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それでも人生は美しいー韓国ドラマ「まぶしくて」② <私的考察1>

考察と言っても、私が気づいたことをつらつらと書いていく形で進めたい。

ドラマをみて、終盤になって、彼女がアルツハイマーであるという衝撃の事実を知り、答え合わせのようにふたたび再生したのでした。

ヘジャの認知症によるせん妄は、妄想と、事実からの影響と、事実のすり替え等が入り乱れているように思います。
どのシーンが現実のジュナとヘジャとで交わされた会話なのか、これはヘジャがジュナに言いたかったことなのではないか、いろいろ想像しながらみると、また違った側面が見えてくるように思います。

老人になったヘジャが、ひとときだけ、25歳のヘジャに戻ってジュナと会う6話の夢シーンには、そんないろいろが詰め込まれているように思えます。
「ジュナ、私、おばあちゃんになっちゃったの。笑えるでしょ?」
自分は年老いたのに、いつまでも夫ジュナだけは若く美しいまま。
「ジュナ、一度でいいから抱きしめて」
ヘジャのジュナへの想いが伝わる美しいシーンです。


そして、まずは、海とヘジャとジュナの関係について、考えたい。

ジュナの死後、遺骨を抱え海辺に立っていた現実世界の若いヘジャは、なぜ海にいたのでしょう。
海とジュナは、分かちがたく繋がっている。
実際の老ヘジャも、現実と妄想が入り乱れる中で、何かを求めるように海へと行っていた。
そして物語の始まりである時計は、せん妄の中で、砂浜に埋まっていた。
そして同じくせん妄の中で、若いヘジャとジュナが、初めてお互いの存在をはっきり認識するシーンが出てきますが、それも海辺でした(公園で会ってはいたけれど)
これは、実際にもあった出来事なのでしょうか。

そして70年代、夫ジュナがヘジャと出会った当時、彼が自殺しようとしてそれをヘジャが助けたという事実があります。
もしかしてジュナが自殺しようとしたのは海。ということもありえます。
6話夢シーンで、自分自身を傷つけようとするジュナをヘジャが止めますが、その後ジュナが大泣きしてしまいます。あのあたりは、実際にあったことなのかもしれません。
二人がデモで会ったというのは再会で、その偶然の再会が、運命だということなのではと私は思います。もしくはデモで会い、海で再会した。

そしてあの、海辺に立つ、白装束のヘジャです。
韓国の白装束ですから、ジュナのお葬式か納骨か何か法事の時だと思いますが、なぜ、ヘジャは海にいたのでしょう。
あの時彼女は、後を追いたかったのではないでしょうか。寂しく生きてきたジュナを一人で逝かせるのが、どうしてもしのびなかった。ずっと一緒にいようと誓い合った二人だったと想像できます。
でも可愛いひとり息子テサンがいた。
テサンを頼むとジュナにも言われていた。
そしてあの時計を取り返せないままで諦めるのは、どうしても、悔しかったのではないでしょうか。
もしかして骨の一部を海に流したのかもしれない。そう妄想してしまうくらい、ヘジャの中で、ジュナと海とが重なりあっているように映ります。
「寂しい人をひとりで逝かせてごめんね」
これは様々な意味を含んでいて、あの時一緒にいてあげる選択ができずにごめんね、そういった意味も、もしかしたらあるのかも。
だからヘジャにとって、海=ジュナなのではないでしょうか。

せん妄の中でジュナを救った後、バスの車窓から見えた海が、まるで笑っているようだとヘジャは言います。
助けてあげられなかったことがずっと申し訳なかったジュナを妄想の中でも救い出すことができて、彼が満足してくれていると、ヘジャには思えたのでしょうか。


そうして海の次に、あの腕時計について考えたいと思います。

ヘジャの中では夫ジュナの死以来、時間はすっかり止まっていました。美容師となり時が停止したかのような美容室で、ただただ年齢を重ね、老化していった。(いつの間にか老人になってしまったせん妄の中のヘジャと、実は変わらないのかもしれません)
ヘジャの止まった時間は、時計と海に、しっかり紐付けられている。
ヘジャは、ジュナのところに行ってしまいたい(死にたい)と思いながらなんとか耐え、足の悪いテサンを必死に育て、あの時計を取り返したいという悔しい思いを抱えながら、ギリギリ生きてきたのでは。
2人を救えなかった罪悪感も抱え、自分には生きる資格がないように思えていたのだと想像します。
障がいを負うテサンにあまりにも厳しいのは、彼を一人前にした後で、いつか自分はいなくなるかもという漠然とした無意識の現れなのかも。一人でも生きていけるようにと必要以上に厳しく育ててしまった。

