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卒業の日

 2007年7月11日、ヴェネツィア大学「カ・フォスカリ」を卒業した。・・・というとよく、え、そんな真夏に卒業式があるの?と尋ねられたりするけれど、その当時、イタリアのおそらく多くの大学で、想像するような「卒業式」というのは存在しなかった。今ではヴェネツィア大学でも、1年間の卒業生をまとめて、観光の中心地であるサン・マルコ広場でいわゆる卒業式をやっているようだけれど、正直、大学のほとんどの学生にとってあまり直接的に関係のない広場の卒業式でも何らかの感慨があるのだろうか・・・と思ったりするのは、もしかするとちょっと僻みかもしれない。アメリカのテレビドラマなどで見たことのある、いわゆる欧米の大学の卒業、というのだろうか、あの四角い博士帽みたいなものを被って、最後それを一斉に投げたりする、ヴェネツィアでも今は、そんな卒業式が行われているようだから。

 その頃は全く違った。規定の単位を取って、卒論を書いて、卒業する。そこは普通、でも、1年の間に、卒論を提出できるタイミングが3回くらいあって、当然のことながら準備ができたところで提出し、卒業の手続きを行う。出せばOKでは当然なく、しばらくすると卒論の口頭試問の日程が発表される。2週間から3週間にわたる口頭試問の期間は予め(だいたい)決まっているものの、その中で自分が実際にあたる日時がわかるのは、せいぜい数週間前のことだった。

 そうして迎えた当日。順番が来て、名前を呼ばれ、会場に入る。教壇の中央は誰だったのか思い出せない。右方に指導教官、さらに副担当の教授、そして左方には、ほんとうにラッキーなことにその学生時代、最も多くの授業に通い、卒論の指導をお願いしようか最後まで迷った、私のことをよく知ってくれている敬愛する教授がニコニコとこちらに笑顔を向けていらした。

 会場には、友人や家族など誰でも入ることができる。まるで応援団のごとく、その卒業を心待ちにしている親戚一同や大勢の友人に囲まれて臨む人もいれば、一切の立ち会いを断って1人で臨む人もいる。私の時には、数人の友人と、日本から母が見届けにきてくれた。

「あなたの研究について説明してください」。
 第一声は正直、よく覚えていない。ただ、ともかく論文のイントロダクションを丸暗記して、それを唱えるよう言われていたのだけど、著しく暗記の苦手な私は最初の数行すら覚えることができず、手元に目を落として読み始めた。半分を超えた頃だろうか、指導教官から、ごく自然に論文の内容についての質問が出された。そうした質疑応答が2つ3つ、いやもう少しだろうか、あって、「おつかれさまでした、もう結構です」。「ありがとうございました」。

 ここで一旦、本人も、家族や友人も全て廊下に出される。ドキドキと待つ。しばらくしてまた「どうぞお入りください」。

 今度は教壇から皆一斉に笑顔を向けている。「学業成績合計x点、卒論x点、合計x点でここに卒業を認めます」。拍手と、それぞれに「ありがとうございます」と握手をする。今でもそうなのか、当時のイタリアの大学の卒業成績は、110点満点だった。特別に優秀な成績と認められると、110点に「ローデ」というのがつくことがあって、優秀な学生たちは「110点ローデ」を目指していた。私はそれまでの試験の成績が悪くて、卒論でどんなに頑張っても110点には届かないことはわかっていたし、と言って、確か卒業できる及第点はクリアしていたのだったと思う。

 3年の学部コースを、6年半かけてようやくたどり着いた。頑張った、長かった、自分おつかれさま・・・。

 大抵の学生なら、わーっと盛り上がって威勢よく街中を練り歩いたり親戚一同に囲まれてご馳走ざんまいになるところ、乾杯もそこそこにそのまま母と共にミラノに向かった。その時、実は母は叔母とその友人たちと一緒にイタリア旅行に来ていて、翌日ミラノから日本へ帰国する予定になっていた。叔母たちも前日まではヴェネツィアに滞在していて、タイミングが合えば一緒に卒業試問に付き合ってくれることになっていたのだが、ともかく試問の日時が確定したのが遅すぎて、見込みで飛行機やら宿やら、予約してしまっていたのだった。それがよりによって、ミラノからの出発の前日・・・。あのとき母は、言葉もほとんどできないのに、私の卒業試問の前日、叔母たちを一旦ミラノまで送り、1人でヴェネツィアにトンボ帰りして、試問を見届けてくれたのだった。

 卒論のタイトルは「16-18世紀の西洋図像における日本の服装」。その後、研究の道を極めるタイプでもなく、できる仕事、お声がけいただいた仕事を何でもやってきたけれど、つかず離れず、ここでやったことがしばしば役に立ってきた。そして15年以上もたった今でもなお、あの時学んだことを直接・間接に生かせる仕事をしている。

 すてきなテーマを提案し、言葉も怪しい学生を根気よく指導してくださったドレッタ・ダヴァンツォ・ポーリ先生と、ともかく卒業するようにとずっと日本で応援してくれていた母と。毎年この日が来ると、あの時のヴェネツィアの青い空を思い出し、感謝してもしきれない2人に思いを寄せている。

11 lug 2024

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