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父と麻布十番の思い出

私の父は、58歳の時に上京して麻布十番に住んでいたことがある。

生まれ育った地方都市を58年間一度も離れたことがなかった父が、退職の2年前の3月に、東京支社への転勤の辞令が出されたのだ。

「本当に青天の霹靂だったよ。まさか俺が東京なんてさ。」

ずいぶんと興奮した声で、東京に住む私に電話でそう話していたことをよく覚えている。

父は昔から、私や兄が18歳から暮らす東京に遊びにくると、決まって家族で居酒屋へ行き何軒も夜中まで飲み歩いた。

「俺も東京のサラリーマンやりたかったなぁ。だって絶対に楽しいじゃん。」

車社会の地方では、夜にいつでもどこかのお店でお酒が飲めたり、いつでもひょいっと映画館や美術館に行ったり、散歩がてらスターバックスでコーヒーを飲んだりするという当たり前のような都会の暮らしに、誰でも強い憧れがある。
昔からそういう類のことが好きだった文化系の父は、特にその思いが強かったようだ。

何年も何年も、東京に遊びにくるたび、父は「俺も東京のサラリーマンやりたかったなぁ。」と言い続けた。

少なくとも、10年は言い続けていたはずだ。

その言葉を引き寄せたのか、父は58歳でそれを実現し、2年後の退職の日も東京で迎えた。何千人といる会社の中で、毎年たった一人だけがその支社の所長になれるらしい。父は自分で希望したわけでもなく、まるで空から降ってきたかの如くそのポジションを勝ち取っていた。

父はずっと、地に足がついた暮らしを好み、目の前を地道に歩んできた人だ。
父のお父さんである私の祖父は、自営業でテーラーを営み、苦労してきたという。「自営業なんてやるもんじゃない。しっかりした会社で安定した暮らしこそがなによりの幸せだ」ということを、幼い頃から刷り込まれて、父は育った。

29歳だったその頃の私は、ひとりで東京に住み、どちらかと言えば世間体のいい仕事や、華やかな環境ばかりを最短距離で追い求めていた。誰よりも先に、自分なりの最短ルートで、いい暮らしがしたい。そう思い続けた結果、心も身体も随分すり減らしていた。

この時の父のおかげで、地道に生きていればこそ、思いがけないところから幸運が降ってくるのだと、少しずつ思うようになった。

それと同時に、たとえ遠回りだとしても、願い続ければいつかは、そして何歳からでも、叶うのだということも。

***


土地勘のない父がたった一人で決めてきた住処は、麻布十番の駅から徒歩10分ほどにあるマンションだった。

「なんかさ、歩いていたらいい街だと思ってさ。俺、ここにピンときちゃった!」

まるで10代の若者が初めて親元を離れて上京する時のようなテンションで、嬉しそうに父は言った。

ちょうどその頃、私は父と入れ替わるようにして東京を去った。父が上京することで実家の母が祖父母二人の介護をたった一人で請け負うことになる。私が直接介護に携わるわけではなかったが、ちょうど東京での一人暮らしに限界を感じていた私にはいい口実ができたと思い、地元に戻る決意をした。

父の上京のおかげで、私と母にも、東京に第二の住処ができた。
母は、日々の介護で気持ちに余裕がなくなると、祖父母をショートステイの施設に預けて、たびたび父のいる東京に遊びに行った。「お父さんがちゃんと食事できているか心配だから。」と言っていたが、東京はずいぶん母の息抜きになっていたようだ。

麻布十番を拠点に、両親はいろいろなところに出かけた。観劇や美術鑑賞、ライブにショッピングに都内の仏閣巡り。たったこれだけのこと、かもしれないが、日常の延長にすぐにこれらに手が届くことは、ずっと地方に暮らしてきた両親にとって特別なことだったのだと思う。
父は、ほどなくして自転車を購入し、都内のさまざまな場所へサイクリングに出かけるようにもなった。毎日仕事が終わると、六本木のTSUTAYAで夜に観る映画を借りて、一階のスターバックスでコーヒーを飲みながら本を読むのが日課だと言った。
まるで、大学で上京した時の18歳の私をみているようだった。

