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まだまだ「まぶしくて」―感想追記

記事は書き終わったのに、まぶしくてへの想いが後から後からまだいろいろ出てくるので、しつこくここに書きたいと思います。
思いつくままにだらだら書きます。

時間を遡る時計の力を使ったことでおばあさんの姿となったヘジャ。いつか若い姿に戻れてジュナとハッピーエンドを迎えるのだろうと想像しながら、それがいつかいつかと引っ張られる気持ちで見ていた視聴者も多かったのでは。私もファンタジーラブストーリーだと思いながら見ていました。
でも実際は、時間は遡れないし、若者は一足飛びに老人にならないし、老人はもちろん絶対に若者には戻れない。夢から無理やり覚醒させられるようにドライな事実を終盤になってから突きつけてくる現実的なドラマでした。

ヨンスのネット配信中、窮状を嘆き不満を溢す若者のコメントに対して、登場したヘジャが『老人ならば誰も働けと言ってこないしずっと寝てられる。でも誰も変わりたくないでしょ?』というようなセリフを口にします。
そこに人間社会のヒエラルキーの真実を見る思いがしました。もしも金持ちで権力があってそして元気だとしても、その人がもしも老人であるならば、とって変わりたいと思う人間などほぼいないだろうという真実。そしてそこに誰もが向かっていくという真実。
若さというものの価値をあぶりだしていました。それは、時間というものの価値だと思います。
ヘジャがせん妄ストーリーの中で、過去に遡れることに対する等価交換の話をしていましたが、換わりに差し出されるのは、時間でした。現時点からのより若い時間でした。今私たちがいるのは残りの人生においての一番若い時間です。いつだって現地点がまぶしく貴重な場所であることをこのシーンは教えてくれます。若いまま死を迎えること、若い時間をごっそり奪われること、人はそのどちらにより痛みを感じるでしょうか。
若くしてなくなった人間(夫ジュナ)と、死んだように時間を無駄にし生きる人々(例えば架空ジュナ)には、そういう対比もあったのかなと思います。

人の生では通常、時間は前にのみ進んでいきます。そしてドラマもまた、通常は前にのみ進んでいく時間芸術です。
「まぶしくて」も、一回きり見る人が多勢であることを前提として、見て楽しめて泣けていきなりの大反転に驚き最後には感動を沸き立ててくる、よくできた構成のドラマだったと思います。
しかしまた一方で、まぶしくては立体的に構築されたドラマでもあります。見返す度に新たな世界が立ち上がるのです。
私たち視聴者は、緻密に構築された立体の中を縦横無尽に行き来して、点と点を繋ぎ、まぶしくてという世界ならではの時間を体験することもできます。
そして見ているうちに、ドラマというものが現在では戻ったり早送りしたりリピートしたり途中のどこからでも再生できたりと進行が一通でないように、せん妄というものも、時間には縛られていないことに気づくのです。

認知症を患った老人の頭の中には、その人だけの概念が構築されます。実際にあったことの時間設定は流動的となり、実際にはなかった出来事が事実として認識されたりします。
よく知っているはずの人を忘れ、知らない人を知っているかのように思い、死んだ人を生き返らせます。その人の頭の中ではそれが現実です。
現実と現実でないことの境目とは何だろうかと、普段から私はよく考えます。
実は誰もが、自分の頭の中にある出来事が現実にあったことだと、自分自身で認識しているに過ぎないのですから。
人の記憶とはいったいどこまでが真実なのでしょう。
実際私の母は、亡き夫を忘れ、自分が結婚していたことに驚き、娘の私をヘルパーさんだと思ったりしています。私と母の思う記憶とが違う状態なわけです。記憶の真実とは、いったい何を担保にされているものなのかとなんだか奇妙に思ったりします。
そういった老人の頭の中にだけある世界(錯覚)を主観的にその人の視点で10話もかけて描いたこと、それだけでも、その類いの他の作品を思い付かないくらい、画期的なことだと私は思いました。

そうやって様々な現実の縛りから解放されたせん妄世界の中で、同時に、加齢により役立たずとされお荷物として見捨てられる老人、社会から割り振られた役割から逃れられず果てにはその社会からも見捨てられがちな女性(または男性)などを登場させ、身動きとれない現実社会の問題をも視聴者に提起していたのは、ドラマとしてとても見事でした。ここにも立体的な多重構造を感じました。
「まぶしくて」とは自由なせん妄世界の主人公であるヘジャが、悪夢のような現実に捕らえられた人々を解放しようとしているドラマであるようにも思えました。

このように重たいともいえるテーマを扱い、しかもジュナの出演シーンの多くは意図的に照明まで暗くしていたにも関わらず、しかしながら、「まぶしくて」は、重たく暗いドラマではありませんでした。
ユーモアの配分が、適正で絶妙だったからだと思います。
ヨンスとヒョンジュ・サンウンチームが、主にドラマ「まぶしくて」のユーモアと明るさを担い、笑えるシーンがたくさんありました。たくさん笑いました。老人たちのふるまいにも陽気なユーモアが差し込まれていました。
そのシーンたちはドラマへと注ぐまぶしい陽光になっていたと思います。
練られたバランスの勝利ですね!