でもそのせいでテサンは心を閉ざした人間に育ってしまった。彼と息子ミンスの関係もギクシャクしている。まるで彼もずっと地下室にいるようだ。そのため妻のジョンウンもまた、地下室に閉じ込められているかのように不幸になった。
ヘジャは周りの人間をも不幸にしたこれまでの自分の生き方を後悔していたのかも。
ジュナやテサン、ジョンウンを暗い地下室から解放してやりたかった。それがヘジャの望みだった。

かつて腕時計を盗みジュナを死に追いやった元刑事。ジュナに瓜二つなヘジャの主治医。その二人に出会ったことで、ヘジャのせん妄世界の時間は動き出した。
時計を取り返す。それは実際のヘジャの密かな人生の目的のひとつだったのかもしれない。
時計を取り返したら若い自分に戻りジュナに会えるはずだと必死になるせん妄世界の老ヘジャ。
現実世界でも、時計を取り返さないことには申し訳なくてジュナには会いに行けない(死ねない)とずっと思っていたのかも。
時計への異常なる執着。
ジュナとの幸せな思い出、不幸せな思い出、それがあったから生きてこられたとは、そういうことも含んでいそう。


そしてここからの畳み掛けが、このドラマの圧倒的に凄いところだと思います。

ヘジャは地下室のジュナを救い出す妄想が成功した後、現実の世界で、ジュナを死に追いやった憎い男が差し出してくる時計を結局受け取らず、さらにはぽんぽんと彼の身体を触り、なでます。
これは、不幸だと思っていた自分の人生を、最後の最後で、彼女がそのまま肯定して受け入れたということなのだと思います。
人からは不幸にしか見えない人生でも、それでも、この人生を生きられてよかったのだと。
幸せな思い出も、不幸せな思い出も、等しく自分の人生だと受け入れたのです。
罪悪感にまみれて生きる資格がないように思えた自分を、自分自身で、寛大に赦した。
そして憎い男もまた、地下室にいる苦しい人なのだと、別の修羅を生きたのだろうと、その憎しみを手離し、赦したのです。

時計は実はヘジャにとっては死への象徴です。
使えば使うほど死に近づきます。
現実の人生でも、もし刑事から取り返すことができたなら、ジュナの元(死)へと近づくことを意味する死のアイテムのようにも捉えられます。
いつも死がちらついていた人間(ヘジャ)は、最後の最後で、生あるかぎり生きてみようとする人間となった。だからヘジャは時計を受け取らなかったのだと私は思います。
ヘジャは時計をジュナのもとへと届けるのをやめます。そしてそのことを彼に謝っています。
アルツハイマーになり、記憶が朧気になっていく恐怖の中、人生の最後に、いろいろな心のこりを精算し、せん妄の中とはいえ自分自身や大切な人を自ら地下室から救いだして、そしてそのままここにある人生の価値をやっと受け入れたのでしょう。
ようやく、気がついたのです。

夜明け前の冷たい空気
花が咲く前に吹く甘い風
黄昏時に流れ出る夕焼けの香り

自分の人生に
まばゆくない日はなかったと。
いつもまぶしかったのだと。

寂しい人をひとりで逝かせてしまった罪悪感、お迎えが遅れて子供を障がい者にしてしまった罪悪感、そこからようやく解放されたのです。「自分を苦しめていたのは置かれた環境や状況ではなく自分自身だった」と、夫ジュナと架空ジュナの二人ともが言っていました。それは、ヘジャの気づきでもあるのだと思います。

最後のシーン、ヘジャの生死の解釈の分かれるところですが、どちらにせよ、ヘジャは長い間、夢にも出てきてくれなかったジュナに、まっすぐに駆け寄ることのできる気持ちで胸に飛び込んで行けたのだろうと思います。
彼女の苦難に満ちた人生を思うと泣けます。
そして様々なことを濾過して最後に残る彼女の1番の望みが、
「ジュナとずっと一緒にいること」
だったのだと思うと、また泣けました。
ジュナのことが、本当に本当に好きだったのですね。
個人的には白い服を着ていたので、ヘジャは天寿を全うしたのではないかなと思います。
ジュナが迎えに来てくれたのかな。
これから2人はずっと一緒にいられるのですね。


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まだまだ「まぶしくて」感想追記

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