ある時、思い立って東京の父のところに遊びに行ったことがある。その日は平日で、私はお休みだった。
父は急遽午後の半休をとり、私たちは午後3時に麻布十番の駅で待ち合わせることにした。

「急に来るなんて珍しいじゃない。そうだ、今すぐ焼き鳥食わない?仕事帰りに寄っても満席で入れないんだよ。ちょうどよかった。」

麻布十番にある老舗の焼き鳥屋「あべちゃん」で、私たちは焼き鳥を食べた。私はレモンサワーを飲み、父はビールを何杯か飲んだ後にハイボールを飲んだ。私たちは何を話すというわけでもなく、目の前で焼かれる焼き鳥の串を黙々と頬張り続けた。あぁ、これは塩で食べてもおいしかっただろうなと、長年煮込み続けたと思われる特性の甘辛いタレが絡まった鳥モモの串を食べながら思った。どれもが美味しくて何本も何本も食べ進んでしまう。

「お前を振るような男なんてロクでもないよ。もう忘れちゃいな。もっといい男いるでしょ。あ、レモンサワー追加で!」

父は勝手に私のレモンサワーを注文していた。それから私たちは互いに最近観た映画の話をしたり、父の初めての東京ライフについて話し合った。私は昼間から酔える幸福感と、美味しい焼き鳥、妙に酸っぱいレモンサワーと、相変わらず手荒い父の性格のおかげで、だんだんと失恋のことなどどうでもよくなっていた。

同じ年の秋、ロンドンの一人旅を終えて羽田空港に降り立ったばかりの私は、そのまま一泊だけ父のマンションを訪れた。

この時は、父がお気に入りだという「山忠」という大衆居酒屋に行った。古き良き飲み屋という趣のこのお店は、近隣の住民がいつでもたくさん集っていて賑やかだ。ヨーロッパで単調な味の食事ばかりしていたので、日本食が五臓六腑に染み渡るようだった。だし巻き卵やしめ鯖、煮込みやカキフライなどをつまみに、やはり私はレモンサワーを飲んだ。日本食の何層にも感じる味わい深さに舌を唸らせていた。やっぱり日本はいい。ビートルズ好きの父に、つい数日前に行ったアビーロードの写真を見せて自慢すると、「うわー悔しい!俺もいつか行く!」と言って笑った。
私たちが座るカウンター席の隣にはテレビ業界と思わしき人たちが熱い議論を交わしていたり、後ろの方では地元の常連のおじさま達が淡々とお酒を飲みながら定例会のようなものをしていた。反対隣には上品な雰囲気の50代ぐらいの女性が、日本酒を飲みながら秋刀魚をつついている。その人が放つ只者ではない独特のオーラは作家の方のようにも見受けられた。
確かに、この街は魅力的だ。父だけでなく、これまでもたくさんの人が惚れ込んできた街であるわけである。


58歳で上京した父でさえ、暮らしはじめて2年も経つと、立ち振る舞いや身なりが都会の人のそれとなり、街に馴染むようになっていた。 
通な店をよく知るようにもなり、電車を使わずとも頭の中に東京の地図が入っているようでもあった。

笑っちゃう話だが、人は何歳からでも垢抜けることができるんだなと私は思った。
それに、何歳だって、新しい環境に飛び込み、人生を楽しむことだってできる。
何年も保守的な環境を好んできた父が、それを証明してくれた。

「俺に辞令が出たことって、間違いなく神様からのプレゼントだと思うんだよね。」

いまだに父は東京で暮らした日々をそう話している。

長年、家族のために地道にひとつの土地で生き、働き続けてきてきた父にとって、あの頃はもう一度訪れた青春だったんだろう。

私たち家族にとっても、なんだか宝物みたいな日々だったように思う。


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