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「ノヴァーリス作品集3」 ノヴァーリス

今泉文子 訳  ちくま文庫  筑摩書房

夜の賛歌
聖歌
キリスト教世界、またはヨーロッパ
信仰と愛
一般草稿(抜粋)
断章と研究 1799-1800(抜粋)
日記


夜はやっぱりノヴァーリス


今、夜は、ノヴァーリスの一般草稿を少しずつ読んでいる。ノヴァーリス版百科事典。でも、ノヴァーリスの場合、統合をより目指している。例えば化学と音楽の融合とか。そうやって全てを融合すれば新たな地平に人間はたどり着ける、と、ある意味人間存在を世界史上最も高いところに置いたドイツロマン派ならではの考え方。それを味わう、愉しみ。
(2007 11/10)

ノヴァーリスのちくま文庫版全集から、この間買った第3巻。その中の「一般草稿」読み終えた。フィヒテとプロティノスが彼のお気に入りみたい。ノヴァーリスとは筆名で、確か「耕す人」とかいう意味。
(2007 11/22)

「断章と研究」から([ ]内は断章番号)

 詩は効果をねらってはならないということは、わたしにもわかっている-激しい感情的反応は、病気とおなじく、それこそ致命的なものである。
 レトリックでさえも、国民病や妄想の治療のために方法をわきまえて用いるというのでなければ、誤った技法でしかない。激しい感情的反応というのは、薬剤と同じであり-これを玩んではならない。
(p308 [35])

 色彩は、いわば物質と光の中間状態であり-光になろうとする物質の努力-それとは逆に物質になろうとする光の努力-である。
 性質とはすべて、上記の意味で-屈折した状態なのではないか。
(p309 [43])

 そもそも音楽的状態が自然の根本状態であるようにわたしには思える。
(中略)
 こうしたものは、過ぎ去った、歴史的な存在である。自然とは石化した魔法の都である。
(p312 [65])

 物語は、夢とおなじく、脈絡がないが、連想に富んでいる。詩作品は-もっぱら快い響きと美しい言葉に満ちているが-いっさいの意味と脈絡を欠いており-せいぜい個々の詩節が理解できるだけである。詩作品は、多様きわまりない事物の断片のようなものとならざるをえない。せいぜい真の詩が、全体として寓意的な[アレゴリー的な]意味をもち、音楽などのように間接的な作用をおよぼしうるだけである。それゆえ、自然は純粋に詩的なのだー魔術師や-自然学者の部屋-子供部屋-物置-食糧貯蔵室もそうである。
(p316 [113])


最初のは「想像の共同体」を、次のはスクリャービンの色彩ピアノとかの先駆を、存在するものが既に過去のものであるとする次の断章経て、最後のは後にベンヤミンが「アレゴリーとバロック悲劇」で引用している(「ベンヤミンコレクション1」)
(2020 07/12)

オクタビオ・パス「弓と竪琴」から


ドイツロマン派(主にノヴァーリス)から、ボードレールやポーなどへ、そしてシュルレアリスムの20世紀へ。このインスピレーションに関していえば、ノヴァーリスとシュルレアリスムが他者性に開いた、その中間は裂け目に苦しんだ、という見立てをパスはしている。
ということで、まずはノヴァーリス。

 矛盾は不断の過程において、同一性から生まれる。人間とは絶えず自らと和合し、合体し合っている、しかし同時に、絶えず分裂し合っている、複数体であり対話である。
(p282)

 「詩人は」とノヴァーリスは言う、「作ることをしないが、人が作るのを可能ならしめる」。
(p283)


ここの「人」とは誰を指すのか、パスは考えていく。このノヴァーリスの言葉は、この後変形されて再登場する…

 詩的なるものは外部に、つまり詩の中にある何かではないし、内部に、つまりわれわれの中にある何かでもない。そうではなく、われわれが作る、そしてわれわれを作る何かである。従って、ノヴァーリスの格言をこのように修正することができよう-「詩は作ることをしないが、人が作るのを可能ならしめる」
(p286)


あれ、どこが違うのか、ひょっとして同一? とも思ったけれど、「詩人は」が「詩は」になっている。この「詩」は、「詩的なるもの」と呼ばれているものだろう。
(2022 09/11)

「夜の讃歌」(金曜日)、「聖歌」、「キリスト教世界、またはヨーロッパ」まで。

最初から一通り読み直し。
「夜の讃歌」は訳者今泉氏によると、ドイツロマン派のクリシェたる、夜、病、死の讃歌と今までは読まれ過ぎていたが、通して読むと、光への讃歌の箇所もあって、ノヴァーリスを固定のイメージで括るのは危険であることがわかる(これは他の作品でも言える)。作者は、題名を「夜に奇す」に変えたいと書簡で書いていたらしい(それが無視されたのか、届かなかったのか、作者が納得させられたのかは不明)。

