80年代シティ・ポップの存在しない懐かしさ
存在しないし、見たこともない世界を結構な数の人が「懐かしい」と言ってる。しかも世界中でだ。
何かというと日本の80年代「シティ・ポップ」と呼ばれるジャンルの音楽。今回、音楽に興味ない人には???な話だと思うけど。
ちょっと前から「来てる」と言われてたシティ・ポップ。いまのところいい感じに来てる気がする。ほら、何でもいまって「来てる」ものにはみんな全力で乗っかって消費するのがルール。トーキョーシティー・ヒエラルキーだから。
なのに、変な消費をされずに(リアルタイムのコンテンツじゃないから消費しようがないのもあるけど)、日本だけじゃなく海を越えて世代も超えてシティ・ポップへの愛が語られてるのはなんかいいなと思う。
しかも個人的に、今の流れが嫌じゃないのは「わからなさ」も崩されずに、書き換えられずそのままシティ・ポップ愛が語られてるところだ。
はい。また変なこと言ってます(自覚)。
たまにシティ・ポップが取り上げあられるときに「都会的な洗練された音楽」みたいな説明がついてくるけど、それだって「一応、そういうふうにしておこう」ぐらいな感じで、誰もシティ・ポップの明確な定義なんてできないし、そこはどうでもいい。
なぜなら、海辺の太陽がまぶしかったり、高速から流れ去るネオンが甘くささやいたなら、それはもうシティ・ポップなのだから。そこに説明はいらない。
2019年のいま、そんなのちょっとないと思う。目に見えてわかりやすく、何秒で説明できるものじゃないと「トレンド」に入れてもらえない時代に、説明もいらなくて、誰もちゃんとはわからないのに国も世代も超えて愛されるシティ・ポップの世界。
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だいたい歌詞の中で、男性が謳う女の人は「思わせぶり」で「光る波間に揺れて」「僕の前をすり抜けていく」。なんだろう。ゴーストかな。
あと、だいたいどこかに独りドライブしたり旅に出て「捉まえられない思い出」を「もどかしく見送る」のだ。
女の人が謳う歌詞の中の恋や愛は「あの日からずっと時が止まり」「今にも崩れ落ちそうな日々」を抱きしめて「ショーウィンドウに映ったふたり」に振りむいてしまう。(どれも本当の歌詞じゃなくイメージです)。
こんなふうに書くと、ふざけてるように思われるかもしれないけど、そうじゃない。わりと、真面目にすごいなと思ってるのだ。lyricsも含めて、いったいシティ・ポップの何がそんなに世界の音楽好きを狂わせてる(もちろんいい意味で)のだろうと。
竹内まりやさんの『Plastic Love』なんて、世界中で再生回数がおかしなことになってるし、永遠に続くかと思われた削除騒動もあまりの世界中からの純粋な愛の前に、ついに公式さんも広告収入なしを条件に折れたし(そもそも広告収入云々の次元じゃなかった)。
で、無事に今でも聴けるようになった『Plastic Love』のYouTubeは、世界からの愛の告白であふれてる。もちろん、他のアーティストの楽曲にも。
海外のリスナーなんて特に日本の80年代を生きてもいないし、その時代の音楽と混じり合った空気も吸ってない。なのに、いろんなコメントの中でシティ・ポップの世界に「Nostalgia(懐かしさ)」を感じてると書かれてる。
自分には起こらなかったことなのに懐かしい。それを説明するのはとても難しいと海外の高校生がコメントしてたりするのだ。
そんな僕も、たまに聴きたくなってしまう。自分でも理由はよくわからない。
ただ、消費とかバブルの象徴みたいに教えられてる80年代のシティ・ポップが消費されずに2019年のいま「聴かれてる」のは、ほんとふしぎだしおもしろい。消費されずに残るだけの何かがなければこんなふうにはなってないだろう。
シティ・ポップに限らず音楽がただ好きなリスナーとして、説明のいらない引力を持った音楽がずっと消えずにあってほしい。
こういうnoteは特に読まれないこと山のごとしだけど、なんとなく書いておきたかった。ただそれだけです。
シティ・ポップ聴いたことないよという人は ↓↓