても完売していてなかったのだが、一昨日、やっと再入荷したみたいだ)

誰もが知るような作家やミュージシャン、芸術家などが1年365日をリレー方式で書いた日記を読んでみると、「皆、普通に暮らしていて、同じようなことを思って生きているのだな」ということが分かって、なんだかすごく安心してしまう。

どんなに素晴らしい作家さんでも、夜にはネットフリックスで海外ドラマを観たり、朝はだるくて起きられなかったり、寝られない夜には睡眠薬を飲んでいたりする。少しでも喉が痛かったり頭が痛くなったりすると、「もしかして」と不安になったり、久しぶりに友人たちと外食をして楽しんだ帰り道には、行きずりの一夜を過ごしたような後ろめたさを感じていたりする。
何もしない1日もあるし、自分だけ世界から取り残された気持ちになる日もあるし、忙しかったのに全てが無駄になった1日もある。
日々の食事が美味しいことが何より幸せで、今の生活に不安もあるし絶望もするけれど、どこか楽しんで、楽観視している自分もいる。

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普段SNSで見かけるような、着飾られた言葉や作られた写真、部分的に切り取られた解釈などに、嫉妬心や虚栄心しか感じなくなってしまっていたことがある。(もちろんいい面も恩恵を受けている面もある)

たくさんの情報やたくさんの言葉、たくさんの映像や写真があるのに、なぜか自分の持っていないものばかりに気づきを得てしまい、最終的にどこか虚無感みたいなものを感じてしまっていたのだと思う。

以前よりも人の温度や気配を感じにくくなった今、日記のような、人間の息のかかった言葉には、人の現実や日常や体温が乗っかっているような気がして、私は単純にいいなと思った。

自分がひとりで抱えて悩んでいたことや、言葉にするまでもないけれど頭の片隅で感じていたことを、別の誰かが言語化してくれていたら、たとえそれに解決法など書いていなくても(むしろ書いていなくてよくて)その時点で、救われたような気持ちになる。全く自分とは価値観の違う言葉や感情にも、驚きと気がつきがあり自分の人生まで豊かになった気分になる。

映画や小説や美術などに触れた瞬間にも同じようなことを思う。

だから私はきっと、創作物が好きなのかもしれない。

こんなことを書いていたら、もう外がずいぶん明るくなってきていた。

今回の新潮は、ずっとずっと後になって読み返した時に「あの年って、こうだったなぁ」と別の気持ちで思い出させてくれるんだろうなと思うと、今から少し楽しみだ。

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