「聖歌」はその名の通り讃美歌。民謡調の曲つけたり、あるいはシューベルト(ちょっと下の世代か)が曲つけたり。あるいはノヴァーリスの父親が聞いて息子の作品と知り嬉しかったとか。そして、次の講演と双子的性格の作品。

「キリスト教世界、またはヨーロッパ」…作品(というか講演)半分超えるくらいまでは、中世カトリックキリスト教を褒め称え、近代プロテスタント、啓蒙主義(カントなど)を批判する内容だったのが、終わりになるとカントの見えない教会の構想と合流する、という、これまたノヴァーリスらしい止揚主義。そして時代はナポレオンによってローマが攻撃され、教皇が追われて死んでしまうという時にあった。

 (プロテスタントは)分離できないものを分離し、不可分の教会を分割し、真の永続的な再生が唯一可能であった普遍的キリスト教組織から、無法にも身をもぎ離してしまったのである。宗教上の無政府状態が許されるのは、ただいっときだけである。
(p97)

 (この時代の哲学や宗教憎悪は)人間をかろうじて自然系列の最上位に置き、宇宙万有の奏でる創造的な音楽を、偶然という水流によって回転し、その上を漂う巨大な水車の、カタンコトンという単調な回転音にしてしまったのである。この水車は、造り手もなければ、それで粉を挽く者もいず、そもそも文字通りの永久機関であり、自分自身を挽くだけなのだ。
(p105)


この二つの文章の辺りはまだ啓蒙思想について批判的な論調。ただ、読んでいて面白い?のはこっちの方なのだけど…p97の最後の文が特に気になる。プロテスタントは「いっとき」しか成立し得ない事態をずっと留め置いているということか。p105に関しては何もなく、単に巧みだなというだけ。なんかスタジオジブリ辺りでありそうな映像…
(ちょっと偏りすぎてノヴァーリスに叱られそうだけど…)とにかく、この辺のノヴァーリス、シュライアーマッハー(この論考の土台となった講演を行った)、カント、シェリング(この作品や「聖歌」などをパロディー詩を作って批判)、フィヒテ(まだこの本では全面的に出てこないけれど、この人に対してもノヴァーリスの愛憎の二面が見られる)など。あまり前提知識は無いが、楽しそうな?時代。
(2023 02/06)

「信仰と愛」

ここで王と王妃が理想的に描かれているが、フリードリヒ二世の「君主は国家第一の下僕にして、国家第一の官吏である」という有名な言葉を否定し、国王は国民とは全く違う者だという。王妃も同じく。これは、精神的な(肉を持たない象徴的な)王であり王妃である、と自分は想定する。それによって君主制と共和制との融合、最後の断章で描かれていることが説明できる。

 政治上の一神論と汎神論が、交互に必要不可欠な二項として、きわめて密接に結びつく時代が、きっとやってくるにちがいない。
(p174)


…ちょっと前に戻って3箇所。

 わたしの恋人は宇宙の短縮であり、宇宙はわたしの恋人の延長である。学問を愛する者には、学問が恋人の代わりにいっさいを、すなわち花と思い出を、差し出してくれる。
(p133)


恋人も随分大きくなったが…ノヴァーリスの婚約者ゾフィーが1797年死去し、その後、新王(フリードリヒ・ヴィルヘルム三世)成立に合わせこの論考が書かれた。が、新王の不興をかい、最後の「政治的アフォリズム」は掲載を認められなかった。

 危機を恒常化し、発熱状態こそ真の健康状態だと信じ、その状態を維持することが人間にとってなにより重要だと考えるとしたら、愚かしいことではないだろうか。
(p144-145)


「発熱状態」というと、自分はグラックの「シルトの岸辺」を思い出す。あの小説含め発熱状態はやはり危険を孕み無理をしていて、成長や変革も可能だが、また代償も伴う。現代の経済成長信仰がまさにそれにあたり、代償として地球環境の悪化などを招いているのではないだろうか。もう一度確かめると、発熱状態というのは病気の徴候なのだから。

 だから法はひとつの芸術でなければならないのではないか。
(p170)


ノヴァーリスのいう「人間性に対する自分たちの感覚とその観察」(p169)が法源であるとするならば、確かにその法は例えば小説作品とも一致する。
1922年、トーマス・マンは「ドイツの共和国について」という講演で、この「信仰と愛」を何度も引用し称揚している。それに対し聴衆はブーイングで答えたという(「非政治的人間の考察」1918)からの変転に呆れたともいう)。マンがこのアフォリズムをどう読んでいるのか、気になってきた。
(2023 02/07)