そして次に、このように素晴らしいドラマを作り上げたキャスト陣を褒め称えたいと思います。

まずはなんといっても老人ヘジャ役を演じたキムヘジャ氏!
25歳の若い女性が急におばあさんになってしまったというその戸惑いやふるまいを可愛く演じつつ、老人という存在の哀しさも浮き立たせ、アルツハイマーという病気までも正確に表現していました。患った老人の表情などはあまりに見事で感嘆しきりでした。見てるようで見てないあの病気特有の目。あの目を表現できるとは。俳優の凄さを尊敬してしまいます。
キムヘジャ氏はポン・ジュノ監督の「母なる証明」の母役をやられた方ですが、この人ならばと監督たちに思わせる凄い役者さんなのだろうと想像します。心は25歳のヘジャと、認知症のヘジャ、2人のヘジャを演じきったといえます。

次に若いヘジャを演じたハン・ジミン氏!彼女も複雑に設定されたいわば3人のヘジャ(現代の若いヘジャ、見返すと認識できる実は架空のヘジャ、70年代のヘジャ)を演じきりましたね。ヘジャの一生をかけて通した夫ジュナへの愛に私は心うたれました。ヘジャの過酷な人生を支えたジュナとのあまりに短い幸せな日々。ヘジャがジュナを愛し、ジュナがヘジャを愛した、ありふれた夫婦のありふれた日々。あの夕景は、愛と幸福そのものだったと思います。
ドラマを見れば見るほど濃くなっていく、ハン・ジミン氏が演じて見せてくれた愛情の物語を私はきっと忘れません。

そして何より、私にとってとても特別なキャラクターとなったあのジュナ!
ジュナもまた、若いジュナ、実は架空のジュナ、70年代のジュナと3人を演じなければならない難しい役だったと思います。特に架空のジュナには様々な人たちが投影されていたように思いますので。
演じたナムジュヒョク氏は、ただひたすらにジュナの苦しさとヘジャへの恋しさを体現していただけなのかもしれませんが、自分で自分を暗い地下室に閉じ込めてしまったかのようなあのジュナというキャラクターに説得力がなければ、「まぶしくて」というドラマは成立しなかったと思います。自然で完璧なジュナでした。ああ、ずっと陽が射さない場所にいるようなあの愛すべきジュナ!
そして心優しき夫、もう一人のジュナ!
全身傷だらけの身体でもうすぐ帰るからと妻を気遣っていた優しいイジュナ、、。ヘジャがジュナのことを忘れられなかった気持ちに共感させなければ、やはりこのドラマは成り立たなかったように思います。実際とても魅力的ないい男でした。彼はずっと美しいままです。
ベテランたちを相手によくやったと、ありがたいほど素晴らしかったと!ナムジュヒョク俳優に大拍手を贈りたいです👏👏👏


ジュナが若くして亡くならずにヘジャと共に年を取り老人になっていたら。
ヘジャが人生のどこかでジュナを忘れる決心をしていたら。
そうであったならば、ヘジャが最後まで大事にしていたジュナとの美しい日々も、また違って見えるでしょう。
夜があるから光が眩しいように、不幸せがあるから、幸せだった日々の美しさがより増すのかもしれません。
不変であり不変でない、人の記憶というものの不思議さを思います。
ジュナとの思い出を手放さなかったのは、ヘジャが自分でした選択です。
ありふれた日々のあんなにも美しい夕景。
その後の苦しい日々は、手放さなかったそのまぶしい光に照らされていたのでしょうね。

ただひたすらに苦しい人生を生き伸びてここまで来てしまったと感じている人に、あなたの人生はそれでもまぶしく美しいのだと。
今現在、苦しい時間にいる人には、自分で自分を苦しめることなく、まぶしい今を生きてほしいと、ドラマは終始訴えかけていました。

私にとっても、ドラマ「まぶしくて」のあの夕陽と人物たちのまぶしさは、ずっと忘れられない美しい記憶となるように今は思えています。

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