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歴史を変える大発見!ヴェネツィア、トルチェッロ島にて

 ヴェネツィアのいくつかの離島のうち、カラフルな街並みで知られるブラーノ島から、水上バスで10分もかからないところにあるトルチェッロ島で、歴史を塗り替える大発見があった。昨日7月24日、イタリアの主要メディアから、ローカル、美術、歴史、考古学の専門サイトなどが一斉にオンラインで報じる中、実際の発掘・修復調査に携わっているヴェネツィア大学のサイトにも詳細が出ていたので、かなり長くなるけれど、内容をざっとここに記しておきたい。

 水上都市ヴェネツィアで、最初に町が作られれたとされるトルチェッロ島に、サンタ・マリア・アッスンタ聖堂がある。鐘楼に上ればラグーナ(潟)一帯からヴェネツィア本島まで眺められ、聖堂内には、ガラスのモザイクによる壁画が残る。中央アプシス(後陣)上には、かつて須賀敦子さんが「これだけでよい」と記した聖母子像が、金色の地の上に浮かび上がっている。

 そのサンタ・マリア・アッスンタ聖堂で、9世紀の碑文とフレスコ画が発見された。
 聖堂内、正面に向かって右の側廊奥の後陣の半円蓋には「大天使に囲まれた玉座の救世主キリスト像」、天井には「4人の天使に支えれらた神秘の子羊」がそれぞれ、モザイクで描かれている。いずれも11世紀後半に制作されたもので、今回、この部分の修復作業、すなわち不安定な部分の固定、補修などが行われていた。モザイクの描かれた、つまり色ガラス片が埋め込まれた壁と、構造壁との間の部分のすす払い・・・とでもいうべきか、ともかく中世以来の漆喰片や補材でいっぱいだったらしいが、そこの清掃を行ったところ、その壁に、文字や絵が描かれているのが見つかった。
 教会や古い建物の壁や漆喰の中から、壁画や装飾が見つかるのは、イタリアではそう珍しいことではない。ここで大きなニュースとなっているのは、この装飾がヴェネツィアの歴史通説を大きく覆すことになるかもしれないから。
 これまでの調査で、この祭壇の基礎にあたる部分は、9世紀に造られていたことがわかっている。文献には、9世紀当時、教会内の壁がフレスコ画が描かれていたことが記録されている。今回発見されたのは、わずか数メートル四方であるが、それにあたると考えられる。その後、12世紀に強い地震にも襲われている。

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 発見された絵や文字について、詳細な調査はまだまだこれから。だが、描かれているのはまず、ヴェールを纏う聖母マリア像で、玉座のようなものに腰掛けている姿。また、はっきりしないがもう1人、光背をつけた人物が描かれており、「受胎告知」の場面である可能性がある。対面の壁には、明らかに他の物語が描かれているが「sanctus Martinus」の記述がはっきりとみて取れるため、聖マルティーノの物語の可能性が高い。
 これらの絵や文字は、ヴェネト州内全体から見ればもちろん最古ではないが、ヴェネツィアのラグーナ内では、最古のものとなる。

 9世紀当時、これらの絵は、「豊穣の角」で縁取られ、ざくろや動物の模様で飾られていた。鮮やかな色使い、自然な表現、顔料が盛り上がるほどの筆致、と、疑いなく、当時のハイレベルの画家、工房の手によるもので、教会の内壁全体を覆っていたと考えられる。今回の調査では他に、当時の堂内を飾っていたレリーフで、その石材が時代を経て、別の部分で再利用されていたものも見つかっている。教会の床もまた、大理石や色石を使った現在の床の下に、白黒のモザイクによる装飾がわずかではあるが残っている。
 今目の前に残されているサンタ・マリア・アッスンタ聖堂は、そのきらびやかなモザイク画とその表現様式から「ビザンチン」スタイルと評されることが多いが、実際にはその構造もかつての装飾も、ビザンチン様式というよりはむしろ、イタリア北部平野地帯からアルプス地域で多くみられた様式であると言える。そして今回発見されたフレスコ画は、明らかに中世初期ヨーロッパの「カロリング朝」様式に近い。これは、単に美術的表現の違いに止まらず、政治、文化的に、ビザンチン由来なのか、あるいはヨーロッパ大陸由来なのか、というヴェネツィアの成り立ちそのものに関わる重大な発見と言える。

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 この地に教会が最初に立てられたのは、7世紀に遡る。その後、9世紀に大きな聖堂へと建て替えられた。今回の発見はこの時の証である。その約150年後、11世紀に入ると、当時のヴェネツィアの総督の息子、オルセオロ司教がこの聖堂の大改築のため、ビザンツ帝国からモザイク職人らを呼び寄せた。つまりそれは、ただ単にビザンツ風の教会の真似をしたいということではなく、地中海内で勢力を拡大しつつあったヴェネツィア共和国の政治的立場の表明であったと言える。

 ビザンツ、すなわち東ローマ帝国の拠点であった内陸の町が、度重なる蛮族の侵入から逃れてラグーナへ移住しここで町を興した。つまりヴェネツィアは、ビザンツ帝国、あの偉大なるローマ帝国の流れをくむ正当な国である、というのがヴェネツィア史の伝説であり定説になっているけれど、これはヴェネツィア共和国が記してきた歴史を鵜呑みにしてきたにすぎない。歴史は勝者の、都合のいいようにのみ書き記されている。ヴェネツィアの成り立ちは実際はもっと複雑であったはずとする専門家らの研究が、少しずつ、だが確実に実を結びつつある。

この記事は、ヴェネツィア大学のサイトを全面的に参考にしました。
記事本文中の写真も同サイトから拝借しています。

https://www.unive.it/pag/14024/?tx_news_pi1%5Bnews%5D=9235&cHash=5083a549eb7d3be36da411d0ffb18dd3

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Fumie M. 07.25.2020

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