一般草稿-百科全書学のための資料集(その1)

 病気のポエジー。病気が人生であるはずはないが、もしそうであるなら、病気との結びつきは、われわれの生存の質を高めてくれるようでなければならないだろう。
(p177)


「夜の讃歌」でも垣間見られた、死、病気への称揚。ここでは、そのドイツロマン派クリシェを突き抜けていく先を見ている、と思われる。

 (数学は)もっぱら学問一般の道具にすぎない-美しい道具とは、形容矛盾であるが、数学とは、おそらく、悟性の霊力が脱秘教化され、外的な客体、器官[道具]となったものであり-現実化され、客体化された悟性にほかならない。
(p187)


数学が悟性、人間の考える抽象的な様式、それを可視化し道具化したものだ、という考えが面白い。その他に頭の中のものを道具化できるものはないだろうか。

 両者は、自己自身のうちで他方に出会い、他方のなかで自己自身に出会わなければならない。
(p190)


今少しだけ読んでいる「他者のような自己自身」(ポール・リクール著 久米博訳 法政大学出版局)の中にそっくりありそうな…

 〈表現とは-自らを汚すこと-自らを濁すこと-自己沈殿すること〉
(p196)


これまで見てきたところ、ノヴァーリス自身の表現方法、かなり自ら汚しながら書き進めているように思われるのだが。

 長編小説は、あらゆるジャンルの文体を、共通の精神によってさまざまに統合された一つづきのもののなかに包括しているべきではなかろうか。
(p200)


これも何かテクスト論とかにつながりそうな予感。それも「文体」が複数というのが特徴。これ、多くの人々が出てくる群像劇、都市小説、「ユリシーズ」のような実験小説と移行していく考え方。

 どんな学問も自身の神をもつが、それは同時にその学問の目標でもある。
(p210)


物理学にとっての永久機関、化学にとっての万物溶解液及び賢者の石、哲学にとっての唯一の第一原理、数学にとっての円積問題及び基本方程式、人間にとっての神、医師にとっての霊薬、政治家にとっての完全(自由・平和)国家…
つねに失望させられて、そのたびに蘇る期待は「未来学」への一章へ、とのこと。
(2023 02/08)

一般草稿-百科全書学のための資料集(その2)

 哲学は散文である。その子音。彼方への哲学は詩のような響きをもつ-というのも、彼方への呼び声はいずれも母音となるからだ。哲学の両側、あるいはまわりに、+の詩と−の詩が存在する。
(p215)


子音と母音とかわからないところも多いが、とりあえず「彼方への呼びかけ」というのは、この時代、カントやシェリングでも取り上げられるテーマ。

 夢は、不思議な仕方で、どんな対象にも入り込み-どんなものにもたちまち変身するわれわれの魂の軽やかさを教えてくれる。
(p220)


ここは、ミシェル・フーコーが「ビンズワンガー「夢と実存」の序文で引用している…この注では「ミシェル・フーコー思考集成Ⅰ」に所収となっているが、その後、ちくま学芸文庫の「フーコーコレクション1」の冒頭に収録された(で、自分がちっともわからなかった(笑))。

 方法とはすべて、リズムである。世界のリズムを失うと、世界も失われてしまう。
(p221)


この辺かなあ、パスが「弓と竪琴」で言っていたのは…
パルス、明滅、揺らぎ、その他が現代物理学の概念であるなら、ここのノヴァーリスの言葉もあながち間違ってはいないはず。心臓の脈動も世界リズムと同期するためだったりして…
(2023 02/09)

一般草稿-百科全書学のための資料集(その3)

 作家もしくは芸術家は、未知の目的を有する。
(p236)


目的を持たなければならないというところだけで一部からは批判もありそうだが、それも「未知の」である。そこで方法論及び試行錯誤がその「未知の目的」を援用しつつ探し求めることと絡んで事は進む。

 錯誤は真理の必要不可欠の道具である-錯誤を用いてわたしは真理をつくる
(p242)


この錯誤が「不可欠」だという論は、ここから先表現変えていろいろ出てくる。

 学者は異質なものを自分のものにし、自分のものを異質なものにすることを心得ている。
(p262)


ここも前に見た「他者のような自己自身」の先駆的箇所かも。でも言うは易し…だとは思う(特に後者)。

 巨人を見たならば、まず太陽の位置を調べ-それがピグミーの影でないかどうか注意するがよい。
(p266)


ピグミーというのは、特定の人々を指しているのでは(ここでは)なく、安易に進めないように考えようということ。

 没入-内部への眼差し-はいずれも、同時に上昇、昇天であり、真に外的なものへの眼差しである。
(p272)


この裏返しとか、何かと何かの中間という位置の効用をノヴァーリスは利用する。

 哲学とは、そもそも郷愁であり-いたるところを家郷としたいという衝動である。
(p273)

 (恣意的なものと無意識的なものの統合。)
 (無と有の間に燃える焔)
(p276)


ここも中間主義? ここで出てくるプロティノス(新プラトン主義)は流出論など、ノヴァーリスは「私のために生まれてきた」とか言って一番のお気に入り。観念論と実在論の中間にいたのを、ノヴァーリスは「カントやフィヒテをも超える」と絶賛する。

 もしかしたら、チェスに似たゲームに基づいて-象徴的な思考構築ができるかもしれない
(p286)


ひょっとして、ナボコフここ読んだか…

寝る前少し読んで「一般草稿」は終了。

 われわれの精神は、まるで等しくないものを結合する継ぎ手である。
(p289)


特に、ノヴァーリスの書くものにそれを強く感じる。詩は普段なら結びつかないものたちを結合し合う表現であると思うが、ノヴァーリスのここの文章は、一見そうした詩的な結びつきと思われるものが、ノヴァーリスとしては実に真面目な探求そのものになっている、というのが実に興味深い。

 思考器官は、世界を産出する部分-自然の生殖器-である。
 木に咲く花は、われわれの精神の秘密のシンボルである。
(p297)


プルーストの花が全て性器に見えたというのも思い出す。ナボコフだけでなく、プルーストもノヴァーリスを読んで示唆する表現を作ったのかもしれない。それはともかく、思考(これに「器官」という言葉をつなげるのもノヴァーリスらしい)-生殖器-木に咲く花という秘密の連結がここに現れた。
(2023 02/10)

断章と研究(その1)


(2020 07/12)分再掲載、と追加分。再掲載分は今日読んだ分で終わり。[]内の数字は断章番号。

 過度の精神的活発さや鋭敏さは、容量不足を示す-(空想的で予感に満ちた人間を見よ。こういう人びとは、尺度として使うことができる。)
(p306 [24])

 詩は効果をねらってはならないということは、わたしにもわかっている-激しい感情的反応は、病気とおなじく、それこそ致命的なものである。
 レトリックでさえも、国民病や妄想の治療のために方法をわきまえて用いるというのでなければ、誤った技法でしかない。激しい感情的反応というのは、薬剤と同じであり-これを玩んではならない。
(p308 [35])

 色彩は、いわば物質と光の中間状態であり-光になろうとする物質の努力-それとは逆に物質になろうとする光の努力-である。
 性質とはすべて、上記の意味で-屈折した状態なのではないか。
(p309 [43])

 長編小説は、連続的に書いてはならずー個々の総合文に分節された構造をもっていなければならない。ひとつひとつの小さな断片は、切り離されたもの-区切られたものであり、それ自体でひとつの固有な全体をなしていなければならない。
(p309 [45])

 そもそも音楽的状態が自然の根本状態であるようにわたしには思える。
(中略)
 こうしたものは、過ぎ去った、歴史的な存在である。自然とは石化した魔法の都である。
(p312 [65])

 物語は、夢とおなじく、脈絡がないが、連想に富んでいる。詩作品は-もっぱら快い響きと美しい言葉に満ちているが-いっさいの意味と脈絡を欠いており-せいぜい個々の詩節が理解できるだけである。詩作品は、多様きわまりない事物の断片のようなものとならざるをえない。せいぜい真の詩が、全体として寓意的な[アレゴリー的な]意味をもち、音楽などのように間接的な作用をおよぼしうるだけである。それゆえ、自然は純粋に詩的なのだー魔術師や-自然学者の部屋-子供部屋-物置-食糧貯蔵室もそうである。
(p316 [113])


最初の[24]は、前半(「人間を見よ」まで)はちょっと違うのではと思えた箇所。というか「容量」とは何(他の断章でもその語使っていた)? 後半は何の尺度なのか意味不明…場合によったら興味深いのかも。
[35]は「想像の共同体」へのつながりと強い感情の危険性。
次の[43]はスクリャービンの色彩ピアノとかの先駆とそれからクンデラの文学と音楽の結合。ひょっとしたら一般相対性理論の先駆け?
次の[45]はドン・キホーテから現代小説までの、断片化され複数の物語が並走するような、それを導く断章。
存在するものが既に過去のものであるとする次の断章[65]。
最後の[113]は後にベンヤミンが「アレゴリーとバロック悲劇」で引用している(「ベンヤミンコレクション1」)。あと、断章[6](p302)とこの断章の最後の一文、唐突に出てくるけれど、ベンヤミンの「襞」やナボコフ「ディフェンス」の少年ルージンの隠れたところとか、いろいろ思い出す。
(2023 02/12)

断章と研究(その2)


[]内の数字は断章番号。

 (『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』は)たんに日常的な、人間に関わる事柄しか取りあつかわない-自然と神秘主義はすっかり忘れられている。これは詩となった市民的・家庭的物語にほかならない。このなかに見られる不可思議は、はっきりと詩と熱狂としてあつかわれている。芸術的無神論がこの本の精神なのだ。
(p331 [505])

 業務関係の文書も詩的にあつかうことができる。詩的なものに変貌させるためには、深い詩的な熟慮が必要である。古典古代の人びとはこのことを見事に承知していた。薬草や機械や家や家具調度などをいかに詩的に記述していることか。
 文体のある種の古めかしさ、素材の正しい配置や整序、アレゴリーのかすかな仄めかし、文体を通して仄見えてくるある種の不可思議さや、敬虔さや、驚き-こうしたものは、わたしが自分の市民小説のために本当に必要とする技法の本質的特徴のいくつかである。
(p344-345 [579]

 植物の病気は動物化である。動物の病気は理性化である。石の病気は-植物化である。
 どの植物にもひとつの石。ひとつの動物が照応するのではないだろうか。
 共感の現実性、自然の諸領域の並行論。
 植物は死んだ石。
 動物は-死んだ植物。などなど。
(p347 [601])

 自然は、人格化の過程が抑止されたものである。抑止されればされるほど、より自然らしくなる。
(p352 [607])


[505]断章付近の「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」関連。もともと感銘を受けたノヴァーリスであったが、徐々に批判的になっていく。「ポエジーの代わりに経済」とノヴァーリスは非難する。ただ、この先の断章では、自分の小説に比べ「マイスター」は「あの柔らかでまどかな息吹」がある、とも言っていて([537])、熱狂し過ぎて愛憎離れなくなった様子が見てとれる。

[579]…これもベンヤミンが「アレゴリーとバロック悲劇」で引用している(「ベンヤミンコレクション1」)ところ。布置によって業務関係書類も詩に代わるというのは、いかにもベンヤミン好みの断章。ノヴァーリスの「一般草稿」や「断章と研究」も、ベンヤミン「パサージュ論」などと同じく断章形式、かつ未完成(少なくとも建前上は)。ただパサージュ論の方は布置を考え、ノヴァーリスは思いつくままに書く(そのように見える)、その違いがある。

[601]ノヴァーリスの思想の突飛さに驚くが、「病気」とか「死んだ」とかで表されている向きが普通に思い描くのと反対になっている。ノヴァーリスにとって「病気」とはほぼ「熱狂」「発熱」と同じなのではないかと思う。「並行論」とは精神と自然などの間に、因果関係ではなく対応関係があるとする説。これに対して、スピノザは神の一元論(汎神論)をとった。

[607]「人格化」とは、上の「熱狂」「発熱」とはどう違うのか。ノヴァーリスにとってこの二つ軸は全くの別物と考えていたのか。それとも…
(2023 02/13)

 自由な意志に相対するのは、気まぐれな考えであり、奴隷的な無責任さ、迷信、むら気、倒錯であり、要するに、ただ偶然によってのみ左右された恣意である。ここから錯覚が生まれる。
(p360 [678])


少しは反論してみよう。相対する方に書かれたもろもろのものを引いたら、「自由」が存立する余地がないのではないか。人は錯覚無しで見ることはできないのではないか。
とも、思うけど、ノヴァーリスにとっての「自由」とはそういう現世的なものではないのだろう。

日記


婚約者ゾフィーの死後、一か月くらいの日記は「目標」、「決心」、「計画」などの語で示されている、ゾフィーのあとをおって自殺しようとする心理が書かれている。それが変わっていくのは、時間の経過とか、シェークスピアを読んだりとか、自身の哲学研究だったり、人との出会いだったりする。そして、五月十三日のゾフィーの墓の前での体験がある。ここが後に「夜の讃歌」の第三歌に取り入れられている。

 この世には、この世ならぬ起源をもち、この風土では育たない花が少なからずある。そういう花は、そもそも、より良き存在者の先触れであり、使者なのだ。この花に属するのが、とりわけ宗教と愛である。
(p383-384)


これでなんとか読み終わり。
(2023 02/14)

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